県大会決勝戦の日、香坂が帰宅したのは、夜の九時半過ぎだった。
夕方からの試合を終え、記者の取材に主将と監督が受け答えするのを待って学校に引きあげ、試合の反省会を終える頃には、九時を回っていたのだ。
全体でのミーティングの後、榛名、澤、石神、丹波、三木、そして香坂ら、投手陣、捕手陣だけが残され、全国大会でも基本的には継投で行くこと、県大会で実績を残した丹波を積極的に起用してゆくこと、などが告げられたのち、初戦で当たる福島の郡里高校の戦略についての簡単な確認を行った。
ミーティングが解散となった頃には、辺りは既に真っ暗だった。
甲子園二回戦まで登板がないと監督に告げられても、香坂は大して落胆しなかった。
自分の腕が全国に通用するものではないことをよく知っていたからだ。宮城大会では自分よりも丹波の方がいい結果を残していたので、選ばれなくても当然だと思った。
自分のここまでの努力は今大会の県大会で十分に報われた、と香坂は納得していた。それに今は、甲子園で登板できないことよりも差し迫った問題があった。
香坂は深呼吸をしてから意を決して自宅のドアノブに手をかけた。
「ただいま」
いつも通り返事はない。
香坂はリビングの隅に荷物を下ろすと、廊下の明かりをつけて階段をゆっくり上がった。登りきって右側の部屋の扉を開ける。室内は真っ暗だった。
次第に目が慣れてくると、奥のベッドに蹲る人影が見えてくる。香坂は重い体を引きずって床に散らばったタオルを拾い、ゴミを片づけた。
室内は、最近香坂が忙しかったせいで雑然としていた。
「遅かったね」
布団に蹲った影が香坂に話しかけた。それは、心を病んだ母親だった。
「今日、試合だったから」
「どうだった?」
「勝ったよ。甲子園に行ける」
わずかに弾んだ声でそう言う香坂に、相手は沈んだ声で呟いた。
「そう……じゃあ……しばらく忙しくなるわね」
言葉通りにとれば、母は事実を述べているだけだ。
しかし、その声のトーンはもっと別のことを示唆していた。
「本当はそれを後押ししてあげられたらいいんだろうけど……」
「大丈夫だよ……気にしないで」
「……こんなダメな母親でごめんね」
香坂は朝よりも気分が落ち込むのを感じた。
こんなに具合の悪い親を置いて試合に出かけるなんて、何て薄情な娘だったのだろう、と自分が恥ずかしくなった。
「ごめん。私、最近部活が忙しくて家のことちゃんとできなくて……」
「優が悪いんじゃない。こんな社会不適合の私が悪いんだよ。母親らしいことの一つもできずに子供に世話させて……。本来、こんなことをする義務なんて優にはないのに」
「どうせこの先は登板もないだろうし……いいんだ、向こうに行かなくたって」
「でも、ずっと行きたいって言ってたのに。いいよ、行ってきて」
「……。まだ夜食べてないでしょ? 何食べる?」
枕元に膝をついて尋ねると、母親は濁りきった目をそらし、呟くように言った。
「お腹、空いてない……」
「でも、何か食べて薬飲まないと。待ってて、今作って持ってくるから」
香坂はできる限り優しい声でそう言って、先ほど回収したタオル類とごみを両手に、母親の部屋を出た。
後ろ手にドアを占めて、深々と息を吐きだす。そして、ごみを床に放り出し、頭を抱えてずるずるとその場に座り込んだ。
母親があんなに苦しんでるのに呑気に試合になんか出るなんて、自分は何をやっていたのだろう?
ついこの間も死のうとしたというのに、部活にいそしむなんて薄情なことをどうしてできたのだろう?
香坂の頭の中を、そういう非難の声がぐるぐると回った。
ここ最近忘れていたが、それは、彼女にとって慣れ親しんだ感覚だった。
香坂は重い体を引きずって階下へ降り、リビングの壁にかけてある電話帳でかかりつけの心療内科の番号を確認してから煮物を作りにかかった。
◇
幼いころから、香坂にとって母親とは包み込んでくれる存在ではなく包み込むべき存在であり、守られる存在ではなく守らなければならない存在だった。
物心つく頃には、母は既にうつ病にかかっていて、普通に生活をすることがほとんどできなかった。だから香坂は小学生のころから家事全般をこなしていた。
父はいず、他に頼れる大人もいなかった。
まだ小さい頃は、叔母が心配して頻繁に来てくれていた。
しかし、成長するにつれてその頻度は減っていった。やがて母の世話をするのは香坂一人になった。
香坂にとっては毎日が戦いだった。一日一日、母親を死なせないために必死で戦ってきた。
容易にこちらの世界からいなくなってしまいそうな母の気をあの手この手で引き、彼女が望むことなら何でもした。
食欲がない、と言う母に食事を作り、何日も風呂に入っていない母を風呂に入れ、病院に行きたくないとごねる母に付き添って通院した。
煮物が甘すぎると言われれば作りなおし、愚痴を垂れ流されてもすべて聞き、苦労ばかりかけてごめん、というような罪悪感をくすぐる台詞を何とか受け流してきた。
どんなに尽くしても満足せず、死にたい、と口走ってはこちらの出方を窺う母親に、神経をすり減らしてつきあった。
そんなふうに子供時代を奪われた香坂の唯一の楽しみは投げることだった。
運動全般に優れていた香坂は、早くに頭角を現し、小学生のチームでも、中学時代もエースだった。
元々、特別協調性のある性格ではなく、集団行動は好きではなかったが、野球だけは別だった。
チームメイトに頼られるのがうれしくて、彼らのためにアウト一つとるたびに自己肯定感が増していった。汗を流している間だけは、自分が背負わされたものや、自宅の二階の「暗い部屋」の存在を忘れることができたのだ。
本当は逃げたかったのだ、とあの時を振り返って思う。
自分にのしかかったものが大きすぎて、重すぎて、背負っていける気がしなかった。だから、体を動かして頭をからっぽにして現実から目を背けたかったのだ。
しかし、時の経過に従って母親の病状は悪化し、高校に進学するころには、もはや目をそむけることが難しくなっていた。だから、なるべく家のことを優先するよう心がけていた。
しかし、今年の夏は最後の大会ということもあって、最近は家のことがおろそかになりがちだった。
連日、試合やミーティング、練習三昧で帰りが遅く、炊事や洗濯ができない日々が続いていた。それによって家が回っていかなくなり、母に暗に責められているような気がした。
練習で家を空けるたび、義務をきちんと果たしていない、母親のケアをできていない、という罪悪感に襲われる。
中学生のころから香坂を苛み続けたネガティブな感情はことここに至っていよいよ大きくなり、彼女を呑みこまんとしていた。
だから今日の試合で甲子園出場が決まった瞬間、彼女の葛藤はますます大きくなった。
相手に勝って歓喜に沸くチームメイトに肩を抱かれても素直に喜べなかったのだ。
全国大会に出場するということは、すなわち長期間家を空けることを意味している。早い段階で敗退するならまだしも、昨年のようにベスト8まで勝ち進むようなことがあれば二週間は帰れない。それは困るのだ。
甲子園にはもちろん行きたい。小さい頃からの憧れだったし、ずっとそれを目指して頑張ってきた。
だがもし遠征中に母親の訃報を聞くことになったら? 帰った家に誰もいなかったら?
そうなったらもう生きていけない気がした。
夢を叶えたいという思いと、母を失いたくないという恐怖が拮抗して香坂を悩ませ続けるのだった。
そんな中、ふと昨年の夏を思い出す。
絶対的なエースであった三年生の横川和海、自分、それに、既に頭角を表し始めていた榛名の三人で投げ抜き、甲子園ベスト8まで勝ち進んだ夏。
初めての経験に血沸き立ち、心躍らせ、夢のような時間を味わった。
この時が永遠に続けばいい、と思うほどその場所は特別で、パワーをくれた。
しかし、その夢も長くは続かなかった。戦いを終えて興奮冷めやらぬまま帰宅すると現実が待っていた。家の中はめちゃくちゃで、母親の状態は出発前よりひどくなっていたのである。
香坂はその時、本気で部活をやめることを考えた。
自分が家を守らなければ家庭は崩壊するのだということを思い知らされ、このまま部活に打ち込む日々を送ってよいのか分からなくなったのだ。
結局、仲間の後押しもあって、部活は続けることにした。
しかし、その出来事があってから、練習で無意識に手を抜くようになった。
責任の重いエースは目指さず、あえて二番手、三番手のポジションに収まるように努力を加減した。
そのせいで今や三番手に落ちかけている。天才肌の丹波は飛ぶ鳥落とす勢いで成長し、このところ榛名の地位さえ脅かすようになっていたからだ。
そういう彼女にゆるゆる練習していた香坂がかなうわけもなく、出番は減りつつあった。
悔しくないと言ったら嘘になるが、今更どうこうする気もない。ほどほど頑張って、ほどほど認められて、ほどほど投げられたのだからそれでいい、と満足していた。
今日の試合は最高だった。これまで投げた中で一番の試合だった。
だから、一区切りつけるのにはいい区切りだろう。
本当は甲子園に行きたかった。喉から手が出るほどまたあの地に行きたかった。
だが仕方ない。母を残しては行けないから諦めるしかない。
監督には事情を話してわかってもらおう。監督ならきっとわかってくれるだろうし、香坂の家のことも言いふらさないだろう。
香坂はそうして、夏を終わらせる決心を固めたのだった――。