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 21世紀前半――首都圏を巨大地震が襲った。もう何十年もくる、と言われていた首都直下型地震と、津波を伴う海溝型大地震のコンボである。津波の襲来によって首都機能は麻痺し、首都圏沿岸部も壊滅的な被害を受けた。

 この歴史に残る「令和大地震」は、それ自体は災厄でしかなかったが、日本経済には大きな恩恵をもたらした。それまでの、財務省主導の亡国の緊縮財政にここで終止符が打たれ、大幅な財政出動を政府が決断。震災復興に加え、公共インフラの整備や福祉関連事業、国土強靭化などのために大幅な公共投資が行われた結果、需要の拡大に成功し、景気が好転したのである。
 国は、長期にわたり国民を苦しめてきたデフレからの脱出に成功し、長い時を経て再び経済成長を始めた。
 この経済成長に乗じて成功した女性起業家・投資家たちが「女子野球振興プロジェクト」を発足させ、次々に女子プロ球団を創設。女子の野球人口はうなぎ登りに増えていった。

 それに呼応するようにして全国の中学・高校にも女子野球部ができ、やがて彼女たちは男子同様春と夏に甲子園で旗をかけて戦うようになった。いわゆる野球の名門校というものが女子にもできて、全国から選抜された選手たちが高校で野球留学をし、その後ドラフトでプロに引き抜かれる、というルートができた。

 こういう流れに対し、反発がなかったわけではない。頭の固い一部の人たちは、「聖域」とされる甲子園のグラウンドに女性を入れることに強い抵抗を示した。
 しかし、そういう考えはもはや時代遅れだった。女子野球は国民的な人気を獲得し、男子同様、いや、男子よりも大勢のファンに愛されるようになったからだ。

 ただパワーだけを追い求めるきらいのある男子野球よりも、より華やかで、ち密で、複雑なドラマのある女子野球は時流に乗っていた。仕掛けた投資家たちの目は確かだったということだ。
 WPB(全日本女子プロ野球リーグ/Women's Professional Baseball League of Japan)はNPB同様国民に認知される固有名詞となり、選び抜かれた精鋭たちの戦いの場になった。
 
 これは、そんな恵まれた時代に生まれた少女たちの、物語。


 榛名玲は自分の前方18メートルでミットを構えなおした幼馴染みを睨みつけた。球の処理に手間取っているうちにランナーが3塁に進んでしまったからだ。こういうちょっとした取りこぼしが失点につながることを、彼女も承知のはずなのに、集中を切らすなど許せなかった。
 
 榛名はスコアボードを振り返った。6回裏、10対0。7回コールド目前であろうと、榛名は勝ちを確信していなかった。試合が終了し、勝利を宣言されるまでは、推定敗北で試合に挑むというのが、チーム内の選手たちの態度だった。そしてその雰囲気は、エースである榛名が作りだしたものだ。

 勝ちを急がない。勝ちを確信しない。自分のプレーに満足しない。
 野球と真剣に向き合う榛名にとっては自明のことが、この付き合いの長い友人――澤樹《さわいつき》――には伝わらない。それは、プロからの注目度で言えば、榛名よりも上を行く栄徳高校女子硬式野球部の正捕手の試合目的が、他のチームメイトとは全く違うからだ。だから重要な場面で平気でエラーをして、仲間の士気を下げるようなことをする。

 澤は榛名の鋭い視線に気付いて申し訳なさそうなそぶりをするが、後悔している様子はなかった。榛名は腹立ち紛れに澤の指示とは違う速球を連投して3つ目のアウトを取った。
 ダグアウトに戻ると、榛名のピリピリした空気を感じ取って澤がすぐに謝りに来た。

「ごめん、注意はしてたんだけど………」
「いつものことだろ。もういいから」

 榛名の辛らつな口調に、周囲にいた下級生に動揺が走る。ベンチ入りして日が浅い1年生は戸惑った表情で水分をとる上級生を見ていた。一方、付き合いが長い2、3年生の多くは、またかという目でふたりを一瞥しただけだった。
 彼女たちは、榛名と澤の特殊な関係を知っていたからだ。

 2年生のうちのひとり、羽生葵《はぶ・あおい》もいい加減、ウンザリした様子だったが、ベンチの雰囲気が硬化したのを見て取って、いつものように仲裁に入ってきた。

「まあ、そうカリカリすんなって。1年がびっくりしてるよ。ものには言い方ってもんがあるでしょ? もうちょっと優しく言ってあげなよ………榛名って何で澤にだけ当たり強いのかなあ?」
「あいつが下らないミスをするからだ。あそこで取りこぼすなんて、ありえないだろ」
「まあ、それはそうかもしれないけど、あんまり1年をビビらせないでくれる?」

 榛名はつり気味の目で相手を睨みつけた。

「最後まで気抜くなよ。クリーンナップの羽生まで勝っただなんて確信してるんだったら――」
「してないよ」

 羽生は榛名の眼光を受け止めてきっぱり言った。

「審判の声聞くまではね」

 榛名は相手の答えに満足したように口の端を上げ、その背中を叩いて言った。

「頼むよ3番!」
「よっしゃー、千瀬《ちとせ》に追い打ちかけてやるぞお!」

 羽生はそう叫んで、バッターボックスに駆けていった。
 彼女がバットを振る様子を見ているうちに、榛名の怒りは次第に収まっていった。
 榛名は、近くにいる、自分の心を掻き乱した相手をできるだけ意識しないようにしながら、試合の成り行きを見守った。
 7回裏を守り切った栄徳高校は、練習試合相手の千瀬《ちとせ》高校に、今年2度目となる完封勝利をおさめた。
                  ◆

 榛名玲が籍を置く、宮城の強豪、栄徳高校の女子野球部と千瀬高校はそもそもレベルが全く違い、練習試合をするような相手同士ではない。しかし、両校が近所にあり、加えて監督同士の仲もよいため、ここ数年は頻繁に試合を組んでいた。

 千瀬高校の副主将と話していた榛名は、向こうの選手と楽しそうにしゃべっている澤が目の端に映り込んだ瞬間、怒りが再沸するのを感じた。どうにもならない獣じみた感情が体中を暴れまわってコントロールが利かなくなる。
 彼女は会話を打ち切って、向こうの2年生投手と話し込む澤のそばへ行き、帰るぞ、と校庭の出入り口の方を顎でしゃくった。澤は素直に頷いて相手に別れを告げると、榛名について歩きだした。

 千瀬高校の正門を出ると、榛名は澤に荷物を全部押し付けた。相手は何も言わずに受け取った。周りで帰途につくチームメイトたちはそれぞれの会話に夢中で、誰も口をさしはさむものはいない。
 澤は、ごく当たり前のように榛名と自分の荷物を抱え、それらをガチャガチャいわせて歩きながら眉を下げて謝った。

「あの、さっきはごめんね。集中切らさないように、気をつけてはいたんだけど………」
「その台詞は聞き飽きた。なんであんなとこで凡ミスするかな?………大方、千瀬に負けるワケないとか思ってたんだろ?」
「ごめん」

 澤は言い返さない。
 ボールをとりこぼしたあの場面、処理に手間取ったといってもほんの一瞬で、澤なら楽にアウトをとれたはずだった。それが出来なかったのは―――。
 榛名はだしぬけに澤の左肩を掴んだ。予想通り、彼女は息を呑んで荷物をとり落とした。

「昨日当たったとこか」

 コントロールを磨くための練習では、澤はミットを動かさずに榛名の球を受ける。これは二人が昔からしている練習だった。
 その練習でチップが当たることもある。
 それが偶然か故意か、澤には判断しようがない。
 だが昨日は「当てた」。
 そのことは榛名だけがわかっていた。
 こんなことは許されないとわかっている。
 だが、これまでの澤の所業を思うと、それを反省する気にはなれなかった。
 夕陽を背に用具を拾う澤を見つめながら、榛名は唇の端を引きあげて言った。

「さっき捕り損ねた球の補球練習、付き合おうか?」

 澤はスポーツバッグを肩にかけると、うつむきがちに歩きだす。
 榛名は何も答えない相手に舌打ちしてその場を離れた。
 すると、背中から声が追ってくる。悲しげで、絞り出すような、必死な声だった。

「お願いします!」

 榛名は振り返らず、じゃあ後で、とぞんざいに言って、ほかの2年生たちの一団に合流した。