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 三回戦を4日後に控えた週末、2年生の羽生は、寮の同室者のチームメイト、榛名をおちょくって楽しんでいた。
 普段ふたりの対立に散々手を焼かせられている意趣返しだ。
 何度も繰り返されたその問いーー榛名と澤は本当はめちゃくちゃ仲良し疑惑に、いい加減うんざりしたように榛名が羽生をねめつけた。

「本当しつっこいな。仲良くない!」

 羽生は薄笑いを浮かべて切り返した。

「毎日お弁当を作ってもらってるのに?」
「昔からの習慣」

 仏頂面の榛名をもっとおちょくってやろうと、さらに続ける。

「じゃあ、週末に家にお呼ばれするのも習慣?」
「それ絶対に誰にも言うなよ?」
「はいはい」
「家族で付き合いがあるから断れないの」
「なるほど?」

 羽生は適当に返しつつ、開いている漫画本のページをめくった。
 そして、榛名の外泊先を知った時のことを思い出して、クスリと笑った。


 それは、およそ1年前、羽生が栄徳高校付属の女子寮である藤花寮に入って間もない頃のことだった。東京出身の羽生は、他の多くの生徒と同じく、仙台北部の市街地が一望できる丘陵の上に建つこの寮に入寮することになった。
 単身、新幹線で仙台に来て、バスに乗り換え、三十分余り揺られた末にやってきた彼女が、案内された部屋の扉を開けたとき、彼女を迎え入れたのは、同じく大量の荷物を持った榛名玲と、石神京香のふたりだった。

 ふたりは地元出身だったが、練習に専念するために入寮を決めたと言っていた。羽生はすぐに彼らと打ち解け、行動を共にするようになった。
 榛名と石神は全く違うタイプの性格だったが、ふたりはともに、人を色眼鏡をかけることなしに見ることができる、という長所を持っていた。
 だから、羽生はすぐに彼らのことが好きになり、ルームメイトに恵まれたことに感謝した。

 そんなふうに、四六時中一緒にいたので、羽生はすぐに、榛名が定期的に外泊することに気付いた。彼女がいなくなるのは大抵週末だった。
 羽生は初め、実家に帰っているのだろう、と思っていたのだが、どうも榛名の口ぶりからするとそうでもないらしかった。それではどこに行っているのか、と尋ねてみても、榛名は明確な答えをくれなかった。

 羽生が真相を知ったのは、入部して1か月余りが経った、6月の初めだった。
 その頃、早々に正捕手のポジションを三年生から奪い取った澤を筆頭に、彼女と同じ中学出身の強打者、月島絵梨奈、そして、羽生がレギュラーの座を獲得し、他の1年生も続々とベンチ入りした。
 そのため、部内では夏大に向けたポジション争いが激化して、何となく張りつめた空気が漂っていた。
 榛名がうっかり口を滑らせたのはそんな折だった。

 榛名はある月曜日の朝、帰寮してきたときに、開口一番、澤の寝ぞうについて文句を述べた――そして、一切が羽生の知るところとなったのだった。
 澤との関係を聞いた羽生に、榛名は澤家はかなり前から付き合いがあって、週末になると泊まりに行く習慣である、と必死で弁明した。
 それで、いつもギスギスしているのに試合になると息ぴったりというこのバッテリーの謎がわかったのだった。
 ローテーブルで勉強道具を広げる榛名を横目に、羽生は漫画に目を戻す。
 榛名はなおもぶつくさ文句を垂れていた。

「今日も散々だった。先輩にはからかわれるわ、丹波は意味不明なこと言ってくるわ……」
「多分、丹波は、榛名の事をライバル視してるんだよ」
「そりゃ当然だろ。部内じゃポジション争いあるのが普通だ」
「いや、そうじゃなくて……」

 羽生は榛名の視線を感じつつ、寝転がったまま言った。

「『澤の投手』になりたいんじゃないかな、あの子」
「ああ」

 榛名はそんなことかというように気の無い声を出した。

「丹波も澤信者だったっけ」
「あの子投手に好かれるよね。才能?」
「取り入るのがうまいだけだろ。皆騙される。だから丹波には忠告してやった。あまり入れ込みすぎると痛い目見るぞって」
「そこよくわかんないんだけど」

 羽生は漫画を床に置いて起き上がった。

「澤、性格いいじゃん。ちょっと勝負への意欲が低いけど、投手を立てるし、肩強いし、リードうまいし、チームの要としてよくやってると思うよ。ちょっと抜けるときはあるけどさ。榛名はどうしてそんなふうに言うの?」

 羽生の問いに、榛名は苦虫を噛み潰したような表情になった。

「何でって……性格悪いから」

 渋面を作る榛名に、羽生は呆れたように言った。

「過去になにがあったか知らないけど、私たちは今このチームで戦ってるんだよ。いい加減水に流してやりなよ、小学生じゃないんだから」
「じゃあ!」

 榛名は羽生を睨みつけて叫んだ。
 見たこともない程苦しげな表情だった。

「羽生は! あんな才能の塊みたいなやつが小学生のころから寝ても覚めても隣にいて、いつも背中を追うしかない私の気持ちが分かるのかよ!」

 羽生は驚いて目を見開いた。
 榛名がこんなに追い詰められている姿など、見たことがなかったからだ。
 榛名はぶっきらぼうだけど優しくて、誠実で、そして強かった。
 弱音を吐いたところなど見たことがなかったし、人と自分を比べるようなタイプでもないと思っていた。
 しかし、その考えは間違いだったらしい。
 劣等感で苦しんでいたのだ。
 羽生は、榛名が澤を足蹴にする理由がなんとなくわかった気がした。

「走っても守っても打ってもいつも一番。可愛くて頭だって良くて、みんなに好かれてる。そういう澤の隣にい続けるのがどれだけ大変かわかる? 私はいつも悪者だよ。……それに澤が投手だったら私は三年間控えだ。私が捕手だったら、多分この学校に呼んですらもらえない。こんなこと言うのはダサいってわかってるけど……心底あいつが嫌いだよ」

 そういってうつむく相手に、羽生は励ますように言った。

「だったら、だったらってそれは仮定の話じゃん。榛名はいい投手だよ。澤が投手になったとしても、榛名ほどコントロールがきくか分かんないでしょ? 球種の投げ分けにだって技術がいるし――」
「それでも、澤はできるよ。あいつに出来ないことなんか一個も――」
「あのさあ」

 羽生が急に低い声を出したので、榛名は顔を上げた。
 羽生は相手の目を見据えて、苛立ちまぎれに言った。

「あいつに出来ないことなんか何もない? じゃあチームメイトのケツに火つけたりできんの? みんなの士気あげたりできんの? 同じ投手として丹波にアドバイスできんの? できないでしょ? 
 澤ははっきり言ってスポーツ向きの性格してないし、皆だって薄々それに感づいてるから、いざとなったら榛名とか金沢先輩のとこに行くんじゃないの? 正直、あんなのんびりした掛け声じゃ勝てる試合も落とすよ」

 いつになく真剣な羽生に、榛名は虚を突かれたような表情をした。

「足りないもんばっか数えてないで持ってるもの見なよ。自己憐憫に浸ってないで前向け。いい加減、澤に八つ当たりすんのやめな」
「羽生……」
「これ、全部本気だから。私が嘘つくの下手なの知ってるでしょ」

 羽生はそう言い捨てると、トイレに行ってくる、と呟いて部屋を出た。



 静寂が戻った部屋で、榛名は茫然と羽生が出ていった扉を見つめていた。
 頭の中では羽生の言葉が反響していた。
 澤は何でもできるわけじゃない。あいつは神じゃないーーそんなことは分かっていたはずなのに、羽生に言われて、自分が本当には理解していなかったことに気付いた。
 自ら作り上げた『澤像』が実物よりもはるかに巨大に、完璧になっていたことに、自分で気づいていなかったのだ。

 澤はすごい。澤には追いつけない。澤には敵わない。
 幼い頃から榛名を呪縛してきたそういった考えは、自分を閉じ込めるべく作り上げた檻でもあった。
 途中、澤が投手を辞めたことでその思いは一層強くなり、裏切り行為の件も相まって中学三年に上がる頃には、一刻も早く別のチームに行きたくて仕方がなかった。
 だから、進路については何度聞かれても絶対に答えず、チームメイトや同級生にも極力言わないようにしていた。

 憧れの栄徳高校に入って、晴れて澤から解放されると思ったのに、部活の顔合わせに行ったら、彼女がいた。
 申し訳なさそうな、嬉しそうな顔をして、白々しく「はるも栄徳だったんだ」とか言ってきた。
 その瞬間に受けた衝撃と怒りは、ちょっと言葉にできないほど大きかった。
 また裏切られた、そう思った。

 澤は首都圏の高校から声がかかったと言っていたから、てっきりそちらに進むかと思っていた。なのに、栄徳のグラウンドを走っていた。
 完璧を具現化したような幼馴染み、もはや友人でもなくなった幼馴染みが自分の前を走っているーーそのことが苦痛で仕方がないのに、当の澤はニコニコして「また一緒に野球できるね」とかほざいてきた。
 腸が煮えくりかえって仕方がなかった。
 それで高一のときは荒れていた。

 澤がやすやすボールをとるたび、お前に、私に捕れないボールなんて投げられやしない、と嘲られているようで、練習が苦痛になった。
 配球に関しては、意見の相違がほとんどなかったので気を遣う必要がなかったのがせめてもの救いだったが、いつも前方にはかなわないライバルがいてミットを構えている、という状況は、次第に榛名を追い詰めていった。

 二年生になると、さらに最悪なことに、バッテリーを組むことになった。
 中学の部活を引退したとき、もう金輪際組むものかと思ったのにまた組まされた。
 その後は地獄だった。
 ブルペンに入るたびに正面に座る澤に、お前の全力投球はそんなものか、制球力はそんなものか、と言われているようだったからだ。
 あからさまに避けているのに、毎度球をとらせてくれと寄ってくる澤が憎くて仕方がなかった。

 しかしそのイメージは、半分は事実だったとしても、半分は幻想だったのかもしれない。
 羽生のいうとおり、澤は完璧ではないし、自分だってそこまでダメ投手でもないのかもしれない、と榛名は思った。
 澤が試合中に微笑んでいるのは、多少なりとも自分の球に満足しているからかもしれない。
 そう思うと、このところ感じていた全身のだるさが軽くなったような気がした。地に落ちていた自尊心が再び鎌首をもたげてきて、気分が少し上向きになる。

 榛名は不意に立ち上がって、机のわきに置いた鞄の中に手を突っ込み、携帯電話を取り出した。
 そして、若干緩んだ表情でメッセージアプリを開き、長いことシカトしていた澤からのメッセージに既読をつけたのだった。