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 その翌日の夜、榛名は澤の実家にいた。そして前の週と同様、澤の家族と夕食をとった。
 これは、いつからか習慣になった慣例だった。母が亡くなってからかもしれない。
 妻を亡くしたショックでワーカホリック気味になった榛名の父親が休日出勤するようになって、心配した澤の家族が家に泊めてくれたのが始まりだった。
 父親はのち回復したが、その習慣だけが残っていまだに週末は澤家で過ごしている。
 榛名は食事を終えると片付けを手伝い、風呂に入った。
 それからいつも泊まっている1階の客間に引っ込み、布団に寝転んで天井の木目を眺める。
 そして澤との関係性について思いを馳せた。
 そもそも弁当と、バッテリーという関係性と、澤の後先考えない「自分のトクベツは榛名」とかいった発言のせいでめちゃくちゃ仲が良いとか思われているわけだが、ふたりは、実際には友人とすら言えるのか分からない関係だった。
 チームメイトではあるかもしれないが、ほとんど野球以外の事など話さないし、学校で大してやり取りがあるわけでもない。
 家族構成は知っているが、それは実家の親同士の仲が良かったからにすぎない。
 榛名は長年、澤のことを何考えてるか分からない変なヤツ、位にしか思っていなかったし、今でもそれはあまり変わらない。
 意味不明なことを言ってくるし、行動原理もよく分からない。
 例えば、
「失礼します。お茶どうぞ」
 茶を出してくる所とかーー。
「あのさあ、私客じゃないんだからそんなん出さなくていいって毎回言ってるよね?」
「ご、ごめん。下げるね」
「いいよ、せっかく出してくれたんだから飲むよ」
 どもりながらお盆と湯呑みを下げようとする相手を制し、榛名は身を起こして仕方なしに湯のみを持ち上げた。
 そして二、三口茶をすすってから、思い出したように枕元に置いてあった翌日の相手校のデータ表を手にとった。
「明日の試合だけど、4番はやっぱりあまり簡単に歩かせちゃいけないと思う。すごいバッターだけど足も相当速いから、盗塁が気になる。5番は小柄だけど、打率がいいから続かれる可能性が高い。相手も澤の肩は知ってるからそうポンポン走らせないと思うけど、4番の足は怖い。万一三盗でもされたらチームの士気に関わる。だから最初から歩かせるんじゃなくて、歩かせてもいいつもりでクサイとこついていった方がいいと思う」
 資料片手にそう言う榛名に、澤はうなずいた。
「私も同じようなこと考えてたんだ。この4、5番は、去年の秋大で桜木のキャッチャー相手に三盗してるし」
「え、まじ? さすが50メートル6秒台。こういうのは早めに処理したほうがいいな」
「うん。とにかく4番、5番は警戒だね」
「うん」
 榛名は頷いた。そして、自分の前に座ってデータ表を眺める澤の左手を掴んだ。
 澤は驚いたように目を見開いて榛名を見返した。
「この前の痣、どう?」
「……大丈夫だよ、もう。大したことなかったから」
「そう……。ごめん、やりすぎた」
「でもあれは必要な練習なんだから仕方ないよ」
「違う……。あの時はわざと」
「え?」
「わざと当てた」
「………いいよ」
「いいよ、じゃないだろ。これまでも、色々ごめん。酷いこと言ったりしてさ。何というか、今更って感じだけど………」
「違う。謝るの、私の方だよ」
 じわり、と澤の目のふちに涙がたまった。
「本当は野球する資格なんて無いのに、いつまでもはるに甘えてさ……。嫌がってるのに無理やり球放らせて。自分のことばっかり考えてて……はるが怒るのも当然だよ」
「資格あるとかないとか、そんな話じゃないだろ」
「で、でも」
 ついに澤の目から涙がこぼれおちた。
「ひと、ごろし、なのに……」
 その言葉に榛名は顔色を変え、資料を放り出して澤に向き直った。
 普段澤の言うことはだいたい無視しているが、その言葉だけは看過できない。
「違うよ」
「でも、私があの時ジュース飲みたいって言ってなかったら……あの時はるんちにいなかったら……はるのお母さんはまだ……」
「もし、なんて歴史には存在しないんだよ」
 榛名は澤の言葉を遮った。
 こういう状態の澤を放っておくと発作を起こす。経験上それがわかっていたから、宥めるように言い聞かせた。
「そんなこと考えても仕方ないじゃん。悩んだって過去は変えられない。しょうがなかったんだよ。澤はあの晩うちに来る運命だったし、私は母親を亡くす運命だった。それだけだよ」
 その言葉は、榛名が常に自分に言い聞かせている言葉でもあった。そう思わなければ、とてもやり切れなかったからだ。
 母親はなぜ、あの日、あの場所で死なねばならなかったのか、などと考え始めるとキリがなかった。
 無限の思考ループに陥らないようにするため、榛名はいつも事故は不可避だったのだと自分に言い聞かせていた。
 しかし、どんなにそう思い込もうとしても、心の奥底では常に「なぜ」と「もし」がいまだ燻ぶり続けている。
 身をちぢこめて泣く澤の背中をさすり、榛名は呟くように言った。
「澤は悪くない。あれは運命だった」
 その晩榛名は澤が落ち着くまでそうしてそばにいて、一緒に寝てやったのだった。