金沢悠木はその日の朝、何となく嫌な予感がして目覚めた。夢の内容は忘れたが、寝覚め爽やかとは言い難く、口内に苦みを感じた。
将元大付属を打ち崩す戦略は十分に練ってあったが、それは守備が固い、という前提での話だ。抜群のコントロールと多彩な変化球を持つ2年生のエース、榛名玲と、やはり2年生で、強肩と緻密なリードが持ち味の正捕手、澤樹がうまく機能してくれてこその打線だった。打線より守備に優れる栄徳にとって、はるさわバッテリーは要だった。
ふたりがDVカップルのような共依存の関係であったとしても、パフォーマンスが良ければ何の問題もない、と金沢は考えていた。
年季の入ったバッテリーでは、両者が互いに依存しがちになることもある。それに、気性は荒いが根は優しい榛名が、超えてはならぬ一線を越えるとは思えなかった。
関係性が共依存で安定しているときはむしろいい。問題なのはその均衡が崩れたときだ。どちらかがどちらかから独立しようとしたときには、事件が起こるだろう、という予感があった。“その時”が願わくば大会が終わったあとであるように、と祈りつつ、金沢は寮の食堂に向かった。
まだ早朝だったために食堂内は閑散としていて、ちらほら見かける寮生は野球部員ばかりだった。食堂の中ほどで朝食をかき込む下級生に目を止め、金沢はその隣に腰掛けた。
「先輩、おはようございます」
「おはよ」
一瞬卵かけご飯をかき込む手を止めて挨拶をしたのは、金沢の真上に住む2年生、羽生葵と石神京香だった。
榛名と羽生はしょっちゅう喧嘩ともいえないような喧嘩をしているが、論争の原因はいつもくだらないことばかりだ。どっちの背が高いだの、夕食の献立予想がどうの、どっちのデザートが多いの、ほとんど小学校低学年レベルのことで喧嘩をしている。
いや、喧嘩をしているというよりはじゃれあっていると言ったほうが正しいだろう。ふたりがケンカを翌日に持ち越したのを見たことがなかったからだ。
「先輩、なんかねむそうですね。緊張で眠れなかったんですか? 全然見えないけど意外とデリケートですよねー」
「朝っぱらから喧嘩売ってんの?」
石神は金沢をおちょくる榛名を完全に無視して箸を進めていた。金沢は榛名の脇腹を思い切り小突いた。
「いてっ、いてててっ! ひどいっ。本当のことをオブラートにくるんで言っただけなのに……」
「どこがくるんでんのよ。今日塁に出ないと、今晩どうなるか分かってんだろうね? 特にこの前の練習試合みたいにゲッツーなんか食らいやがったら……」
首をがっちりホールドする金沢に、榛名が悲鳴じみた声を上げた。
「それ2か月も前の話じゃないですか! もう先輩ねちっこいんだからー。………って、いでででで! 首絞まるっ! 石神たすけてっ!」
石神は律義に榛名の救援要請に応え、どもりながらも金沢にやめてくれるよう頼んだ。
「せ、先輩、いつもはるちゃんがご迷惑かけて、す、すみません。放してやって、もらえませんか?」
金沢は顔を青くしている榛名を見て腕を放した。
そしてせき込む後輩を横目で見ながら石神の方を見る。
「石神も小学生のお守ばっかりで大変だねえ、同情するわ。でも、ま、キャッチャーとしてはいい経験になるかもな。榛名も、澤よりも石神の言うことのほうがよくきくだろうし。いずれはバッテリー組む仲だからねえ」
「そ、そんな、お守とかじゃないです。お世話してもらってるのは、む、むしろ私のほうで……。それに、はるちゃんの球とるなんて、練習ならまだしも、試合じゃこの先ないと思うし……」
「え、なんで?」
不思議そうな顔の金沢に石神はうつむいて答えた。
「だ、だって、樹ちゃんにはかなわないので……。はるちゃんは私のこと頼りにしてるって言ってくれたけど、実際マウンドに上がったらきっと失望するよ」
「何だ、そんなことか。じゃ、澤を蹴落とせばいいじゃん」
「え?」
アッサリ言い切った金沢の言葉に石神が顔を上げる。
続けて羽生も言った。
「ポジション争いなんて茶飯事でしょ? 友達だからって遠慮することない。澤は京ちゃんに正捕手とられたくらいで拗ねないよ。最初からあきらめずに向かってきなよ。京ちゃんの肩だってチーム内の平均からしたら相当いいんだから、自信持って」
「む、無理だよ……私、樹ちゃんみたいなリードできないし、肩だって樹ちゃんに比べたら―――」
「ったく、どいつもこいつも澤、澤ってさあ」
羽生は手荒く箸をプレートにたたきつけた。
比較的静かな食堂内に硬質な音が反響したが、周囲には寮生がいなかったために、気づいたものはほとんどいなかった。
しかし、羽生の真向かいに座っていた石神はその音にびくりと体を震わせ、伏し目がちに相手を窺った。
羽生は、らしくもなく感情を露わにし、苛立った口調で言った。
「これだけ多くの部員に戦意喪失させるなんて、澤も相当だわ。だけど、澤のせいなの? 澤には才能がある、それは否定しない。栄徳の看板背負ってるのも事実だよ。だけど、あの子が注目してくれって頼んだ訳じゃない。周りが勝手に騒ぎ立ててるだけだろ。それに、期待されるってのはいいことばっかりじゃない。いつも最善を要求されて、少しでもミスをしたらガッカリされる。そういうプレッシャーに晒されたことある? 相当しんどいと思うよ。注目されるってことは、それだけいろんな人に、いろんなことを好き勝手言われるってことでもあるんだ。それに、いろいろ言ってくるのは外野だけじゃない。うちのチームは雰囲気いいから誰も表立ってそんなことは言わないけど、やっぱり妬む人はいるよ。京ちゃんがそうだとは言わない。だけど、澤の才能を言い訳にして最初からあきらめてるんなら、妬む人達とあまり変わらないと思う。そういうの、よくないと思うんだ。誰だって完璧じゃないし、逆に、全てがダメな人間もいない。誰もがもっと良くなる可能性を持ってる。だから、澤を引き合いに出して努力を怠っちゃダメだよ……自分の限界を狭めたらもったいないよ」
「努力は、し、してるよ……でも、ど、どうしたってかなわないあ、相手はい、いるわけで……努力でど、どうにかなるんだったら、だ、誰も、苦労し、ないっていうか……」
どもりつつ反論する石神に羽生は暫時沈黙し、それから先ほどよりも落ち着いた声音でおもむろに言った。
「実を言うと、私もそう思っちゃうときはある」
金沢は、羽生の言葉に息を呑んだ。
「バカスカ打つ澤を見てると、焦るし、情けない気持ちになるときもある。どうしようもないなーって日も正直ある。だけど、自分が競れるような相手がいるって基本的に幸運なことだと思ってるんだ。だって、そのほうが自分の目標がよく定まるじゃん? だから、まだあきらめるのは早いって」
金沢は同意の印に頷いて言った。
「そうだよ。それに、監督は捕手であっても連戦試合に出すことはまずない。今日みたいな将元戦はともかく、四回戦では石神が先発だよ」
「え? 次の試合、樹ちゃんは出ないんですか?」
「たぶん」
金沢は顎を引いた。
「監督は石神にも期待してる。それわかってる? ちゃんと育ててくれようとしてるんだよ。だからあんま気落とすな!」
「わ、わかりました」
石神の表情は先ほどより明るくなっていた。それを確認し、席を立つ。
「じゃ、さきに学校行くわ」
金沢はそう言って後輩たちに手を振ると、食堂から立ち去った。
そして学校に行く道すがら、羽生について考える。
正直、先ほどの会話で羽生のことを少し見直した。
いつもふざけているようでいて、部内の雰囲気を敏感に察知して、チームメイト間の潤滑油になることができる存在は貴重だ。
だがそれだけだと思っていた。潤滑油、調停役という言葉がふさわしいような役回り。
だが、先ほどの言葉はそれ以上だった。
自信を喪失したチームメンバーを鼓舞し、士気を上げることまでできるらしい。
ならば、次期主将候補として考えねばなるまい。
夏の大会が終われば三年生は引退し、新体制が始まる。
その際に誰を主将にするかは悩ましい問題だった。
現二年生は確かに才能がある子が多いが、まとめ役がいないのだ。
現時点でレギュラー入りしているメンバー、榛名、澤、月島、羽生、築地辺りから選ぶのが順当だが、これという人物がいない。
榛名はリーダーシップはあるが言いたいことを言うタイプなので敵も多い。澤は一見人当たりが良く才能もあるが、その実榛名以外には興味がない。
月島は一匹狼タイプ、築地はムードメーカーだが少し空気が読めないところがある。
こうして見てみると、羽生が最も適任な気もしてくる。
決断力とリーダーシップには欠けるが、そこは補佐として榛名辺りを入れれば問題ないだろう。
そうして主将の人選をあれこれ考えているうち、過去のことが思い出されてくる。
金沢の期の主将決めは波乱だったーー。