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 県予選の初戦を順当に勝ち上がった栄徳高校は、その四日後に三回戦を迎えていた。
 相手は栄徳に次いで甲子園出場回数の多い強豪・将元大付属高校だった。
 女子野球では県四強に入る上、今年は特に選手層が厚いといわれていた。
 だからこの試合が実質決勝ともいえる。
 下馬評でも今年は栄徳か将元大付のどちらかが甲子園出場を決めるだろうと言われていた。
 その試合で先発を任されたのは、三年生投手の香坂優だった。

 七月、まだ梅雨明け前の重く湿った空気の中、会場となった市民球場で試合開始のコールが叫ばれる。風の強い日だった。
 主将の菊池東亜は先攻・後攻を決めるじゃんけんに負けたが、相手が先攻を選んだので後攻をゲットしてきた。
 向こうが先攻をとるということは、最初に一発かましてこちらの勢いをそぐつもりだろう、と香坂は思案を巡らせる。
 実際に、将元大付属の3、4、5番のクリーンナップはもちろんのこと、それ以外の打者も県内トップレベルの打率を誇るものばかり。投手の出来に不安を感じる向こう側の監督が先手必勝策を講じてきたとしても不思議はない。

 序盤で先発の球をとらえて、点取り合戦に持ち込めば向こうが勝つのは明白だった。まあ、簡単に打てるような球を投げるつもりはないけど、とマウンドの土をならしながら思う。
 完投はしていないものの、今日を含めこれまで3試合連続登板をしている香坂は、榛名にエースナンバーを奪われた栄徳高校女子野球部の3年生だった。
 球速はそれほどないが、コントロール抜群で、並の打者は打てないようなエグい球を投げる榛名に、つけて半年しか経っていない背番号1番を持って行かれた時のことは今でも忘れられない。

 中学のチームでは2年生からエースを張っていた香坂にとって、降ろされたことは屈辱で衝撃的だった。
 それまで一度も1番を譲ったことはなかったし、それが当たり前のことだと思っていた。1番は自分のために用意されていて、自分がそれをつけるに最もふさわしい者だと本気で思いこんでいたのだ。
 栄徳高校から野球特待生の話が来たときもさして驚かなかった。栄徳高校は女子野球に力を入れていて、特待生の枠を多めに取っていることを知っていたからだ。

 中学時代より競争が厳しいだろう、という懸念はあまりなかった。
 それよりも、徒歩5分という立地の良さの方が重要だったからだ。
 そんなふうに、ある程度の自信をもって野球部の門を叩いてみた香坂のベンチ入りは早かった。同学年の中じゃ一番肩が良かったし、球種の多さ、コントロールの良さで香坂をしのぐ者はいなかった。

 先輩にはかなわなかったが、こっちのほうが経験が浅いうえに体の大きさも違うんだからしょうがない、と香坂は割り切っていた。
 努力しなかったわけではないが、上級生のピッチャー相手にポジション争いをする気は起きなかった。
 いずれ、時が来ればその位置には自分がおさまるだろう、とタカをくくっていた。

 2年生の夏大が終わって上級生が抜けると、思った通り香坂は1番をもらえた。しかし、その番号を背負えたのは半年だけで、3年生になるとすぐに後輩に奪われた。
 香坂を引きずり下ろした2年生の榛名玲は、彼女と同程度かそれ以上の球威の球を投げることができ、球種はより多く、コントロールもより正確だった。そのために榛名は、相手打者に応じた配球をほぼ失投なく投げることができ、同期の天才的な捕手、澤樹のリードのもとで次々打者にバットを振らせていた。

 また、リードはほとんど捕手任せの香坂とは違い、榛名は配球に関しても熱心で、よく試合前に澤や石神と話し込んでいるのを見かけた。
 榛名のほうが自分より良い投手であると、香坂は認めざるを得なかった。野球にかける情熱も、資質も、防御率も、榛名のほうが優れていた。
 下級生に引きずり降ろされて、屈辱や劣等感を感じなかったと言ったらうそになる。悔しかったし、泣いたりもした。

 しかし、ショックから立ち直るのに、思ったほど時間はかからなかった。香坂自身もそれがなぜであるかわからない。ただ、その成り行きに妙に納得した感じを覚えたのも事実だ。
 1番を背負っているより、10番をつけるほうが、なぜかしっくりきたのだ。
 スポットライトの真下にいるよりも、一歩引いた、少し薄暗い位置に立つ方が居心地が良かったのだろう。

 自分は基本的に投手に向いていないのかもしれない、と思いながら香坂は、前方にしゃがみこむ澤に向かって球を投げた。
 ポジション争いをする勇気もなく、野球にかける思いも他の選手に比べたら薄い。
 ただ頭を空っぽにできるからという理由で野球をやってきたツケが回ってきた気がした。
 しかし、そんな鬱々とした気分も球を投げていれば晴れる。なぜかは知らないが、野球で悩んでいても野球をしていれば忘れられるのだ。だから辞めずにこられたというのもある。
 何事も長続きせず、集団行動も苦手な香坂が唯一続けてこられたのが野球だった。

 正直、自分のボールがミットにたたきつけられるときの音を聞くほどの快感もないと思う。キャッチャーが良ければ尚更だ。
 どんなに沈む球を投げても絶対に後ろに逸らさないキャッチャーと初めて出会ったのは高校に入ってからだった。
 それまでは気を遣って投げていたのだが、どんな変化球でも受け止めてくれる上手いキャッチャーと出会ったことで、その気遣いから解放された。
 その相手が現主将の菊池だった。
 菊池とは一年生の頃からバッテリーを組んでおり、この最後の夏大も当然一緒に出るものと思っていた。
 だが、そうはならなかった。菊池を一瞬たりとも正捕手にさせなかったのは、怪物じみた身体能力を持つ当時の一年生、澤樹だった。
 この選手は、中学時代に榛名とバッテリーを組んで弱小公立校でありながら国体に出場し、驚異的な打率と強肩で有名になった捕手だった。
 プロのスカウトから注目され、テレビでインタビューを受けているのを見たことがある。
 その時に感じたのは、元から知ってはいたが、神はやはり不公平だということだった。
 澤は、野球が上手い上に成績は学年トップで、その上可愛かったのである。
 この天才美少女キャッチャーにオッサンメディアが食いつかないはずもなく、その後も何度か取材を受けていた。
 その澤が栄徳に来たと知ったときは少し驚いた。なぜなら、澤位の選手であれば、首都圏、あるいは関西圏の強豪校へ行くのが普通だからだ。
 栄徳も弱くはないが、高校野球は男女共に関西の方が強い。本場だからだ。
 地元とはいえ栄徳に来るとは思わなかった。
 だから最初は驚いたが、親が過保護とかなのかもしれない。
 男子野球ではそういったことはきかないが、女子野球では結構親が越境留学をさせないという話をきく。娘があまり早く親元を離れるのを好まない親が多いのだろう。
 だから、それに見合う形で女子高校野球においては、県ごとの強さの差が男子ほどではない。強い選手が出て行かないからだ。
 澤もそういうケースだったのだろう。
  
 だから彼女は各地から選抜された選手たちの中でも群を抜いて上手い。
 四番と同等に打つし、肩は強いし、送捕球の精度も高いし、リードもうまい。一年生の頃からだいたいの試合で相手をボコしているのである。
 これに菊池が敵うわけもない。それであっさり正捕手を取られてしまった。
 そのときほど、自分のポジションが投手で良かったと思ったことはない。
 榛名や他の投手ももちろん上手いが、戦意を喪失させるようなレベルではなかったからだ。
 もし澤が投手だったら野球を辞めていたかもしれない。そう思わせるほどに澤の運動能力は化け物じみていた。
 そんな澤と初めて組んだのは、澤が正捕手となった九ヶ月前。
 それから学んだことは、言うとおりに投げてりゃまず炎上はない、ということだった。

 はじめのうち、香坂は澤の配球に疑問を感じることが多くて、よく首を振っていた。
 だが、そうするとたいてい打たれて後悔した。
 それを繰り返すうちに基本リードは任せた方がいいという結論に至った。
 澤の頭の中には、相手の身長、体重、過去の成績、得意コース、不得意コース、打率、バント成功率、今期の調子、過去の怪我の有無、短距離のタイム、長距離のタイム、相手監督の好みのプレイスタイル、その他もろもろの膨大なデータが入っている。
 澤はその前提の上で、相手の狙い球や、バスターなのか、スクイズなのか、待球指示がでているのか、などを見抜いて、その時に最適な球を、投手の調子を見ながら指示してくるのだ。

 指示を無視しようが、サインと違う球を投げようが、澤は怒らない。
 今日はフォークを投げたくないとそれとなくほのめかせば別の配球をすぐに提案する。
 「この状況ではフォークが最適なんだ」とか「あの打者はフォークで討ち取らなきゃいけないのに」とか、普通の捕手が言いそうなことを澤は一切口にしない。
 彼女は主張しない捕手だった。投手に従順とも言えるかもしれない。
 だから投げやすい、と言う投手もいるし、逆の投手もいる。
 自分のやりたいようにしたい香坂は前者だった。だから澤との相性はいい。

 気分良く投げているうちに試合はあっというまに進んで、5回表になっていた。
 コンディションの良い試合は進みが速い。
 予定では香坂の出番はここまでのはずだった。
 スコアボードに目を走らせると、将元大付属高校はここまで5失点、栄徳が1点リードの4失点。
 いつもよりは打たれたが、将元の強力打線を相手に我ながら健闘していると思いつつ球を放った。
 すると、甘いところに入ってしまい、ヒットを打たれる。すでに出塁していた打者が2塁へ進んでワンナウト1、2塁。

 香坂は額の汗をぬぐった。ここで4番かよ、と内心舌打ちをして澤の指示を待つ。
 外角低めにボール球のシュート。
 頷き、言われたところに投げる。
 バットは動きもしない。
 次は、内角高めにカーブ。これも枠から外す。
 今度は思ったよりいいところに決まって、相手がバットを振った。
 間の抜けた音とともに、ボールはファールエリアに飛んでいった。

 続くボール球は見送られ、カウントはワンナウト2ボール1ストライク。
 次のサインを出す前に澤の表情がわずかに変化した。何かに気づいたようだ。
 澤は外角高めを要求した。
 香坂がストレートを投げるのと同時に走者が地面をける。バットをすり抜けたボールを澤がとって、3塁に送球する。
 球が唸りながらサードがグローブを構えた場所に収まった。

「アウト!」

 栄徳高校側のスタンドから歓声が上がる。
 投手かよ、と相変わらずの制球力に半ば呆れながら、4番と対峙する。
 先ほどのボール球要求は、盗塁を見越してのことだったらしい。
 これでカウントは2アウト3ボール1ストライク。

 次のサインは外低めにストレートのボール球。手を出してこないと思ったが、ヘタに二塁打などを打たれるよりも歩かせたほうがマシなのはわかっていたので、要求通りに投げた。
 すると、相手が意外にも手を出してきてゴロ打ちとなり、5回表は栄徳が点差1点を守ったまま終了した。
 香坂は息をつき、マウンドから降りてベンチに戻った。


 香坂がベンチに戻ると、後から戻ってきた澤にナイスピッチでした、と言われた。

「澤こそ、ナイス守備。助かったよ」
「三盗は絶対阻止ですよ」

 澤がわずかに笑った。いつもの愛想笑いを浮かべようとして失敗した顔だ。
 それになんとなく違和感を覚えた。

「なんで盗塁してくるってわかったの?」
「うーん、しいていえばにおいですかね」
「におい?」
「はい」

 澤が防具をはずしながらうなずく。

「あの2番、けっこう足速いし、そろそろやってくるんじゃないかと思ってたんです」
「ふーん」
「さっきの打席、2球目、振らせたのが大きかったと思いますよ。1個ストライクとれたことで相手に盗塁を急がせ、こちらのタイミングで走らせることができたと思います」

 澤の言葉に、香坂はわずかに目を見開いた。そして、軽く吐息をついて、わずかに笑みを浮かべる後輩を見る。
 何も考えていないようでいて、毎度戦略を練り上げてくる彼女に改めて感謝の念がわいてきたからだ。リードを投げっぱなしの香坂に文句ひとつ言わずに球を受けてくれることを改めて思い出す。
 
 それと同時に、そんなに一生懸命やってくれている彼女をブラックホールミット呼ばわりした自分が恥ずかしくなった。
 この間、澤にお礼を言ったのはいつだった?――思い出せなかった。
 香坂は意を決して口を開く。

「あのさ……」
 
 しかし言いたいことを最後まで言えなかった。
 澤はすぐにきびすを返し、ベンチの右手奥にいる榛名のもとへ駆けて行ってしまったからだ。
 澤が膝を折って榛名とデータ表をのぞき込んでいるのを眺めているうち、高揚していた気分が沈みこんでいった。
 出番は終わってしまった。監督の感じからして続投はない。彼女はよほどの大事がない限り、予告通りに投手の入れ替えを行う人だった。
 二人を見ていると、榛名の顔色が変わるのが見える。それと同時に澤が榛名の肩に顔を埋める。
 いつものようにイチャつきだしたのか? いや、それにしては様子がおかしいような……。
 澤の肩がわずかに震えている。まさか、泣いて……?

 この異変に気づいたチームメイトはほとんどいなかった。
 だが副主将の金沢は気づいたようだ。
 二人に寄っていって低い声で榛名と言葉を交わしてから監督に何かを報告する。
 監督は澤の方を見てわずかに眉をしかめ、金沢に何かを指示した。
 すると金沢は再びバッテリーのところへ行き、澤の肩を叩いて立ち上がらせ、二人を連れてダグアウトを出ていった。
 裏で落ち着かせるのかもしれない。
 その動きに気付いた選手たちが不思議そうな顔をする。
 それに応えるように監督が言った。

「澤は腹痛です。だから次の回からは石神、丹波でいきます。石神、いけるね?」
「はい!」

 澤の突然の腹痛は今に始まったことではないので、チームメイトに動揺はなかった。
 この天才捕手の唯一の弱点は弱いお腹なのだ。まあ、欠点がなさすぎる分、そのくらいの方が可愛げがあるともいえる。
 香坂も今の今までそう信じていた。
 だが、もしかしたらそれは対外的な言い訳だったのかもしれない。
 あの澤の様子と監督の反応……監督は選手の体調不良に不機嫌になるような人間ではない。
 それに澤は泣いているように見えた。
 まさか、澤はお腹ではなくメンタルが弱かったのか? あのいつも憎たらしいぐらい平静な澤が?
 それに気付いて動揺してしまう。
 香坂は、出番が終わっていてよかったと胸を撫で下ろす。
 今の心境で将元に通用する球が投げられるとは思えなかった。

 香坂はふと思い立って、石神はどんな様子だろうか、と、いよいよ出番が回ってきた控え捕手に目を向けた。
 しかし、彼女は今大会初めて試合に出られるというのに、それどころではない様子で3人が消えて行った出口のほうを不安げに見ていた。

 香坂は、欲がないな、と呆れ半分、感心半分で思った。
 試合に出られるチャンスが巡ってきたのに、喜ぶ様子もない。
 澤と仲が良いらしい石神はいつもこうだった。
 しかしよく考えてみれば、石神はチーム内で特に変わっているわけでもない。
 チームメイトの大半は基本的に他人優先で利他的だ。レギュラーを獲得したライバルを祝福できるようなお人好しばかりだった。

 むしろ自分みたいなのは異質なのだ、と香坂は思う。自分がここにいられるのは投げられるからにすぎない。監督に用済みと思われたら、そこで高校生活は終わる。
 だから、とにかく運が許す限り全力でやるしかない。
 香坂は、正捕手とエースの離脱というハプニングにも関わらず、取り乱す様子もなくグラウンドに向かって超然と立つ監督を見ながらひそかにそう思った。