15

 榛名は球場の廊下の隅のベンチで澤をなだめながら内心ため息をついた。
 最近忙しくてあまり相手をしてやれなかったのがいけなかったか、と自分の肩に顔をうずめて嗚咽を漏らす相手を見る。
 ここ一週間、何となく様子がおかしいのは気付いていたが、定期テストの準備で手一杯でフォローができなかった。時折すがるような眼でこちらを見る澤が何かに追い詰められているのに気付きながら、放置してしまった。
 そしてなにより、榛名が犯した決定的な過ちは、昨晩、澤に謝罪してしまったことだった。
 どういう思考回路をしているのかは不明だが、彼女は、榛名が殊勝な態度を見せた途端に過去のことを思い出して泣き始めたのだ。
 なぜ球を当てたことを謝って発作を起こすのかわからない。
 だが澤は昔からこういうふうに訳がわからないタイミングで落ち込む癖があった。
 昨晩は眠れなかったのだろう、と俯いて涙をこぼす澤を見ながら思う。
 こうなるともう泣かせておくしかないことを経験上わかっていた。こういう状態になってしまった澤には何を言っても何をやっても無駄だ。
 榛名はぼんやりと向かい側の壁を見た。
 澤が落ち着くのにはどのくらい時間を要するだろうか? 
 十分? 二十分? 三十分?………それとも一時間? 試合の決着がつく前にベンチに戻れるだろうか?
 それに、ベンチでいきなり泣き出すなど初めてだった。
 いつもは過呼吸の発作くらいで済んでいるのにいったいどうしたのか。
 こんなんで夏の大会を戦っていけるのか?
 答えのない問いが頭の中をぐるぐる回り、榛名は一瞬パニックになった。
 試合中に澤がこれほど大きな発作を起こしたのは初めてだった。
 感づいたチームメイトはいただろうか?
 本来、今日のリリーフ投手は榛名だった。それが丹波に代わったのを不審に思う者がいてもおかしくはない。
 監督には澤の過去とパニック障害について伝えてある。
 だが、金沢と菊池と石神を除くチームメイトには秘密にしていた。
 もし何か聞かれたらどう取り繕おうか、榛名は考えを巡らせていると、澤が嗚咽しながら言った。
「わ、私、野球やってていいのかな?」
「何、いきなり」
「だってそんな資格ない、のに……ひっく」
「そんなことないよ」
「あ、あるよっ……。は、はる、行ってきて……いいよ。私、ホント、ごめん……うっ、じゃまばっっかっ、して……うぅっ」
「行ってきていいよ、じゃねえよ。ひとりじゃ無理。一緒に来て」
 榛名はその泣きぬれた顔を見た。
「きょ、京香ちゃんが、いるよ。私、なんか、ヒクッ、いなくても」
「私は澤がいいの」
「ほ、ほんとう?」
「本当。大体、投球練習ほとんどあんたとしかやってないんだからいないと困る。試合まで責任持って球受けてよ」
 おずおずとこちらを窺う相手に、ようやく顔を上げたか、と榛名は内心ホッとした。発作は落ち着いてくれたらしい。
 先ほどのとりみだしようにはこっちが発作を起こしそうになったが、今回は比較的軽かったようだ。
 榛名はポケットティッシュを澤に差し出した。
「ほら、涙拭いて。そんな顔じゃ試合に出してもらえないよ」
 澤はうなずいてありがとう、と受け取り、涙をぬぐって鼻をかんだ。
 榛名が澤を見るともなく見ていると、澤はやがて顔を上げた。 
 憔悴したその顔に、自分の心臓が一度強く拍動するのを感じる。
 目の下に隈を作り、憔悴し切った澤があまりにやつれて見えたからだ。その眼には力がなく、今にも存在が薄れて、空気に溶けて消えてしまいそうだった。
 榛名は思わず手を伸ばし、澤の頬に手を当て、わずかに見える涙の残滓を親指の腹でこすった。
 しっかりした手ごたえを求めて、何度も執拗に頬をこする。そうやって存在を確認していなければ、澤がいつの間にかいなくなってしまいそうだったからだ。
 相手はしばらくされるがままになっていたが、やがてやんわりと榛名の手首を掴んで自分の顔から外した。そして、榛名を見つめて言った。
「戻ろう」
 榛名は黙って頷き、澤の後についてベンチに戻った。 
 ふたりがベンチに戻ったとき、試合は7回の表まで進んでいた。マウンドには丹波が立ち、気後れした様子もなく投げている。
 レギュラーメンバーが出払って閑散としたダグアウトの前の方に立つ監督は、戻ってきたふたりを認め、自分の方へ来るよう手招きをした。
 榛名は澤とともに彼女のそばに歩いていって、監督の鋭い目を見た。
 その眼光に呑まれないよう、無意識に腹に力を込めながら、目の前の人物について思いを巡らせる。
 栄徳高校女子野球部の監督である桃井周子は、中学時代の監督と違い、ほとんど感情的にならないロボットのような人物だった。
 戦略的な試合運びと徹底した実力主義で、過去何度も部を甲子園出場に導いたベテランだ。
 灰色の髪に特徴のない顔のどこにでもいそうな五十半ばの女性。しかし、一度言葉を交わせばその明晰さに一発で気づくような、非常に頭の切れる監督だった。
 東京の球団にいたプロ時代は主にブルペンキャッチャーをしていて、特に大きな功績をあげたわけではない。しかし、指導者としては一流と名高い人物だった。
 その監督は、榛名が入部したときの初顔合わせで、部内は完全実力主義で年功序列はない、と宣言した。
 榛名はこの言葉に好感をもったが、やがて期待は打ち砕かれることになった。
 言っておいた方がいいだろうと澤のパニック障害と不安障害のことを個別に伝えたときに告げられた言葉は、「澤のメンタル調整係になるなら、いずれエースにしてやる」というとんでもないものだったからだ。
 これまで指導者にそんなことを言われたことは一度たりともなかったし、そんなことを言われるとは思ってもみなかった榛名はショックを受けた。
 その榛名に更に追い討ちをかけるように、桃井は「そうしなければエースになれる未来はこないだろう」とまで言った。榛名程度の投手は栄徳には掃いて捨てるほどいるから、ということらしい。
 その心無い提案に榛名は落ち込み、栄徳と他一校からしかスカウトのこなかった自分と、首都圏、および関西圏含め十校近くスカウトがきた澤の実力差を改めて思い知ったのだった。
 榛名は悩んだ末に監督の提案を呑むという決断をした。
 死ぬほど悩んだしプライドもズタズタだったが、それよりもエースになりたいという気持ちの方が強かったからだ。
 そうして一年生の秋大から今までエースを張ってこられた訳だった。
 卑怯なことをしてエースを取ったことはわかっている。
 本来一番にふさわしかった先輩の香坂には申し訳ない気持ちで一杯だった。
 だがそれでもエースになりたい。その一心で澤のご機嫌とりをしている。
 榛名は本来、苦手な、あるいは嫌いな相手に構うほどヒマな性格はしていない。嫌な相手はとことん無視、というのが榛名の通常の行動パターンだ。
 だが欲のために澤の依存を受け入れていた。
 榛名は隣に立つ幼馴染を横目で見て、内心ため息をついた。
 桃井が榛名を見る目は厳しい。
 ちゃんと管理しておけと思っているのだろう。
 すみません、と謝ると、監督は口を開いた。
「澤、大丈夫?」
「――はい」
「次の回から行けるかな?」
「はい」
「榛名、澤は落ち着いたんだよね?」
「はい」
「分かった。それと、榛名には申し訳ないんだけど、丹波が好投しているので続投させるね」
「え――?」
 榛名は思わずスコアボードを見た。6回表、丹波が投げた回は無失点だった。
 監督は無表情で言った。
「丹波は、力押しで来る将元の打線と相性が良いようなんだよね。上位打線だったからどうなる事かと思ったけどきっちり抑えてくれた。せっかく準備しておいてくれたのに悪いけど」
「大丈夫です」
 榛名は何か言いかける澤の腕をつかんで制し、素早く答えた。
 澤は榛名の処遇が良くないと監督に口答えしがちなのだ。
 監督は頷いた。
「じゃあ頼むよ、澤」
 榛名は監督に一礼して、その場から動こうとしない澤をぐいぐい引っ張ってベンチの奥に下がった。澤は監督の言葉に榛名以上にショックを受けているようだった。
「何で丹波ちゃんが……?」
 ぼんやり突っ立っている相方に怒鳴りたいのをこらえ、ベンチに座らせる。
 そしていつものように不機嫌な澤に「効く」言葉をかける。
「私のために勝ってきてくれる? 次の試合、一緒に戦いたいんだ」
「私…………わかった!」
 榛名のセリフはいたく澤の心を動かしたようだった。彼女は、顔から火が出そうなのを我慢して言った甲斐があるというものだ。
 相手を三振に打ち取った丹波が笑顔で、しかし、5回に崩れた先輩を案ずるような表情でダグアウトに駆けてくるのを見ながら、澤は何だってあんな言葉でテンションが上がるのだろう、と榛名は首をかしげた。
 もし榛名が逆の立場だったら、自分のために勝ってこいなんて言われてもうれしくない。むしろ不愉快だ。
 お前は何さまだ、ひとりで試合してるつもりか、と言いたくなるところだ。榛名にとって澤の行動原理は謎だった。
 しかし、澤がヘコんでいるときにかけると喜ぶ言葉は経験則から知っていたので、何を言えばいいかはわかっていた。
 榛名は、戻ってきた石神の近くに腰掛けて言った。
「また迷惑かけちゃってごめん」
「大丈夫だよ。そういうときの控えだし」
 石神は全く気にしていない様子だ。
「練習でも散々迷惑かけてるのに、試合まで申し訳ないなー」
「私のほうはいいよ。それより澤は大丈夫なの?」
 石神の言葉に、榛名は息を吐き出した。
「少し前から様子がおかしいのには気づいてたんだけど、今回はしくじった。もっと早く対応するべきだったよ」
 石神は澤の病気を知る数少ない2年生のひとりだった。あとは、榛名と同じ中学出身の月島絵梨奈、そして、3年生の金沢、菊池しか知らない。
 そして監督の指示でそのことは誰も口外しなかった。
 
 榛名は、隣で試合経過を見守る石神の真剣な表情をちらりと見てから、グラウンドに目を戻した。
 7回裏・栄徳の攻撃回が終わり、間もなく8回が始まった。
「丹波、好投してるな」
 榛名の言葉に、石神がマウンドに目を戻して曖昧に頷いた。
「そうだね……。でもコントロールはまだはるちゃんには及ばないよ。球種も少ないし」
「気ィ遣わなくてもいいって。本当うまいよな。どうやったらあんな速い球投げられるんだろ。百三十とか女子じゃないだろ。来夏のエースは丹波かもなあ」
「はるちゃん! 冗談でもそんなこと……」
 少し怒った様子の石神に、榛名は淡々と返した。
「でも実際そうだろ? どんなに変化球投げられても速球には敵わない。野球ってなんだかんだ言って結局体力勝負みたいなとこあるし………」
「もう、はるちゃんはさ! それ本気で言ってるの? そんな簡単にエースとられそう、とか言わないでよ。弱気になるなんて、はるちゃんらしくもない……」
「そうかな……」
 石神は榛名がズルをしてエースになったことを知らないからそんなことが言えるのだ。
 実力主義のチーム栄徳で、自分だけが実力で選ばれていない。
 その事実が胸を突き刺すように痛かった。
 自分の汚さにつくづく嫌気が差す。
 沈んだ気持ちで眺めていると、やがて丹波が3つ目のアウトを取り、戻ってきた。
 晴れ晴れとした表情は自信に満ちていた。
 本当のエースにふさわしい立ち居振る舞いに、思わず目を逸らす。
 未来が見えた気がした。
 榛名はそれから自分のもとへ一直線に飛んでくる澤の表情をチェックする。相変わらず顔色は優れなかったが、目に光が戻っていた。
 それを見て安堵しつつ、お疲れ、と声をかけ、防具を外すのを手伝った。
 澤は上機嫌で絶対に勝つからね、とか言っている。
 それに適当に応じながら再び丹波に視線を移した。
 期待以上の活躍に満足げな選手たちに労われ、にこにこしている。
 自分の代わりとしてリリーフした丹波は、未だ1点も取られていなかった。
 榛名は、追ってくる足音が確実に大きくなりつつあるのを努めて意識しないようにしながら、丹波から目をそらしたのだった。