一回裏、香坂の立ち上がりは上々だった。
榛名よりはムラのある投手だが、今日は構えたところにピッタリくるし、球威もある。
決め球であるフォークもよく沈んでいる。
練習試合でこれを捉えられたのは四番の作並と五番の伊藤だけだった。
だからこの二人以外はフォークで打ち取り、二人にはシングルヒットを打たせる。基本はそういう戦略だった。
フォークは腕に負担がかかるので一試合通して投げるのは難しいが、香坂は四回までの登板なので気にせず投げさせられる。こういうとき、投手層が厚いのはありがたかった。
香坂は三番までを順調に打ち取り、一回裏が終了する。
二回開始の時点でスコア4ー0は大きかった。
澤は香坂にナイスピッチです、と声をかけ、防具を外した。すると監督が言った。
「香坂、腕振れてるね。次の回もその調子で」
「はい」
そうして今度は全員に向かって言う。
「厚木はここからどんどん調子あげてくるからね。甘く入った球どんどん叩いていこう。次の回はストレートでストライク入れる頻度は減るかもしれない。スライダー、カーブ自分がうまく合わせられる方を叩いてみて」
「「はい!」」
皆と返事をしながら、そりゃあ満塁ホームランを食らったら早々投げられないだろうな、と思う。
いや、その裏をかいて投げてくるだろうか?
厚木は並みの投手ではない。フィジカルも強いしメンタルも強い。
そしてここまで登板した試合の半分が逆転勝ちである。
打った時は勝ったと思ったが、それは傲慢というものかもしれない。
後半ほとんど点を入れられないとすれば、ここからも隙あらば点を入れていかなければなるまい。
厚木の本気のストレートを打てるバッターは栄徳には、というか高校球児にはほぼいない。
球速・球威共に段違いなのだ。
あれをゾーンぎりぎりに放られたらまず打てない。
だから、厚木の調子が上がる前に勝負を決める必要があった。
澤は相手校バッテリーの一回の配球を思い返しながらベンチに座り、グラウンドに出ていく香坂と沖を見送った。
二回表が始まる。厚木に硬さはなく、リラックスした自然な体勢だった。
あの程度で崩れるメンタルはしていないということか。
厚木は投球モーションに入り、大きく振りかぶって投げた。
快音を立てて捕手のミットに球が収まる。ど真ん中のストレート。これが厚木の答えだった。
「エースはエースってことか……」
ここで逃げない投球は賭けではあるが、チーム全体の雰囲気を上げる効果がある。
どんなに打てなくても逃げずに攻める投手に鼓舞されるからだ。
そしてこの厚木バッテリーの戦略は奏功した。
二回表を三者凡退で0点に抑えられたからだ。
まだ完全に本調子ではない。しかし、気迫で押し切った形だった。
野球は結構メンタルゲームだから、ここで流れを持っていかれるのは困る。
次の守りで来るクリーンナップは絶対に抑えたい。許して一点までだ。
そして三回でもう一度相手を叩く。そうやって進めていくべきだろう。
澤はそう考えながらグラウンドに出てホームベースの上に座った。
打順は四番・作並から。
作並は約一ヶ月前の練習試合で香坂のフォークを打っている。そのときのコースはアウトローだった。そのときにしっかりと手応えを感じたはずだ。印象付けるために何度か打たせておいたから、また同じようなコースに来たら打ちたくなるだろう。
だから見せ球をインハイに投げてからゾーンぎり外のアウトローフォークで打ち取る予定だった。
今日は香坂のコントロールが良いのでこの作戦が使える。
作並はパワーヒッターだからヒットになる可能性もあるが、シングルヒットで収まる場所だ。
勝負は三球目。
外高めに全力ストレート、インハイにシュート、そしてアウトローにフォーク。
全て枠から外れるところだ。
一球でも甘く入ったらホームランになるバッターなので慎重にいく。
サインを出すと、香坂は指示通り外高めとインハイに球を投げた。
両方見送られてカウントは2ボール。
全ていいところに決まっているのにバットを振らないのはさすがというべきか。
だが今の二球でだいぶ遠近感が狂ったはずだ。
次のフォークはストライクに見える目になっている。
三球目ーー香坂はサインに頷き、間を空けずにフォークを放った。
刹那、作並のバットが動き、間の抜けた音と共にボールはバウンドし、一・二塁間に転がっていった。
「ファースト!」
澤が叫ぶと、セカンドの月島が掬い上げ、ファーストの羽生に投げてアウトを取った。
それから人差し指を立てて腕を上げ、ワンナウト、と叫ぶ。
こうやってアウト一つ取るたびにカウントするのは意外と重要である。
相手にはプレッシャーを与えるし、味方もカウントを確認できるからだ。
その声がけを終えてから再び座る。次も長打警戒の相手、五番ピッチャーの厚木だ。
厚木は打てるタイプのピッチャーだった。
しかしランナーが出ていないのでだいぶ気楽にリードできる。
大きい当たりにならなければ打たれてもいい、とサインを送り、その後投球サインを出す。
前の打者へのフォークアウトコース作戦はバレたのでもう通用しない。
今回はフォークなしで討ち取ろう、とまずインハイ外れるところにシュートを要求する。
相手は振らずに1ボール。
次はアウトハイにストレート。これは振ってきてファール。
カウント1ー1で次はチェンジアップで緩急をつける。
これもファールで1ー2。
その次のサインを出しかけたところで、不意に話しかけられた。
「フォーク放らせてよ」
思わず上を見ると、厚木が挑戦的にこちらを見た。
澤は視線を受け止めて言った。
「いいですよ」
そしてアウトローにカーブを要求した。
球は見送られて2ー2。
すると厚木がバットを構え直しながら言う。
「性格悪っ」
どうやら決め球を打たれたのを根に持っているらしい。
だがこの程度の揺さぶりで動揺する段階は終わっている。
逆にこの負けん気の強さを利用し、次以降の打席で打とうと決めた。
厚木は必ずまたあのストレートで勝負にくる。
それがわかっていれば狙い球を絞れるからだ。
厚木相手にフォークは投げない。フォークのコントロールは難しいし、厚木が香坂のフォークを攻略している以上、少しでも甘く入ったら二塁打以上が確定だからだ。
香坂は必要以上に決め球で勝負したがる性格ではないので、フォークを要求することもない。
その点、強打者とは意地でも勝負したがる横川などより遥かに扱いやすい投手だった。
澤はミットにおさまったボールを返球し、次は同じコースにストレートのサインを出す。
いいところに決まってバットが動き、再びファール。
次は内側外れたところにシュート。
被さり気味に立っていたのをこれで下がらせ、カウント3ー2。
ここで安易にストライクを取りにいくとうっかり長打を喰らいかねないので、これもボール球のストレートを外真ん中。
厚木は見送り、フォアボールで出塁した。
城山学園側のスタンドから歓声と拍手が湧き起こる。
しかし、四番五番は歩かせてオーケーというスタンスは事前に打ち合わせ済みなので、香坂に動揺はみられない。
打たれるくらいなら歩かせましょうと散々言っておいたのがよかったようだ。
これで、盗塁する厚木を二塁で刺したい。
厚木の足は決して遅くないが、ギリギリで刺せるということは同等タイムのチームメイトで検証済みだった。
澤の肩が強いことは知れ渡っているから、そう安易には走らせないだろうが、4対0でワンナウトのこの場面、絶対に塁を進めたいはずだ。
もしくはバントも、その両方もある。
どれだろうか、と思い監督を見ると、バントシフトのサインがくる。
澤は立ち上がり、ブロックサインでバントシフトを布いた。
こうすることでバントをしづらくさせ、盗塁させやすくする効果もある。
打者は監督のサインを確認し、ヒッティングの構えだ。
六番の相良は今大会成績良好でバントの成功率も高い。
さあどちらでくるか。
牽制を入れずに一球めは大きく外したところにストレート。
相良は瞬間的にバントの構えになり、腕を目一杯伸ばした。
球はバットをかすってミットに収まった。
澤は考える間も無く立ち上がりざま、二塁に送球していた。
厚木が塁に滑り込んだのとショートの沖のミットにボールが収まったのはほぼ同時。
だが刺せているという確信があった。
一拍遅れてアウト判定が出る。
澤はよし、と呟き、二本指を立てて叫んだ。
「ツーアウトー!」
それに呼応してチームメイト達もツーアウトー、と声を上げる。
これでもう厚木はブチ切れである。
次以降の打席で絶対に勝負をかけてくるだろう。
そこを打って追加点にしたい。
澤はバントシフトを解除し、ベースの上に座った。
香坂のフォークが捉えられない相良には通常の戦略で良い。
監督から特にサインはない。いつも通りでいいということだろう。
攻め気味に一球めからフォークを投げると、相手は見送りストライク先行。
次のストレートはファールで2ストライク。
そして再びフォークを今度は外したところに投げると打ち上げて3アウトで二回裏が終了したのだった。