19

 その後栄徳は三回、四回と一点ずつ返され、4対2で五回の守備を迎えた。
 この間、澤には一回打順が回ってきたが、厚木はまだ勝負をしかけず、変化球と直球の球速差で澤を打ち取った。
 そしていよいよ五回裏で榛名が登板する。直前まで石神と調整を続けていた榛名の球はよく走っていた。
 そしていつも通りコントロール抜群である。
 榛名は、澤が今までに受けた中でも群を抜いてコントロールの良い投手だった。
 というか、小学生で野球を始めてからずっと榛名が標準だった澤にとっては他の投手がノーコンすぎる。
 榛名は自分の意志でなくフォアボールを出すことはないし、暴投も死球も逆球もほぼない。
 ミットを構えたまさにその場所にボールが来るのだ。

 このコントロールを習得するまでに榛名がどれだけの努力をしてきたか、澤は知っている。
 彼女は自宅の庭にストライクゾーンを九分割した的を設置して、来る日も来る日も投げていた。
 ブルペンでも、澤相手に誰よりも遅くまで残って納得いく球が投げられるまで練習していた。
 練習が本格的になり始めた中学時代以降、榛名の投球で頭を悩ませた一番の問題は、球数を投げすぎるということだった。
 それだけ熱心に練習していたのである。

 その努力が実らないわけがなく、榛名は中学でエースだった。そうして中学を卒業し、栄徳に入ってからもエースを獲得した。
 そしてコントロールに加え、球威・球速・球の精度を上げるために投球コーチと共に努力してきた。
 フォームを大きくいじるのは怖いのでやらない方がいいと進言し、結局やらなかったが、その他のことはたいていやってきた。
 体幹を鍛えるトレーニング、踏み込み幅の調整、腕をよく振るためのトレーニングなどだ。
 そしてその他に毎日、厳密に分割されたストライクゾーンへの投げ込みを行った。

 その相手をした澤は、だからミリ単位でミットがストライクゾーンのどこにあるのかがわかる。
 榛名が指示した場所から一ミリも動かさずに球を受ける、ということを繰り返したから、腕や上半身に痣ができることもあった。
 だがそれを気にしたことはない。それは榛名にとって必要な練習だったからだ。
 その相手ができることが何より喜びだった。
 そして、そのトレーニングの甲斐あって榛名は今ここで、県大会決勝のマウンドに立っている。
 その姿は堂々として自信に満ちていた。
 それはそうだろう、と思う。あれだけの練習と努力を積み重ねたら、自然と自信もつくのだ。
 澤は榛名と視線を交わし、頷いて最初のサインを出した。
 
 この回の打者は六番から。長打があり、選球眼もいい左打者・斎藤だ。
 だが斎藤は練習試合で榛名の決め球・スライダーをとらえきれていなかった。
 だからスライダーで打ち取る。
 初球はアウトハイぎりぎりにストレート。これで1ストライク。
 次にインローにシンカー。これは見送ったが、ゾーンぎりぎりに決まってストライクになる。
 そして次のスライダーを引っかけさせて、三球でアウトを取った。
 こうやってあっさりアウトを取れるのは、失投がほぼないからだ。

 やっぱり榛名は最高だ、と思いながら次の打者を迎える。
 七番の笠井は一球目のぎりぎりゾーンを外れるストレートを打ち上げてアウトになった。
 澤は息をつき、ツーアウト―、と叫んでマスクを被る。
 八番の升は前回スライダーを捉えかけていたので、配球にあえてボールになるスライダーを混ぜてやると、思惑通り引っかけてくれた。
 これで3アウト。榛名は登板から十球足らずで三つアウトを取り、ベンチに戻ったのだった。

 ベンチに戻ると、榛名が皆に労われていた。
 そのそばに行って声をかける。

「ナイスピッチ。球走ってるね」
「まあまあ調子いいわ」
「次の回点取ってくるね」
「はは、めちゃめちゃ自信あるじゃん」

 榛名は上機嫌に言った。その笑顔に心が満たされてゆく。
 普段は無愛想でも試合の時はこうやって笑いかけてくれるから嬉しい。
 野球だけが、榛名との絆だった。

「自信というか、向こうのピッチャー負けん気強いもん。次の回絶対しかけてくるよ、ストレートど真ん中」
「そうかあ? そんな危険な賭けするかね」
「するよ。横川さんタイプだもん」
「ああ、なるほど……」

 下調べによれば、城山学園のピッチャー厚木は極度の負けず嫌いだった。
 去年バッテリーだった横川和海もそうだったからわかる。こういう投手は打たれた相手に勝負を挑みがちなのだ。
 そして捕手がそれを許すのは、塁上にランナーがいないとき。
 つまり、打順が五番澤からの六回表がその時だった。
 澤はプロテクターを外しながら、厚木が何球目でしかけてくるかを考え続けていた。


 六回表――。
 打席に入る前にキャッチャーの様子を窺うと、何となく浮かない表情だった。
 これはくる、と直感する。
 一球目か、二球目か、三球目か。横川のことを思うと、その三球のうちには絶対に真ん中ストレートがくる。
 球威も球速も前半より増しているが、真ん中に来れば打てない球ではなかった。
 さあ何球目だ?
 こちらを見据える厚木と視線がかち合う。
 燃えるようなその目を見た時、一球目にくるとわかった。

 澤はさりげなく息を吐きだし、バットを握りしめた。
 作並の球はストライクゾーン真ん中でも手元では高めに見えるのが特徴だ。
 球威があるから伸びて見えるのだろう。
 だから低めに来なければ真ん中の軌道で打つ。
 そう決めて待っていると、やがて作並が投球モーションに入った。
 そして左足を力強く踏み出し、腕を振りぬく。
 瞬間、高速の球がこちらに向かって飛んでくる。
 予想通りストレートだ。澤はぎりぎりまで引き付けて、右方向に流し打ちした。
 打球がバットにジャストミートし、空高々と飛んでゆく。
 確かな手ごたえを感じながら塁間を回っていると、歓声が上がってホームランが入ったのがわかった。
 それを確認し、足を緩める。

 これで5対2。しかしもうこんなチャンスは訪れないだろう。
 これ以降、取れてあとせいぜい二点。場合によっては五点を守り切らねばならないことになる可能性もある。厚木はそのくらい隙がなかった。
 金沢、町田といった栄徳の強力打線でも、出塁はしても点につなげられないことが続いている。
 この回で厚木が崩れてくれればいいが、それは希望的観測というものだろう。
 そう思いながらベンチに戻り、選手たちとハイタッチをしてベンチの端に腰かけ、試合経過を見る。
 すると六番の羽生が甘く入った球を叩いて出塁する。
 若干は動揺しているようだ。だが、七番の丹波で調子を戻して打ち取り、八番金沢で羽生とのゲッツーを取って六回表を終えたのだった。

 そこからの厚木はまさに無敵だった。
 七回、八回と一人の走者も出すことなく守り切り、その間に仲間が二点の追加点を入れたのだ。
 じわじわと真綿で首を絞められるように不穏な空気である。
 そして遂に5対4で試合は九回を迎えた。