澤樹《さわいつき》っていう人間は、少しでも向上心のある者なら、心かき乱されずにはいられぬ、才能の塊みたいな人物だった。スポーツ全般、学業に秀でて何でも器用にこなした。
野球に関しては、肩が強かったので初めはピッチャーをやっていて、エースとして投げたりもしていたが、中学1年生のときにキャッチャーに転向した。
小学生のころから同じチームに所属し、共に歩んできた榛名にとって、澤は越えられぬ壁であり、好敵手であった。だから、彼女が中学1年の秋に、二番手争いの真っただ中だったにも関わらず、榛名の球をとりたいから、とかいうバカらしい理由でキャッチャーに転向した時はかなりショックだったし、裏切られたような気分になった。
澤は捕手としてもずば抜けて上手かったため、転向してすぐにレギュラー入りをした。榛名もやがてエースになり、以来、ふたりはバッテリーを組んで戦ってきた。
ふたりが通っていた春日中学は、元々それほど野球に力を入れていたわけではなかったが、偶然、選手層が厚い時期に居合わせたため、榛名は2年生と3年生で2度、国体を経験した。その時は2回ともベスト16だった。
そのころから、榛名・澤バッテリーは認知され始め、やがてふたりは、地元宮城の強豪校である栄徳高校からスカウトされた。
榛名にはそこを含め県内二校からしかスカウトが来なかったが、澤はは違った。首都圏のもっと強い高校からいくつもスカウトがきていたのだ。
だから澤はてっきりそちらに進むのだと思っていた。というか、そちらに行くようなことを澤自身が言っていたはずだ。
諸事情から澤と同じ高校に行きたくなかった榛名はそれで地元の高校を選んだが、入学してみたら、澤がいた。
入部して初めてのミーティングで、榛名さんも栄徳だったんだ、とか白々しく言ってきたのだ。
だが、榛名が栄徳に進むことは知っていたはずだ。
澤に直接言ったわけではなかったが、スカウトがきた二校のどちらかということはわかるし、そのうちより実績のある栄徳を選ぶであろうことは誰でもわかる。
だからわかっていたはずだ。
その上で、榛名には東京の高校に行くと嘘をつき、進学先を合わせた。そうとしか考えられなかった。
これには榛名も激怒した。
なぜならば、澤は榛名の劣等感を刺激する存在というだけでなく、裏切り者でもあったからだ。
榛名は、澤と一緒に育ってきた。小さい頃から近所に住み、親同士も仲が良く、家族行事はいつも一緒だった。
そして、榛名が母親を亡くした事故以降は付き合いがさらに密になり、シングルファーザーの父親が仕事から帰ってくるまで澤家で過ごすこともしばしばだった。
そのように、二人は友達というより姉妹として育った。
だからこそ、澤の裏切りは許せなかった。
彼女は中学二年のとき、榛名が初めて付き合った男子生徒を盗ったのだ。
付き合って一か月ほどが経った頃に別れてほしいと唐突に言われ、理由を聞くと、好きな人ができたから、だった。そして、その好きな人、というのが澤だった。
澤は確かに美人だ。十人中八人が美形と判ずるような正統派の美人で、髪も長く女性らしかった。面倒だからと髪を短くしている榛名とは正反対である。
だが、だからといっていきなり乗り換えるのはあんまりではないか、と思った。
その男子生徒とは浅い付き合いというわけではなく、かなり前からいい友人だったからだ。
だから榛名は傷つき、しばらく気落ちしていた。
だがその時点では、今のように澤を憎んではいなかった。ただ偶然に同じタイミングで同じ相手を好きになっただけだろうと思っていたのだ。
しかし、それは偶然などではなかった。
中学三年のとき、また同じことが起こった。付き合っていた彼氏から澤を好きになったと言って振られたのだ。
さすがにこれはないだろうと思って、榛名は澤を問い詰めた。いったいなぜ自分が好きになった相手に限って好きになるのか、と。
事実、澤は榛名が付き合ったその二人以外、付き合った相手はいないようだった。
しかも二人ともわりとすぐに別れている。
これはいったいどういうことかと尋問したところ、あの人たちは榛名にふさわしくない、とかわけのわからない答えが返ってきた。まったく話が通じなかったのだ。
何が不満なのかはわからない。多分嫌いなのだろう。澤はそういうふうに中学の間中榛名に嫌がらせをし続けた。
だから絶対に同じ高校には行きたくなかったのだ。
それなのに、澤は栄徳に来た。そしてまた同じことの繰り返しだ。
好きになった相手を取り、自分以外に投げるなと言い、嫌がらせをし続ける。
もはや澤のライフワークと言ってもいいだろう。
それで、澤にも簡単に澤に乗り換える男にも疲れてしまっていた。
女性らしさの欠片もない見た目とガサツな性格のせいで女子からガチ告白されたり、バレンタインチョコを大量に貰ったりもするが、榛名の恋愛対象は男性である。
だから勇気を出して告白してくれた女の子と付き合う気にもなれず、ここ最近は野球ばかりしていた。
だが、野球をするにせよ視界にはいつも澤がいるのには心底うんざりだった。
女子高校野球の名門、私立栄徳高校の野球部は総勢60名の大所帯だったが、澤は入部早々正捕手の座を勝ち取ったのである。
そしてその年、当時3年生だった、エースの横川和海《よこがわかずみ》と組んで夏の甲子園出場を果たした。
当時、ベンチ入りもしていなかった榛名は、相手との格の違いを見せつけられたような気持ちで彼女の活躍を見守っていたのだった。
2年生になると、榛名もエースとなったため、ふたりは一緒に試合に出ることが多くなった。
それでもこの時期、榛名はよく、自分の背番号は間違っているのでは、という疑念に駆られた。もし澤が転向していなかったら、この時期、この場所で1番を付けていたのは彼女に違いなかった。もし自分が捕手になっていたら、この高校から声がかかることすらなかっただろう。
自分の背番号がまがいもののような気がして、榛名はよく悪夢を見た。
夢の中では、大抵澤も投手だった。それも、頭抜けてうまい速球派だ。
榛名と澤は大きな大会に出ており、それは甲子園出場がかかった試合で、絶対に落とせない。先発が大きく崩れてしまい、監督がリリーフに榛名を出すか、澤を出すか、という決断を迫られている、という場面。
夢の内容はここからふた通りに分岐し、澤が選ばれた場合にはチームが勝ち、逆に、榛名が選ばれた時には負けることになる。
どちらにせよ、翌朝、気分良く起きられることはまず無かった。榛名は、この夢を見たあとはいつも汗をかき、息を切らして目を覚ますのだった。
昨日の夜もそういう、最悪な一夜だった。そして、そういう日の翌日は球が荒れる。はた目に分かるような変化はないが、観察眼のあるものなら感づくような荒れ方だ。キャッチャーなどは確実に気付くだろうが、澤は気付かないふりをする。わざと当てたボールも黙認する。暴言も聞き入れる。澤は榛名に対し、いつもそのように接した。
彼女はまた、榛名に対するほどではないが、基本的に寛容でのんびりしているため、投手たちに懐かれていた。彼女は、投手の調子がよくないときに決して責めず、その穴を埋めるように全力でプレイした。
投手を引っ張ってゆくことはないが、いつも道順を照らし出し、辛いときには寄り添うタイプの捕手だ。緻密な配球と、抜群のセンスで試合を運ぶが、チームメイトにはひたすら優しい。
だから、チームを引き締めるためには、自分のような口の悪いエースが必要なのだ、と榛名は個人的には思っていたが、選手たちの様子を見ていると自信を失うこともしばしばだった。
多少才能があるからというだけで、澤の隣で常に比較され続けて、自信があったことなど一度もない。昔から澤のそばにいるのは苦痛だった。彼女といると劣等感を刺激され、自分がとてつもなく無能な人間に思えてくるからだ。
その上澤からは憎まれている。当たりが強くなるのも道理というものだった。
だが、部の他の人間はこうした事情を知らない。だからだいたい榛名が悪者になってしまうわけだった。
榛名は、話しかけてくるチームメイト――羽生に適当に相槌を打ちつつ、心の中でため息をついた。
◇
学校に戻る頃、辺りはほとんど暗くなっていた。夕陽の残照が、西の空のちぎれ雲を浮かびあがらせている。
榛名は、校舎で行われた反省会を終えると、寮に戻る羽生葵や、羽生と同じく2年生部員の石神京香《いしがみきょうか》を見送って、同じように1年生投手の丹波《たんば》ミサキと別れた澤と合流した。榛名が黙っていると、気づまりなのか澤が喋り出した。
「今日はコールドだったから球数はおさえられたけど、完投したから練習は短時間で終わらせようね」
「そのコールドも誰かさんのお陰で危なかったけどな」
「………」
「まあその原因を作ったのは私だけど」
澤の長い髪が風にあおられてわずかに乱れた。
「そういえば、今帰っていった1年って丹波だろ? 今日ベンチ入りしてた将来のエース候補。あの子もいい球投げるよね。130出るとか言ってたっけ」
「まあでも、はるがいる限りは二番手どまりだよ。コントロールあんまりよくないし、スピード出せばいいってもんじゃない」
「澤、本当さあ……」
榛名は呆れ半分、嬉しさ半分で隣を歩くチームの正捕手を見た。
「それを育ててやるのがキャッチャーの役目でしょ。最初から見限るとか」
「見限ってないよ」
澤は真剣な表情で榛名の方を見た。
「事実を言っただけ。もちろん指導はするよ。香坂先輩だけじゃ物足りないし、今日みたいな消化試合をこなしてもらう控えはチームに不可欠だから。でも、はるとは比べ物にならない。球も配球もはるが一番だよ」
榛名は絶句した。なぜかは知らないが目の前の女は、榛名の球に心底惚れ切っていた。
自分でもコントロールはいい方だと思うし、多分地肩も悪くない。チームの中だったら十指には入るだろう。
でも自分にそこまでの才能があるとは思えなかった。
「私は、本当にはるの球捕ってて楽しいし、これからもずっととりつづけたいよ」
こういう投手への殺し文句をさらっと言ってくるあたり、澤は名キャッチャーなのかもしれない、と一方で冷静に分析しつつも、気分が高揚するのを抑えられなかった。
いいように掌の上で転がされているのがわかっていても、褒められて悪い気はしない。
澤はこういうあたり、非常に巧みだった。
ただ単純に嫌がらせをしてくるだけなら拒絶できるのに、それをさせないようこうして機嫌も取ってくる。
これをされると混乱し、別にそこまで憎まれていないのかもしれないとも思うが、そうやって油断して心を許すとまた裏切られる。その繰り返しだった。
だから本当言うと、この関係には心底疲弊していた。
「消化試合とかいうなよ。そんなんだからつまらないエラーするんだろ。……あと、投手のエース争いには干渉しないでほしい。澤が私のこと贔屓してるのは周知の事実になっちゃってるんだから、これ以上かき乱すな」
「うん」
榛名は従順に頷く澤とともに室内練習場に入り、照明をつけてストレッチをし、それから投げ込みを始めた。
30分ほど投げ込んで帰る頃には、だいぶ気分がよくなり、榛名はそれまでの会話の内容を忘れていた。