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 学校に隣接する寮に戻ってシャワーを浴び、1階の食堂に行くと、ルームメイトのふたりが食事をしているところだった。
 榛名がプレートに夕食を配膳して貰って席に着くなり、羽生《はぶ》葵が口を開いた。

「また澤のこと虐めてたんじゃないよね?」

 そう言って、疑わしげにこちらを見る彼女は、榛名と最も付き合いの深いチームメイトのひとりだった。同学年であり、また、入寮当初から相部屋の相手でもある。

「はぁ? またってなんだよ。普段からそんなこと――」

 すると、同じく2年生の石神京香がカレー用のスプーンを置いて割り込んできた。

「樹ちゃん、試合の後落ち込んでたよ。そ、その、ああいう言い方はやめた方がいいんじゃないかな」

 そうどもりがちに榛名を諫める彼女もまた、榛名や羽生と同じく、栄徳高校の付属寮――藤花寮303号室の住人だった。
 彼女の言葉に、羽生が同意する。

「そうそう。1年にも君らが喧嘩してるのかって聞かれたよ」
「1年って、今日ベンチ入りしてた投手?」

 羽生は頷いた。

「そう、丹波ミサキちゃん。びっくりしてたよ。だから、あんまり後輩ビビらせないでくれる? 榛名の気持ちも分かるけどさ。澤ってああいうちょこっとしたエラーを思い出したようにやるし」
「そうなんだよ!」

 榛名が机を拳で叩いたので、周りの寮生がびくっとした。

「あいつ、反省の色もないんだよ。失点しそうだったのにさ! 本当に嫌いだよ、あいつみたいな――」
「才能に胡坐かいてる奴?」

 羽生が彼女の言葉尻を引き取っていうと、榛名は拳を握りしめた。強く握り過ぎて関節が白くなっている。
 それを見て、石神は怯えたように、羽生はうんざりしたように顔を見合わせた。

「榛名ってなんていうか………キャッチャーには要求高いよね」

 羽生はそう呟くように言ってから、石神の厚い肩をかき抱いた。

「お忘れかもしれないけど、京ちゃんもキャッチャーだからお手柔らかによろしく」

 榛名が舌打ちをしたので、石神は体をちぢこめた。

「で、でも、はるちゃんは、そんな、ひどいこと、私には言わないよ」
「あれ? そーいやそうかも。和美先輩相手だった去年もそんなにヒドくなかったような………。澤だけ?」

 和美先輩というのは、去年引退した元3年生の捕手、相田和美のことだ。
 榛名が入部した当初、正捕手の澤は3年生のエースである横川和海と、2番手キャッチャーの荒川遊衣は、やはり2番手投手の香坂優《こうさかゆう》と組んでいた。だから、投げ込みに付き合ってくれたのは彼女だった。
 下級生は彼女を和美先輩、そして全く同じ名前の、元エースの横川和海を横川先輩と呼び分けていた。
 石神は、”和美先輩”の話など耳に入らなかったかのように俯いた。その目はわずかに潤んでいた。

「わ、私は、期待、されてない、から。万年控え、だし、中学の時も、試合、ほとんど出してもらえなかったし」

 ついに泣き出してしまった彼女に、羽生が慌ててフォローを入れた。

「そんな、泣かないで。中学の時は1個上にすごい人がいたからしょうがなかったんでしょ? 八葉さん、とか言ってたっけ? その人が抜けてからはレギュラーだったんだから自信もちなって」
「そうだよ」

 榛名が頷いた。

「石神のリードは投げてて楽しい。信頼が置けるし、キャッチングの技術も高い。頼りにしてるよ」

 机に顔を埋めてしゃくりあげていた石神は、その言葉におずおずと顔を上げた。

「ほ、ほんとう?」
「お世辞嫌いなことは知ってるだろ。石神は頼れるキャッチだよ」

 石神はごしごしと目を腕でこすった。どうやら弱気の発作はおさまったようだ。
 羽生はほっとしたように自信喪失気味のチームメイトの肩に手を置いた。

「さ、食べよう。部屋戻ったら古典の宿題見てくれる?」

 榛名は、気のきくチームメイトが石神を慰めるのを眺めながら、彼女ーー羽生葵について考えを巡らせた。
 
                 ◆

 羽生葵は東京出身の選手だった。人の機微を読むことに長け、チームの士気が下がった時、上がり過ぎたときに上手く正常な状態に持っていってくれる。
 イザコザがあった時に、彼女ほどうまくことをおさめられる人はいなかった。
 へらへらして、何も考えていないようでいて、彼女は驚くほど事態を正確に把握していた。

 彼女は特に石神に目をかけていた。化け物じみた運動能力の正捕手、澤の陰に隠れがちな彼女のモチベーションが下がらないよう見ていてくれるのは、チームにとってもありがたかった。
 彼女は試合に出られないメンバーとの交流もまた大事にしているために、人望が厚く、次期主将に目されていた。
 自分が澤とモメたとき、いつも仲裁に入ってくれるのも彼女なんだよな、と思いながら、榛名は夕食を食べ終えたふたりとともに自室に戻った。

 すぐに宿題に取り掛かるふたりを横目にさっさと歯磨きをして、明日の用意をし、布団にもぐりこむ。ふたりが現代語訳についてあれこれ言っているのをきいているうちに、全身の心地よい疲労感と共に睡魔が襲ってくる。
 眠気に身を任せると、すぐに視界が暗くなり、やがて意識を失った。