学校に戻ると、ちょうど2校時目と3校時目の間の休み時間だった。
クラスに入った途端、チームメイトの沖一沙《おきかずさ》、金井有朱《かないありす》、新堂めぐみが抽選結果をききに飛んできた。
沖は副主将で、金沢と同じくレギュラーメンバー、金井と新堂は2軍の選手だった。
金沢が、3回戦で、県四強のうちの一校である将元大付属高校と当たることを告げると、野球部の面々はまたか、といった反応を示した。
「ま、早めに強いとこと当たった方があと楽できるし、いいんじゃない?」
そう言ってトーナメント表のコピーを見る金沢に、沖が言った。
「将元は、今年投手の出来がイマイチらしいからチャンスかもよ。試合のビデオ見た感じだと、エースの藤巻は体格があまり良くなくて体力に問題がありそう。完投もほとんどしてないし、粘って球数を投げさせれば、早々に引きずり降ろせるかもしれない」
「それにはまず、沖が打ってくれないとね。頼りにしてるよ」
金沢の切り返しに沖は苦笑した。
「プレッシャーだなあ」
「足速いしセンスもあるんだから、上がり症をどうにかしようぜ」
金沢の見立てでは、沖は資質も努力も申し分ないが、勝負強さが足りない選手だった。
短距離のタイムは校内でも上位5パーセントに入る俊足の持ち主で、バッティングもそつがない。守備も固い。
しかし、ここぞという時に打てない勝負弱さが彼女をクリーンナップから遠ざけていた。
練習ではいつも調子がよいが、試合になると途端に勢いが無くなるのが彼女の特徴だった。
金沢が沖に色々言うのは、それだけ彼女に期待しているからだ。
沖もそれがわかっているから、なんだかんだ言いながらも、金沢に言われるのは嫌いではないようだった。
「将元戦ではやっぱり香坂が先発で、榛名との継投かな?」
新堂の問いに金沢がうなずく。
「試合運びにもよるだろうけど、榛名は早めに登板することになるだろうなあ。将元の打線は強力だから。将元に勝てばしばらくは楽できる。で、そのあとの4回戦では榛名を休ませると思う。そうなると、飯田と丹波の出番が増えるかもしれない」
「じゃああの1年生はわがチームの正捕手と初めてマトモに組むわけか………正直はるさわバッテリーはベンチの雰囲気悪くするし、あの子が育ってくれたらそれに越したことはないというか……」
金井の言わんとすることは他の3人もすぐに理解した。
新堂が頷いて抑え気味の声で言った。
「あのふたり、上手いんだけど一緒にいるとこっちまでギスギスしてくるよね。香坂が、練習場では試合よりひどいってこぼしてたよ。あー、うちレギュラーじゃなくてよかった」
「そうだよな……試合に勝っても勝った気がしないというか……。澤もあんな榛名によく付き合えるよね。ちょっと尊敬する」
「榛名はどうして澤にあんなに冷たいんだろう……? 前に何かあったのかな?」
そう首を傾げる沖に、金沢は3か月ほど前に榛名から聞いた話を思い出していた。
◇
春休みの合宿中のことだった。
例によって榛名と澤のイザコザが勃発し、駆け付けた金沢はウンザリしながらも事態を収拾した。
そしてその後に、長年疑問に思っていた二人の確執の原因について聞くことに成功していた。
金沢は前々から、このバッテリーの謎の上下関係が疑問だった。
なぜか澤は同学年の幼なじみをさん付けで呼び、気を遣っている。そして榛名の横暴ともいえる要求を受け入れている。
金沢は何度も澤がパシられたり暴言を吐かれたりするのを目撃していたし、その度やめるよう榛名を叱ってきた。
直後は一見改善したように見えたものの、金沢の見えないところでやるようになっただけだった。
これはもういじめである。
大問題だと思った金沢は以来、榛名に厳しく接し、澤への言動を改めるよう強く言った。
その甲斐あってか、榛名は澤に構わなくなった。
これで一件落着とほっとしたのもつかの間、問題はすぐに再燃した。今度は澤の側が榛名に絡みにいくようになったのである。
それで榛名はまたイライラし出して結局元の木阿弥である。
この澤の言動で、金沢はいよいよ二人がわからなくなった。
澤を執拗に足蹴にする榛名も、それに反抗せずに受け入れ、構われなくなるや自分から絡みにいく澤も、理解不能である。
澤を問いただしても適当に流されるばかりでわからない。
そこで、もうこれで話してくれなければ二人の問題は諦めよう、とダメもとで榛名に聞いたのが今年の春の合宿だった。
頼むから何があったのか話してくれ、と懇願した金沢に対し、榛名はようやく口を開いてくれた。
そこで榛名が話したのは、想像以上に重い過去だった。
◇
榛名の母親は、7年前に車にひかれて亡くなった。
100パーセント運転手の過失で、道のわきを歩いていたところを後ろからはねられたという。榛名と澤が小学4年生の秋のことだったという。
そのときたまたま現場に居合わせたのが澤だった。
澤は榛名の母の死を目の前で見たのだ。
そしてそれを境に変わってしまったという。
榛名の母が死んだのは自分のせいだと思い込み、罪の意識に苦しむようになった。
そして心を病み、パニック発作を起こすようになった。
塞ぎ込むことが多くなった澤を心配した榛名は、放課後野球に誘うようになった。すると、澤はだんだんと回復していったという。
そして中学に上がる頃には笑顔を取り戻した。
ここまでなら美しい友情物語である。
だが、その話には続きがあった。なんと澤はその後、榛名の彼氏を略奪したのである。それも一回ではなく、何度も。
そのせいで榛名はいまだまともに付き合った相手がいないらしい。
その話を聞いたとき、内心榛名が異性愛者だったことに驚いた。
榛名は下手な男子より女子にモテる。
すらりとして上背があり、王子みたいな外見であるだけでなく、中身も男前だからだ。
以前、女子野球部の方が持て囃されていることを妬んだ男子部員から女の野球なんて野球じゃない、と言われたときに真っ先に言い返したのが榛名だった。
それに、部員のストーカーになっていた男子生徒にお灸を据えたのも榛名だったし、練習を盗撮していた奴を証拠付きで教師に突き出したのも榛名だった。
とにかく男前というか、姉御肌なのである。
そして、女子特有の周りくどさがなく思ったことをストレートに言う。
こういったタイプはえてして女子の集団では浮きがちになるが、先に述べたような数々の騎士的成果を挙げていたので、榛名に限っては許されていた。
それ以上に憧れている部員も多いだろうと思う。金沢も全くときめかなかったといったら嘘になる。
男と女の嫌な部分を削ぎ落としたような存在、それが榛名なのだ。
だが、残念ながら榛名は女子には全く興味がないようだった。
高校に入ってからも普通に男子と付き合っていたからだ。
だがそれは長続きしなかった。澤がその男子生徒を好きになったからだ。
榛名が女子のアイドルだとすれば、澤は男子のマドンナである。
背中までの艶やかな髪に柔和に整った顔立ち、頭の良さ、女性らしい体つき、そしていつもニコニコしている愛想の良さ。
男が求める全ての要素を兼ね備えた人物、それが澤だった。
その澤にアプローチされて拒む男子はほぼいないだろう。
榛名にとっては気の毒なことに、付き合う相手は毎度澤を好きになることになった。
それは、澤が故意に榛名の恋人に近づいたからだ。
それが何度も繰り返され、さすがの榛名もブチ切れて二人は険悪になったらしい。
金沢はその話を聞いて以来、二人の関係には口出ししないことにした。
榛名の態度には理由があったのである。
過去を知った金沢は、むしろ榛名に同情した。
澤のしたことは友人としてありえない裏切りだったからだ。
むしろ、そんなことをされてもバッテリーを組んでいる榛名を尊敬さえする。自分なら絶縁だろう。
金沢は、そのとき榛名から聞いたことを誰にも口外しなかったが、チームメイトの中でも特に敏感な者、特に羽生などは、今春から金沢の態度が微妙に変化したのを察知したようだった。
そして最近、その変化の理由を聞かれた。
真実をありのままに伝えることはできなかったので、榛名がいくら言っても言うことを聞かないのでいい加減うんざりして、今年度からは成り行きを見守ることにしたのだ、と説明すると、一応は納得してくれたようだったが果たしてどの程度納得していたのかはわからない。
とにかくそんなふうにして、金沢は榛名と澤の確執について知ったのだった。
◇
意識が現在に戻り、教室の喧騒が戻ってくる。休み時間がもうじき終わりそうだった。
金沢はバッテリーふたりの過去についていろいろと思い出しながら、話していた同級生との当たり障りのない話題を探した。
すると、タイミング良く、新堂が発した言葉によって話題が逸れていった。
「榛名も相当癖あるけど、澤も面白い選手だよねえ。チームメイトや投手の尻を叩いたりしないでしょ? それが捕手の仕事のはずなんだけどね。投手が何かやらかしても責めないし、変な所に送球されてクロスプレイになっても文句言わないし。菩薩?」
「あれは、一歩間違うと投手をダメにするタイプの捕手だよ。榛名はそれがわかっているから距離を置いてるのかもしれない」
沖は珍しく強い口調で言った。
その言葉に、新堂は不思議そうに首を傾げた。
「投手たちには好かれてるけどね………?」
「それがダメなんだよ」
沖が首を振る。金沢も彼女と同意見だった。
「あんなやさしい捕手がいつも正面にいたら、簡単に自分の出来に満足するようになっちゃうだろ? 失投しても逆球を投げても何も言われない。あれじゃただの壁も同然だ。投手を育ててやろうという気概がない。余程完璧主義で自分に厳しい投手以外は崩れるよ。榛名は人にも自分にも厳しいタイプの典型だ。だから、澤は、投手を選ぶ捕手なんだ」
金井は尚も合点がいかないような顔をしていたが、新堂は納得したように頷いた。
「それ、香坂が言ってたことと同じだ。投げても投げてもブラックホールに吸い込まれてくみたいでまるで手ごたえがないって」
「香坂には却って、石神みたいなはっきり言うタイプの方がいいだろうね」
金沢がそう言い終わるのと同時に教師が教室に入ってきたので、野球部の3年生4人はそれぞれの席に戻った。
金沢は話を打ち切れたことに安堵して、ノートを開いた。
そして、ぼんやり授業を聞きながら榛名と澤を結ぶ絡まりあった糸のことを考える。
榛名と澤は執着し合っている。互いに嫌がらせをしながらも縁を切らぬのがその証拠。恐らくは幼少期の事故が大きく関わっているのだろう。
これは、他人がどうこうできる問題ではない。根が深すぎるのだ。
だから本人たちがどうにかするしかない。
その糸をほどけるのは、二人を置いてほかにいないのだ。
金沢は妙に強い確信とともにそう思ったのだった。