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「あー………暇」

 栄徳高校は、第24回全国女子高校野球選手権宮城大会の初戦を迎えていた。
 昨年、甲子園出場を果たし、ベスト8という成績を残した栄徳は、シードで1回戦を免除されていたために、2回戦からの戦いだった。
 榛名玲はこの日、登板がなかったために、ベンチの奥でダラリと手足を伸ばしていた。
 相手が遥かに格下のチームだったため、他のレギュラー陣もほとんど出されていなかった。

 レギュラーで出ているのは、1番ショートの沖一沙、3番ファーストの羽生葵、6番キャッチャーの澤樹ぐらいで、それぞれ沖3番、羽生4番、澤5番と打順がずれて、他にあいた所に控え選手が入っていた。
 先発は3年生の香坂優で、エースの榛名玲とともに、入部したばかりの有望株、丹波ミサキがベンチ入りしていた。
 榛名は文句を垂れながら、横でデータ表を熱心に読む丹波の方に注意を向けた。

「それ真面目に読む価値無いって。普通に投げてりゃコールドで7回終了だよ」

 丹波は何も答えない。

「聞いてんの?」

 雲行きが怪しくなりだしたのを察して調停者、羽生葵が飛んでくる。
 榛名は羽生の登場に内心舌打ちした。

「まあまあ、高校入って初めての大会なんだし、気合い入ってていいじゃん」

 なだめるようにそういう羽生を無視し、榛名は鋭い口調で言った。

「先発でもないのにそんなん読まなくていいって。丹波がマウンドに上がる頃には打者二順して癖が丸見え状態だろ」
「ちょっと、そんな言い方……」

 丹波はそれまで読んでいた資料を膝に置いて、初めて榛名と目を合わせた。

「でも、データが頭に入った上で見たほうがより分かると思います。澤さんがせっかく作ってくれたこのデータを叩きこんでから投げたいんです」

 すると榛名は顔をしかめて呟くように言った。

「本当投手に取り入るのがうまいな……」
「どうしてそんな言い方するんですか?」

 丹波はひざの上の拳を握りしめた。

「投手だったら誰でも、澤さんみたいなキャッチャーにとってもらいたいって思いますよ。先輩、澤さんとうまく行ってないんですか? この前の練習試合の時も、ちょっと球捕りこぼした位であんな言い方ないです。それにあのとき、コントロール外したのは先輩の方だったじゃないですか?」

 榛名は鼻を鳴らした。
 澤のいつものパターン。投手の同情を買って懐に入る。可哀想な被害者を演じて相手の庇護欲をくすぐって手中に収めるーーそうやって人をコントロールするのは今に始まったことではない。
 どうしようもなく卑怯なやつなのだ。
 榛名は、これまで澤にやられたことを思い出し、怒りが膨らむのを感じた。
 そして不機嫌を隠しもせずに、ぶっきらぼうに言う。

「あんまりあいつに入れ込みすぎると痛い目見ることになるぞ。親切な先輩からの忠告」
「どういう意味ですか?」

 熱に浮かされたような丹波の瞳がわずかに揺れた。

「あいつ、中学で投手をひとり、潰してる」
「え?」

 丹波だけでなく、傍にいた羽生も驚いた表情をした。
 榛名はふたりから視線を外し、ユニフォームに目を注ぎながら言った。

「ああ、そういえば羽生にもまだ言ったことなかったっけ。まあわざわざ言うことでもないから言ってなかったんだけどさ」
「つぶしたってどういこと……?」

 羽生がショックを隠しきれない表情で聞いた。
 榛名の怒りはこの頃にはもうおさまっていた。
 しかし、その代わりに、澤と自分の過去について干渉されたくない、という気持ちになったので口調は次第に素っ気なくなっていった。

「文字どおりの意味だよ。いい投手で、人間関係も悪くなかったはずだったんだけど、3年になってすぐやめたんだ。引き留めようといろいろ頑張ってはみたけど無理だった」
「怪我とかではないんだよね?」
「違うよ」

 榛名がうなずいた。

「故障はあったけど、その時点ではもう復帰していた。私含めほかの部員たちも、何が直接的な原因だったかはいまだに分かってない。だけど、会田の話しぶりからすると澤と何かあったみたいなんだ。何か言ってしまったか、やってしまったか、それともその両方か、真相は結局わからなかった。だけど、あいつが何かしたってことには間違いない」
「そういうことするようには見えないけどなあ……」

 羽生が首をかしげていると、噂の張本人、澤が、控え捕手の石神京香を連れてやってきた。

「丹波ちゃん」
「はい!」

 立ち上がって背筋を伸ばした丹波に苦笑しながら澤が言った。

「データ読んでくれたんだね。今日は6回から登板の予定だから、5回に入ったら石神と肩作っておいてくれる?」
「はい! よろしくお願いします!」

 深々と頭を下げる丹波に頷き、石神は榛名の前の椅子に腰かけた。
 そして、小さなバッグをおもむろに取り出す澤に視線を移した。
 丹波がつられてそちらを見ると、彼女は手に持った弁当のバッグを榛名に差し出した。

「はい、これ。この間おいしいって言ってたから、今日も肉詰めピーマン入れたよ」
「どうも」

 丹波は立ったまま、澤が榛名に弁当を渡すのを目を丸くして見つめた。

「ビックリした?」

 羽生は、恒例行事をこなす栄徳バッテリーと、ふたりを凝視している丹波とを、交互にニヤニヤと眺めていた。

「え? お弁当……?」
「そう」

 羽生は顔に笑みを張りつかせたまま頷いた。

「こうやって試合がお昼にかかる日はいつも、澤が榛名に愛妻弁当作ってくるワケ。学校じゃ学年もちがうし気付かなかったろうけど、部内じゃ有名なんだよ」

 羽生はそれから、仏頂面で弁当を受け取る榛名の方をちらりと見て、軽い口調で言った。

「これで1年にバレちゃったねぇ」
「澤は料理が趣味だから、その実験台」

 この弁当の件でどれだけからかわれてきたか、と榛名は内心忸怩たる思いを抱く。
 いくら幼馴染みでも普通弁当を作ったりはしない。
 だが澤はなぜかそれを生きがいにしていた。
 大方、母を奪ってしまったことへの償いとかだろう。
 重すぎるので本当は断りたかったが、いらないと言うと泣くので諦めた。そして次第にそれが当たり前になった。
 これのせいで榛名と澤は実はめちゃくちゃ仲が良いと思われている。
 だがそれは事実ではなかった。
 澤とは仲良しどころかまともな会話さえない。
 いつも澤が一方的に話してきてそれを適当に流しているだけだ。
 これまでの澤の悪行を考えたら無視したいぐらいなのだが、それをするとまた発作を起こすので仕方なく付き合っている。

 寮に入った榛名と違い、自宅通学の澤を最寄りのバス停まで送るのも、昔変態に攫われかけた澤が一人で歩くのを怖がるからだし、週末に澤の実家に泊まるのも、昔から家同士付き合いがあるからだ。それ以上でも以下でもない。
 
 正直、澤にはもううんざりだ。嫌いなら放っておいてくれればいいのにこうも粘着されるからどうしてもイライラしてしまう。
 そして、ストレートに感情をぶつけて周りの人間に悪者扱いされるの繰り返しだ。
 だが、澤の本性を知ったら周りの反応も変わるだろう。
 だから時折、全てをぶちまけてしまいたくなる。
 澤がどんな人間か、何をしてきたかを全て話してしまいたくなる。
 しかしそんなことをすればまた病気がぶり返すだろう。
 澤の家族にお世話になってきた身として、それはできなかった。
 前にも後ろにも進めない袋小路で、榛名はそうやってひとり葛藤しているのだった。
 いかにも関係を誤解したふうで榛名と澤を交互にちらちら見る一年生にうんざりしながら、何か言いたげにこちらをじっとみる澤に言う。

「試合始まる。さっさと行け」

 澤は防具をつけ、羽生とともに歓声に満ちたグラウンドに出ていった。榛名はそれを認めてから、再びため息を吐く。
 すると、丹波が思いつめた様子で口を開いた。

「じゃあ、榛名さんは澤さんの特別なんですね」
「はあ? いや、違うけど」

 丹波は悔しそうに歯を食いしばって、それでも勝ち気な目で榛名を見すえた。
 そして何を勘違いしたのか、こう宣言した。

「自分、負けませんから。自分も澤さんに弁当作ってもらえる位の投手になります!」

 榛名はポカンとして丹波を見た。
 相手はどうやら、澤が、自分が認めたピッチャーには弁当を作る習慣があると勘違いしたようだった。

「いや色々違うよ」

 しかし丹波は決然と言った。

「澤さんに認められるエースになります!」
「だ、だからね、樹ちゃんは別にはるちゃんがいい投手だから作ってるんじゃなくて……」

 そこで成り行きを見ていた石神が何気に失礼なことを言ったので抗議する。

「はあ? 私がいい投手じゃないってどういうことだよ?!」
「2年! うるさい!」

 揉めている3人に一喝を飛ばしたのは、副主将の金沢悠木だった。金沢は牽引力と統率力のある4番だった。
 そのため、実質的には主将とみなされている。

「榛名、いい加減にしろ。羽生がいないんだから1、2年はあんたがまとめなきゃダメでしょうが。じゃれてないで、相手打者の討ち取り方の一つでも教えてやりな」
「はい、すみません」

 榛名は素直に謝った。金沢のことは尊敬していたからだ。
 金沢はスポ根漫画の主人公みたいな精神論好きの性格だが、同時に面倒見がよく、現在3年生の投手、香坂をエースから引きずりおろして、以来、孤立しがちになった榛名を一番気にかけてくれた人だった。
 榛名は凶暴だが向こうみずではなかった。そして恩には必ず報いようとした。
 だから金沢の言うことは素直に聞いたし、彼女にはなるべく迷惑をかけないようにしていた。
 榛名は体を起こし、金沢に頭を下げると、声を落として隣に座る丹波に言った。

「後ろじゃ見えないから前行こう」
「はい」

 そして相手バッターの癖を分析しながら、丹波といずれ競う未来がくるかどうかについて思いを馳せたのだった。