丹波ミサキはマウンドの上に立って、この上ない喜びをかみしめて天を仰いだ。入部して早々大会に出してもらえたばかりか、前方には、自分がその背を追ってきたひとがミットをかまえているという状況は、それだけで彼女の心に大きな感動を呼び起こした。
初戦にもかかわらず、彼女はプレッシャーがかかったときに襲ってくる、イヤな感じの緊張を感じていなかった。気は張っていたが、それは心地よく、どちらかというと高揚感を伴った緊張感だった。
丹波は肩慣らしを終えると、正面のスコアボードに目をやった。6回表の現時点で、点差はすでに9点ついていた。丹波はそれを見て、どうやら榛名の予言通り、7回で試合が終了しそうであることを悟った。
しかし、相手が格下で、2イニングしか投げられないとしても、丹波の気分は1ミリも落ちなかった。それが、澤と迎える初舞台だったからだ。
丹波は、澤が構えた所に投げ込みながら、一大決心して、地元を離れて栄徳に来て本当によかった、としみじみ思った。初めての寮生活は思ったより辛く、何度も実家のごちゃごちゃした居間に帰りたくなったり、親の手料理が恋しくなったりしたが、3ヶ月間歯を食いしばって耐え抜いた。
初めてのことの連続で大変だったが、頑張って乗り越えてきたかいがあった、と思った。こんなに素晴らしい舞台で、一流のチームメイトと共に戦えるなら、寮生活の苦労も吹っ飛ぶというものだ。
楽しくて、楽しくて、ただ投げ続けて、気がついたら試合は終わっていた。
駆け寄ってきた澤に、お疲れ、いいピッチングだったよ、と言われたときには天にも昇る心地がした。体が打ち震え、自分はまさにこの一言のためにここまで踏ん張ってきたのだ、と思った。
そして、投球についてのアドバイスがもらえるかもしれない、と考えて相手の顔を見つめたが、澤はそれ以上何もいわずに去っていった。丹波は、きっと忙しかったのだろう、と思うことにして、自分もベンチから引き揚げた。
◆
その日、完封勝利したチーム栄徳の選手たちは、会場の外の木陰でストレッチを始めた。これは試合後の恒例行事ともいうべきもので、これを怠るとのちのち、あまり喜ばしくない事態に陥ることを知っている彼らは、黙々と作業を続けた。
丹波もまた、彼らと同じようにふたりひと組のストレッチを行っていたが、一向に集中できなかった。それは、彼女の右隣りに、香坂優と組んで前屈している澤の姿があったからだ。
丹波は彼女に飛びつきたい衝動を何とか抑え込んで、ダウンを終わらせた。そして、相手のストレッチが終わったのを確認すると、声をかけようとした。
彼女が口を開きかけたまさにその時、榛名がやってきて澤に無言で弁当の包みを手渡した。そして素早く踵を返した。澤はその背中に向かって懇願するような、こびるような声で言った。
「あの、三回戦の戦略について後でもう1回確認したいんだけど、いいかな?」
既に立ち去ろうとしていた榛名は、背を向けたまま答えた。
「じゃあ学校に戻ってから。バスでやると酔うから」
「うん」
澤は明らかにうれしそうな表情になってうなずいた。
彼女は歩き去ってゆく榛名をしばらく見つめていたが、集合の声がかかるとはっと我に返ったように荷物を持って歩き出した。
丹波は立ち尽くしたまま、ついに澤に声をかけられなかった。
それは、彼女が榛名に、あまりにも焦がれるような、熱い眼差しを注いでいたからだ。他者の介在を拒むような絶対的な絆を見せ付けられた気分だった。
勝利や、澤とプレイできたという嬉しさの余韻が急速に引いていった。丹波は、なぜか惨めな気持ちで、寮に戻った。
◆
その日の夜、食堂でぼんやりご飯をつついていると、向かいに陣取った緑川順が訝しげな顔をした。
「どうしたのよ、丹波。無失点コールド勝ちした割には元気ないじゃん。いつもの無駄なポジティブさはどこ行ったの? あんた1年の中じゃヒーロー扱いよ。もうちょっと嬉しそうな顔したら?」
「そうだよ。うちらは試合にも出られなかったのに、初戦で終盤を任されるなんて、やっぱり丹波はすごいなあ」
緑川の横にいた川上ひろみが感心したように言った。
ふたりは部活仲間でもあり、クラスメイトでもあり、また、寮のルームメイトでもある、丹波と極めて縁が深い友人だった。ふたりは、3人の中で唯一ベンチ入りしている丹波をいつも応援してくれていた。一緒にいる時間も長い。
そのために、彼らは、丹波の微妙な変化を敏感に察したらしかった。
緑川はよく手入れされた眉をひそめて川上を見た。
「ほめてる場合じゃないでしょ。今の2年生は層が厚くて人数が多いんだから、うかうかしてると先輩たちがいなくなるまでベンチにすら入れないかもよ?」
丹波は緑川のいうことにも一理あると思った。
今年の2年生は去年、2年生――現在の3年生――を軒並み蹴落としてレギュラー入りをしたことで有名だった。
エースも、正捕手も、ファーストもセカンドもライトも2年生だ。ベンチにも3年生より2年生の方が多く入っている。豊作の年の前後は、苦戦を強いられるのが常だった。
それでも、すでにベンチ入りしている丹波の一番の関心ごとは、試合に出られるかどうかではなかった。
「澤さんってね、すごいんだよ。相手の打者の嫌なコースを知ってて、そこに投げさせるんだよ。好きな球種も全部データにあって、相手の作戦も全部見抜いててさ」
「送捕球もすごくて、でしょ? 丹波ってマジ澤先輩好きよねー」
緑川は半ば呆れたように言った。丹波は構わず続ける。
「その上、うちのために相手のデータも全部取ってくれたんだよ! 特に今日は、コーチも作ろうとしなかったのに、わざわざ細かく調べてくれたんだ………。うち、澤さんみたいなキャッチャーには初めて会ったよ。いつも一生懸命で、優しくて……憧れるなー」
「そうよねえ。皆に好かれてるよね。ていうか澤さんってお付き合いしてる相手いるのかな? 絶対いるよね、あんなに美人だし。誰なんだろう。丹波、アンタ何か情報ない?」
「え? どういうこと?」
意味を理解できなかった丹波が聞き返すと、緑川は頬杖をつき、夢見るように言った。
「澤さんってすごくいい女よね。頭もよくて運動神経もピカイチで美人でその上あの性格。狙われない方がおかしいってカンジ」
「えっ? 緑川って先輩のこと好きなの?」
丹波が思わず聞くと、緑川はまさか、と大げさに否定した。
「そんなわけないでしょ。ただ何ていうか、なんかいいなーって」
そう言って首を振る緑川に、丹波は言った。
「それを好きっていうんじゃないの? 別に偏見ないから気にしないけど。でもそうだとしても、残念ながら望み薄だね」
「やっぱり彼氏いるの?」
丹波は耳をダンボにして聞き入るふたりを交互に見てから、声を低めて続けた。
「いや、それはわかんないけど……でも榛名さんがいるじゃん」
「えっ? あの二人ってマジだったの? 噂は聞いたことあるけど……」
「いや、そういう意味じゃなくて……なんていうのかなー、ふたりが付き合ってるとは思わないけど、誰もあのふたりの間になんて割り込めないような感じがするっていうか」
「何となくわかる」
川上が同意する。
「そう。深い絆で結ばれてるんだよ。他人の侵入を許さないような、本当に強い絆があるんだ……。うち、澤さんにお弁当作ってもらえるようなエースになりたいけど……」
丹波の言葉に緑川が噴き出す。
「いやいや、何で弁当?」
「だって榛名さんにはあげてるもん」
「え? 澤さんって榛名さんにお弁当作ってあげてるの?」
「今日渡してた」
「え、マジで?」
ベンチ入りしていなかった二人は知らなかったのだろう。
丹波の言葉に仰天していた。
「肉詰めピーマン入れたっていってた。うちも食べたかった、肉詰めピーマン! うちも澤さんの手料理食べたいよ~!」
そう力一杯叫ぶ丹波の向かいに座ったふたりは、唖然として顔を見合わせた。
「澤さんが……榛名さんに弁当……?」
「それってもう……」
地団駄を踏む丹波の口を塞ぎながら緑川がショックを受けたように言った。
「バカ丹波、アンタ勘違いしてるわ……。澤さんが榛名さんにお弁当作るのは投手だからじゃなく……あーあ」
ひっそりと落ち込む緑川を慰めながら、川上は、未来のエースの呼び声高いルームメイトを見た。
そして、彼女の機嫌が良くなかった理由が、澤の手作り弁当をもらえなかったことにあったことを悟った。
丹波はやがて、極めて子供っぽい手法で己の不満を表明し始めた。
「たーべーたーいー! たーべーたーいー先輩の手料理ー! 先輩のエースになるー!」
丹波は食堂中の耳目を集めるほどうるさかった。そして、ついに見かねた職員に注意されるに至って、彼女はようやく、素直な願望の表現をやめた。
職員の介入のために、その話題は一旦そこで立ち消えになったが、榛名と澤の噂が部内の1年生に広まるまで、緑川の口の軽さをもってすれば1日もかからなかった。