小説における視点の問題ーー内的焦点化について


小説を書く人なら、プロアマ問わず作品の書き初めに考えるのが、「一人称の語りにするか三人称にするか」「どのキャラクターの視点で書くか」だろう。

一人称とは私は〜、僕は〜、のような語り口であり、三人称は佐藤は〜、などのキャラクターの名前を使う語りである。

一般に、一人称は主観的に主人公の思考や内面が描かれる主人公視点の物語、三人称は客観的・俯瞰的に描かれた物語、とされるが、三人称小説に関しては必ずしもそうとは限らない。

それは、主観的な三人称小説も存在するからだ。

三人称でもあるキャラクターの視点に立ち、その内面を描けば主観的となる。

それを内的焦点化という。


あるキャラクターの視点に立ち、その内面を描くことを内的焦点化というが、これは一人称でも三人称でも可能である。

そして内的焦点化にも種類があり、


①ゼロ焦点化

全てのキャラクターの内面に触れる、いわゆる「神/全知の視点」で描く

②固定焦点化

ある特定のキャラクターひとりの視点で描く

③不定焦点化(シーンごとに一人のキャラクターに内的焦点化させる三人称一元視点に近い)

何人かのキャラクターの視点で描く


と大きく三つに分かれる。

それぞれ長所短所があり、


①全知の視点では読者は全ての情報が与えられ、全ての出来事を描けるのに対し、内面描写は限定的となる。

これは、特定の人物に焦点化し過ぎると分量オーバーになるためだ。


②③一方、一人、あるいは少数のキャラクターへ焦点化する場合には、充分にその内面世界を描くことができるが、他のキャラの内面と、彼らが関係する出来事を網羅的に描けない、という欠点がある。


このどちらを選ぶか、あるいはキャラクターの思考を全く描かずに書く(外的焦点化かは作者の裁量となる。


一人称小説の場合にはほぼ問答無用で②となるだろう。

しかし、三人称小説の場合、①②③の選択肢があるわけで、どれにするかは迷うところだ。

個人的に一番書きやすいのは③の不定焦点化。何人かのキャラクターに絞って内的焦点化をするのがやりやすい。(23)


例えば、『スパロウのうた』では、内面世界が描かれるのは主人公の優馬と淳哉のみであり、彰の内面には一切触れられない。

読み手が彰の感情、思考、価値観を読み取れるのは、優馬と淳哉の主観を通した彰の表情や仕草、及び台詞からのみである。

そのため、彰の本心は完全には開示されず、読み手に与えられるのは優馬と淳哉が得た情報のみである。

この辺りは結構意識して徹底しており、それは他作品でも同様である。これは自分なりにかなりこだわっている部分だと思う。


それは、その方が読みやすいからというよりも、キャラクターの内面世界をより緻密に描写したいという欲求による方が強い。

そして視点を厳密に固定し、美しく仕上げたいという思いもある。

プロであろうがアマであろうが作家というのは芸術家であるべきであり、美しいもの・芸術を作り上げるために最適な技法を使うべきだと思うからだ。


例えば、〇〇という技法は公募で賞をとれない、と言われても、自分の感性に合うならば使うべきである。

なぜなら、小説の賞というのはほとんどが商業作家が審査員として選定するものであり、その審査基準は「売れるか否か」だからだ。

芸術的価値の高い作品が売れるのであれば、ヴァージニア・ウルフやキーツやシェイクスピアやホーソーンやフィッツジェラルドの作品が爆売れしているだろう。

だが、そうではない。現実に売れているのは芸術的価値のない商業主義の小説ばかり。

そこには思想も芸術性もなく、現在の価値観への挑戦もない。

そういう作品に芸術的価値はない。


だから、芸術家としての作家にとってその技法が世間(出版界隈)で評価されているかどうかは関係ない。

自分が表現したいことを最もよく表現できる手段として、評価如何に関わらず取り入れるべきである。

小説技法について、私はそういう考えを持っている。