十年前――。
夢の中で、少年が駆けてくる。
その少年は、白銀楼の自室で支度をしていた信の部屋に飛び込んだ。
見ると、饅頭片手に息を切らしているその子の目は綺麗なオリーブ色だった。
そこに、強い意志を宿してこちらを見る。その眼光の強さに気圧されていると、廊下から声がした。
「廊下は走るなと言ってるだろうが! それから盗み食いをするなー!」
少年は、信の背に隠れた。
「助けてくださあ~い。オニババが怒るんです」
「誰がオニババだ! 菊野、そこをどけろ!」
鬼の形相でやってきたのは二歳年上の傾城(けいせい)、津田秀隆だった。日本舞踊の名手で、よく一緒に座敷にあげられることも多い相手だ。店では紫蘭と呼ばれている。
彼もすでに着付けを終え、鮮やかな朱の友禅を着て、アップにした長髪に花簪を挿していた。だが、少年を追って走ってきたのか、着物の袷のところが少し乱れている。
「まあまあ。まだ若いんだから」
「若いっつったって巷じゃ高校生だぞ!?……もう~~堪忍ならん! 来い、思い知らせてやる!」
どうやら後ろに隠れているのは津田の部屋付きの禿(かむろ)のようだった。
店に来て早々いろいろやらかして注目の的になっていたから名前は知っている……アンダーソン秋二。ハーフらしいが、顔立ちは日本人と変わらない。
源氏名は……確か立花(りっか)だ。
遠目から見たことはあるが、実際に顔を合わせて話すのはこれが初めてだった。
「私たちだってそうだったでしょう?」
信が宥めるように言うと、津田は叫び返した。
「断じてコイツほどではない。それは言える! いろいろやったが。コイツときたら仕事はサボるわ、勝手に建物中を徘徊するわ、座敷にホイホイ入ってくるわ、客にタメ口使うわ、白昼堂々厨房から食いモンくすねてくるわ……もうウンザリだ! 水揚げ間近の子の世話だってあるのに毎日毎日毎日……! もう放り出してやるぞ!」
「そんなこと言わずに。良い目をしてるじゃないですか。長所を伸ばしてあげればよく育ちますよ、こういう子は」
「そんなに言うならお前がやってみろよ!」
「いいですよ」
「えっ?」
声を上げた津田に、信は頷いてみせた。
「ちょうど最近ひとり手を離れたところだったので空きがあります。もし……アンダーソンくん、だっけ?…が良ければだけど」
振り返ると、その少年、秋二は饅頭片手に信の顔をじっと見てきた。
その透き通ったオリーブ色の目に引き込まれそうになる。
どこかで会ったことがあるかな、と思った。
「あっ、もしかして菊野さんですか?」
「知ってるの?」
「うん。優しいって評判だから」
そのことばに、拗ねた津田が言う。
「優しくなくて悪かったなっ!」
「おれ、ここの子になる」
「そう」
「いいのか菊野? 後悔しても知らねぇぞ?」
「するわけありません。素直で良い子そうですから。後悔するのはどちらか……」
「フンッ! もう知るか、勝手にしろッ! 報告はしておく!」
そう言い捨てて憤然と去ってゆく先輩の後ろ姿に苦笑して眺めていると、不意に手を引っぱられた。
「ど、どうしたの?」
「こっち来て」
派手な着物姿のままズルズル引きずられていったのは店の外だった。どこに行くのかと思っていると、秋二はそのまま信を裏手の小さな山へと連れてゆく。そこは、季節の催し物などが行われる、玉東のすぐ東にある紅山(くれないやま)だった。
整備された表側の山道を駆け上がり、頂上に着く。そこには展望台があり、麓に広がる街から東京都心までが一気に見渡せた。何人かの観光客が談笑している。
秋二は展望台の一番先まで信を連れて行くと、声高らかに宣言した。
「いつか連れてってやるよ、あっち側に。マトモな世界に、一緒に戻ろーなっ!」
そう言って振り返った少年の眼差しは、強く、燃えるようだった。
確信に満ち、絶対的な自信をもった目。
その目に心臓を射抜かれる。しびれるような意志の強さと自信に、瞬時に心をつかまれた。こんなにも強烈な感情を呼び起こす人と出会ったのは初めてだった。
あるいは、これが恋なのかもしれないと思う。
信は雷に打たれたような思いをしながら答える。
「うん。楽しみにしているよ」
そして、遥か彼方のビル群に目を凝らす。前に見た時よりも近くにあるように見える。
なぜかこの少年となら、どこまででも行けるような気がした。