まず注意を引いたのは若い男の悲鳴だった。
豪奢なシャンデリアが下がり、赤い絨毯が敷かれ、暖炉や絵画といった調度品のあるホテルのロビーのような空間の中央、周囲より一段高くなった場所に磔にされた青年がいた。
遠いのでよく見えないが、声からして二十代。
はだけた着物の上から縛られ、鞭うたれていた。
他にも何かされているようだが、すぐに目をそらしたのでわからない。
助けを乞う悲痛な叫び声に胃液が逆流してきたが、他の客は誰一人として気に留めていないようだった。
ステージを取り囲むようにして置かれたテーブル席で歓談しながらつまみ片手に酒を飲んだり軽食を食べたりしている。BGMはクラシックがかかり、その青年と周りを囲む異様な風体の男たちさえいなければ、ホテルのラウンジにさえ見える。
その光景を見て、河岸の噂は本当だったのだ、と戦慄する。
秋二は玉東で傾城(けいせい)として働いていた時、河岸に落ちれば生きて玉東を出られない、という噂をさんざん耳にしていた。
中でも、『地下』と呼ばれる完全非合法の店に落ちると、過激なプレイと薬物の横行で、三年もたないという噂だ。
当時はそんなのはただの都市伝説だと思っていた。
だが、噂は本当だったのだ。
演技もあるかもしれないが、ステージ上では相当に凄惨なことが行われているようだった。
吐き気をこらえて峰岸についていくと、入り口付近のテーブルで歓談していた太った男に声をかけられた。
「おお、峯岸さん、今日はずいぶん早入りだね」
「これはどうも、神宮寺さん。そうなんですよ、今日は珍しくね」
五十半ばくらいに見えるその男は、それから秋二に目を移した。
「こちらは?」
「この間お話しした方ですよ。リチャード・アイルズくん。シカゴのご出身なんですが仕事でしばらくこちらにいるそうで」
「日本語は?」
「ほとんど喋れないみたいです」
峯岸はここで英語に切り替えて秋二に太った男……神宮寺を紹介した
「コンニチワ。アー、ジングージ?『はじめまして。リチャードと呼んで下さい』」
バイリンガルであることがバレないよう片言の日本語混じりの英語であいさつをして右手を差し出すと、神宮寺は笑みを浮かべて握手に応じた。
『楽しんでいくといい。綺麗な子ばかりだからね』
「『はい』 アー、ヨロシクオネガイシマス」
神宮寺は頷き、再び峯岸の方を見た。
「今日は当たるといいんだけどね」
「ああ、ロットですか。でも倍率高いですからねえ。深雪ちゃん、狙ってるんでしょ?」
「そうそう。もういくら注ぎ込んだか……。いい加減当たってほしいよ」
「さすがにそろそろじゃないですか」
ロットとはなんなのかを聞きたくて仕方なかったが、日本語がわからないフリをしている以上、無理だった。
そのうち、神宮寺との会話を切り上げた峯岸はまた歩き出し、ステージの右側奥の席に秋二を案内した。
そこが定位置らしい。
真ん前ではないがステージはよく見える席だった。
穏やかなクラシックのBGMと、悲痛な声との落差に気持ち悪くなりながら、手渡されたメニューから適当に軽食とシャンパンを頼んで注文をすませる。
喉を通るかわからなかったが、とにかく気合いで乗り切るしかなさそうだった。
『素敵なところですね。やはり日本はいい』
『そうでしょう。特に性風俗に関しては抜きん出ていますからね。ここもショーを観るだけじゃないんですよ』
『というと?』
『参加型ですよ。ロットといって、クジで当選するとショーに参加できるんです。調教師たちに混じってね。ああ、そろそろ始まりますよ』
指された方を見ると、ステージ上に目の部分だけ覆うマスクを被った男たちが出てきた。
そして、アナウンスが入る。
「みなさま、本日もようこそ小鳥の楽園へお越しくださいました。では本日最初のロットを開始したいと思います! それではいよいよ登場です!」
直後にステージ袖から現れたのは、後ろ手に縛られ、目隠しをされた青年だった。
調教師に両脇を抱えられ、もつれるようにして中央まで連れてこられ、目隠しが外される。
目の大きなほっそりした青年は、混乱と恐怖に満ちた表情であたりを見回した。
とても演技には見えない。
つまりここは、そういう場所らしかった。
「ご希望の方はお手元の端末から申請してください。グレードS、グレードA、グレードBを受け付けております。なお、ロット権はプラチナ会員さま限定の特典となります」
すると、峯岸は端末を操作して抽選の申し込みをしてから、ご丁寧にアナウンスを翻訳してくれた。
説明を聞いているうちロットが終了する。当選者が発表され、客が壇上に上ってゆく。
そして、この先一ヶ月は夢に見そうな凄惨な陵辱が始まった。
縛られ、玩具で嬲られ、複数人に犯される。
陵辱の間、青年はずっと泣き叫んでいた。痛い、助けて、と繰り返し叫んでいた。
しかし、誰一人として行為をやめる者はいなかった。
『ちょっと失礼、手洗いに』
秋二は耐えきれなくなって最後まで見ずにトイレに立つと、個室に入って吐いた。
一生見たくなかったおぞましい光景に胃が痙攣している。
秋二は何度もえずいた後、水を流し、ハンカチで唇を拭って便器にへたりこんだ。
本当にこんな場所に信がいるのか。だとしたら無事だとは思えない。
ここは常人が正気を保てる場所ではない。
もう、話ができる状態ではないかもしれない。
自分のこともわからないかもしれない。
それでもいくか、と自分に問いかける。
答えはイエスだった。
どんな姿になっていてもいい。ただ、生きてさえいてくれれば。
秋二は拳で腿を叩いて喝を入れ、立ち上がってトイレから出た。そして悪夢の場所に戻った。
◇
席に戻ると、一回目の参加型ショーが終わっていた。
あの青年はもういなくなっていて、入店してからずっと聞こえていた悲鳴も聞こえない。
秋二は少しホッとして席についた。
『残念。もう一回目のショーは終わってしまいましたよ』
『少し私用の電話をしていたもので』
『そうですか。まあ次もありますから』
『またロットですか?』
そう聞くと、峯岸が頷いた。
『今日の目玉ですからね。表に出てくることがあまりない子なんですが、これが本当に綺麗でね。年はいっているが人気なんですよ』
『表というのはここのことですか?』
『そうです。鶯庵ではショーに出て固定客がある程度つくと引っ込むんですよ。まあ、個人でお相手してもらえるのはある程度以上の人たちだけだけどね』
『なるほど、そういうシステムなんですか』
どうやらプラチナ会員とやらになるだけでは個人で会えないらしい。これは道のりは長そうだぞ、と思っていると再びアナウンスが入った。
「ご歓談中のところ失礼いたします。では、お時間になりましたので本日二回目のロットを行いたいと思います。小鳥ちゃんは、みなさまご存知、『底なし沼の菊野』で知られた元太夫の深雪ちゃん、今回も特別出演となります。お見逃しなきよう。それでは、登場です!」
真っ赤な仕掛けに白の花簪をさし、金の太鼓帯を締めた姿の青年が姿を現した瞬間、秋二の周囲から音が消えた。
それは秋二が初めて愛した人だった。
自分を最も慈しみ、そして、最も傷つけた人。
彼が今目の前に立っていた。その変わらなさに、思わず息をのむ。
着ている着物は違う。昔は今みたいに抜き襟もしていなかったし、太鼓帯でもなかった。
彼は……天野信は、いつもきちんと着物を着ていた。そしてその様は品と華があって非常に美しかった。
昔との違いはそれだけだ。その他は十年前となにもかも同じ。年すらとっていないように見えた。
穏やかな表情も、左右対称に完璧に整った目鼻立ちも、笑い皺の兆候のある目元も、くすみひとつない白い肌も、落ち着いた佇まいも、何ひとつ変わっていない。
変わらなすぎて怖いくらいだった。
その姿を見た瞬間に一瞬で過去に連れ戻される。
彼は、秋二に玉東でのイロハを教えてくれた傾城(けいせい)だった。