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 天野信は、秋二が在籍していた白銀楼でお職、つまりトップを張っていた傾城(けいせい)である。
 左右対称に完璧に整った顔立ちに、すらりと長い四肢、抜けるように白い肌。
 華奢なわけでも、女っぽいわけでもないのに、なぜか男を惹きつける魔性の魅力を持った男だった。
 そして彼は、その美しい容姿はもちろんのこと、博愛主義で教養があり、優しかったので店中、いや、玉東中の傾城達を魅了していた。
 そんな人物に心惹かれぬわけがない。事実、信は界隈で『傾城殺し』の異名をとるほど男の傾城にも、女の傾城にも人気があった。
 かくいう秋二も、信の魅力にはまった一人だった。
 秋二が玉東に来たのは十四のとき。親にゲイだとバレて険悪になり、家出して行き着いた先がそこだった。
 アメリカの田舎出身だった母親は、愛情深いが同性愛者には厳しい保守派のクリスチャンだった。
 彼女は、自宅で同級生の男子とキスしている秋二を見ると怒り狂い、お前は異常だ、と言い放ったのだ。
 その言葉にショックを受けた秋二は家を出た。そして年齢を偽ってバイトを始めたが、住むところがなかった。
 明らかに子供の秋二に部屋を貸してくれるところはどこにもなかったからだ。
 それで仕方なく安いゲストハウスの共同部屋で暮らしていたが、ある日相部屋をしていた外国人旅行客から、玉東の話を聞いた。
 なんでも、そこは吉原を模して造られた観光街らしい。
 秋二が東京に住んで長いことを知ったその観光客は、ぜひ案内してくれと言ってきた。
 玉東には行ったことがなかったが、暇だった秋二は了承した。
 そして、その外国人と一緒に玉東に足を踏み入れたのである。
 玉東は、吉原に負けず劣らず華やかな場所だった。
 深紅の大門から一歩入るとそこは江戸の街並みであり、通りには軒先に提灯をぶら下げた木造の店が並び、和傘をさした花魁がその間を闊歩していた。
 呼び込みの声が響く街は活気にあふれ、障子窓の楼閣のベランダからは花魁が優雅に通りを見下ろしている。
 十歳まで米国で過ごし、こういった日本文化にまだ触れたことのなかった秋二は瞬時にその街に魅了された。
 異国情緒あふれる和風建築、地元・ミズーリの田舎では見たことのなかったしだれ柳、そして、きらびやかな着物を身にまとって道を行く花魁達。
 伝統的な日本食を出す料亭、団子が食べられる茶屋、簪や扇子を売る小物屋。
 何時間いても飽きることのない、夢のような空間だった。
 それに魅了され、秋二はそれから玉東に通うようになった。
 手持ちがなかったので花魁のいる店に入ったのは外国人の友達と来た最初の一回だけだったが、茶屋で花魁道中を眺めているだけでも楽しかった。
 中の店で住み込みで働けるらしいと知ったのは、通いだして二か月ほどが経った頃のことだった。
 顔見知りになった茶屋の店員に住むところを探している、と何気なく話したところ、住み込みで働ける店が結構あるという話だった。
 引き手茶屋という、大門から続く大通りの店に行けば紹介してくれるという。
 それを聞いた秋二は早速、噓の履歴書を持って行ってみた。
 そこの店主は、秋二と軽くやり取りをした後、店に紹介したいから写真を撮らせてくれと言ってきた。
 社会経験のまだ浅かった秋二は、若干不審に思いながらもそれに応じた。
 その後、その店主から電話がかかってきて、白銀楼という店で面接があると言われた。
 書類審査はパスしたということらしい。
 童顔で、まだ体も小さかった秋二は、面接で落とされるだろうなと思いながらも店に行った。
 白銀楼は、中央の大通り・仲ノ町通りの一本東の紅霞(こうか)通りにある五階建ての大きな店で、男の花魁しかいないところらしかった。
 そこのトップを張っている菊野という花魁の道中も遠目で見たことがある。
 店に行くと、五階のオフィスに通され、そこでは遣(や)り手の小竹という男が待っていた。
 銀縁眼鏡をかけた優男だったが、その目は鋭く、居心地の悪さを感じたのを覚えている。
 そこで、ここで働きたいという話を聞いたが本当か、と問われて頷くと、色々と質問をされた。
 年齢を誤魔化して十七歳と書いたところを突っ込まれるかと思いきやそんなこともなく、遣(や)り手がより確認したがったのは、日本語が堪能であるかどうかだった。
 秋二は、幼少期は米国で過ごしたが、十歳で日本に移り住み、日本語の基本的な読み書きと日常会話はすでに習得していることを伝えた。
 すると、遣(や)り手は少し考えてから頷き、契約書を差し出してきた。
 そこには細かい文字とおびただしい漢字で契約内容が書き連ねてあったが、すべて読むのが面倒、かつ不可能だった秋二はざっと目を通してサインをした。
 それが過ちだったことに気づいたのは、働き始めてからだった。
 白銀楼は、ただの飲食店ではなかった。表向きは遊郭風の料亭だが、裏では売買春が行われている違法な店だったのだ。
 おそらく、契約書には小さくそう書いてあったのだろう。
 そして、秋二が花魁……白銀楼では傾城(けいせい)と呼ばれていたが……になることも。
 だが、そんなことは口頭では一言も説明がなかったし、秋二が契約したのはあくまで飲食店の従業員としてだ。
 話が違うと遣り手に何度も抗議に行った。
 だが、契約書を盾に取られ、もし契約破棄ということであれば莫大な違約金がかかると脅された。
 そんな理不尽なこともない。
 秋二は騙されたことに憤慨し、幾度となく脱走を試みた。
 こんな、人を騙して体を売らせるような店に用はない。
 契約など知ったことか、と逃げ出そうとしたが、店の監視が思いのほかきつくて無理だった。
 逃げようとするたびに連れ戻され、折檻という名の虐待を受けた。
 それでも、秋二は懲りずに脱走計画を立て続けたが、ある時、当時世話係だった傾城の菊野、つまり信に、もうこれ以上は庇いきれない、と最後通牒を突き付けられた。
 いわく、足抜け、つまり脱走はこの店では重罪であり、通常は河岸と呼ばれる最下層の店に払い下げ処分となる。
 それを、自分が庇って免れさせてきたが、遣り手にもう次はない、と宣言された。
 こうなった以上はもう自分でも庇いきれないから、もうやめてくれ、と懇願された。
 そして、河岸にある店でどんな非人道的なことが行われているかを長々と説明され、それを聞いてさすがの秋二もビビったのだった。
 信によれば、河岸の特に『地下』と呼ばれる完全非合法の店では、命に危険があるようなプレイが黙認され、落ちたら最後、二度と日の目を見られないという。
 その詳細を聞かされて、さすがの秋二も勝算のない脱走はしばらくやめることにしたのだった。
 それにその頃、白銀楼に奇妙な居心地の良さを感じていたのもある。
 それまで、母国アメリカでは有色人種だと差別され、日本に来れば外人と遠巻きにされ、母にはゲイだということを認めてもらえず、父に捨てられた秋二には、ここが自分の居場所だといえる場所がなかった。
 だが、白銀楼では受け入れてもらえた。
 敦也や夏樹といったちゃんとした友達もできたし、信にも、信の友人の章介にも可愛がってもらえた。
 皮肉にも、そこで秋二は初めて居場所を見つけたのである。
 だから、脱走計画は一時延期にした。
 それから、秋二は見習いとしてそこそこ真面目に働き始めた。
 店に入った者がまず初めになるのは、店の雑用や掃除をする禿である。
 一年ほどそうして下働きをして店に慣れた後は新造出しという儀式を経て新造となり、傾城の代役として酒の席で客の相手をするようになる。
 そして、この新造の期間が終わると水揚げを経て傾城となり、客と寝るようになる。
 この傾城になるまでの期間、秋二は脱走騒動ほどではないが、廊下を走ったり座敷で客にため口を使ったりと、種々の問題行動を起こしていたが、それらは信のとりなしにより許されていた。
 当時トップだった信の発言権は大きかったのである。
 だが、遣り手の判断で普通の禿よりも傾城になるのは遅かった。
 いわく、こんなのを客の前に出したら店のブランドに傷がつく、とのことである。
 秋二はそれを好都合だと思っていたが、世話役だった信は違う考えのようだった。
 いつまでも傾城になれないと見習い期間の生活費等の店への借金がかさむ上、遣り手からの心証が悪くなるというのだ。
 当時、契約のこまごました部分まではよく知らなかった秋二はその忠告を聞き流していたが、後から確認したところ、これは由々しき事態だった。
 なぜなら、玉東内の店はほぼすべてが玉東商工会という組織に入っており、横のつながりが強い。そして、たいていの店は五~十店と出向契約を結んでおり、店同士で傾城のやり取りができるようになっていた。
 出向契約を結ぶのは大体がその店よりも格下の店であり、例えば白銀楼のような大見世では、中見世や小見世、それに最下層の河岸見世の何軒かと契約している。
 そして、傾城が使い物にならないと判断した時点で、契約先の店に転籍出向させる。これは俗に棲み替え、あるいは払い下げと言われていた。
 問題は、この出向先にドラッグ・暴力が蔓延する最下層の河岸も含まれることである。
 そこに落ちれば先はないといわれるそこに、遣り手は簡単に傾城を落とすことができた。もちろんその際に裏では金銭のやり取りがあり、多くの場合大見世の傾城だった者には高値がつけられる。こういう仕組みだった。
 だから、遣り手の差配ひとつで傾城は河岸や地下に落とされる。これを重々わかっていた信が危機感を感じるのは道理だった。
 それで、信は秋二の河岸行きを阻止するために策を講じた。
 それは、秋二に太客をつけるという手法だった。
 この太客が、今回信と再会するきっかけを作ってくれた笠原玲という白銀楼の共同オーナーだった。
 笠原は男に興味がなかったが、秋二の性格を気に入り、オーナーの権利を使て専属にしてくれた。
 専属というのは自分の担当傾城に他の客の相手をさせないことで、店のオーナーのみがこの権利を持つ。
 これを使ってくれた笠原のおかげで、秋二の貞操は守られたのだった。
 笠原からは幾度となく養子にならないか、と言われたが、その頃信への恋心を自覚していた秋二は落籍の話を断り続けていた。
 落籍というのは、傾城あるいは客が所定の落籍料を払い、契約満了前に店を辞めることだ。騙されて働かされていた秋二には願ってもない申し出だったが、信と離れたくなかったから承諾しなかった。
 店のトップを張っていた信はこの頃超多忙であり、店を辞めたらまず会えなくなるだろうと思ったからだ。
 当の本人からは話を受けるようにと何度も説得されたが、何を言われても頷かなかった。
 そして、そうこうしているうちに笠原が仕事の都合でしばらく日本を離れることになり、秋二は専属という立場を失った。
 このとき、秋二は覚悟した。男娼になり、男に体を売る生活が始まることを。
 だが、そうはならなかった。機転を利かせた信が自分の客である畠山浩二を言いくるめて秋二を専属にさせ、手出しさせなかったからである。
 この畠山浩二という客は笠原と同じく店の共同オーナーの一人で、傾城を専属にする権利を持っていた。それで、秋二の貞操は再び守られたわけだ。
 彼は当然、信を専属にする権利もあったはずだが、そうしていなかったのはできなかったからだろう。
 当時、信は店の支配人である遣り手に目をつけられていて、様々な権利を取り上げられていたからだ。そして、馬車馬のように働かされていた。
 そんな信を見るのは辛かった。
 何かしてやれないかと思いながらも何もできない自分にも、理不尽な遣り手にも腹が立っていた。
 そんな風に葛藤しながら過ごしていた玉東での日々は、ある日終わりを迎えることとなる。畠山が、信と秋二を同時に落籍したのだ。
 秋二に一ミリの好意もなかった相手がそんなことをしたのは、信の口添えがあったからに他ならない。
 事実、畠山は信に惚れ切っており、信のいうことなら何でもきいた。
 信の方もそんな畠山に好意を持っていたようだ。
 やくざ者のサディストだったから絶対に嫌っているだろうと思っていたのに、真実はその逆だった。落籍後に思い切って告白した際にはっきりそう言われ、拒絶されたのだ。信は、畠山との生活に秋二がいると邪魔だとさえ言った。
 これには秋二もかなりのショックを受け、傷心のまま二人が暮らす家を出た。
 そして、遠く離れた北海道の引き取り先の家に養子に入ったのだった。