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 再会した日、信の救出には相当な覚悟が必要そうだ、と思いながら帰ったが、天は秋二の味方をした。
 秋二と絡ませると信の反応がいいらしいことを知ったオーナーから、特別調教師の枠でショーに出演しないかと打診があったのだ。
 報酬は特になく、信を抱けるということだけだったが、秋二は一も二もなくオーケーした。
 これほどのチャンスを逃す手はないからだ。

 その時点で秋二の素性は徹底的に調べられているはずだったが、誰一人として彼がかつて籬(まがき)の向こう側の住人だったこと、そして信と関わりがあったことに気づく者はいなかった。
 店の者はみな、秋二が造り上げた虚像、米国出身の大手IT企業役員で投資家という身分に騙された。
 知人の笠原が漏れがないよう準備してくれたおかげだろう。
 彼と懇意にしている「専門家」は一流の者ばかりだ。
 おかげで秋二は鶯庵に潜入することができた。

 正直、信がそこにいると聞いたときは少し絶望していた。
 河岸がどういうところかは以前から耳にしていたから、心か体かその両方に、とりかえしのつかない傷を負っているだろうと思ったからだ。
 しかし彼は無事だった。
 ぎりぎりのところで、まだかろうじて正気で、致命傷も負わずに。
 これは、喜ぶべきことだ。
 確実に薬物依存症にはなっているだろうが、それは後で治療すればいい。
 向こうには専門家が沢山いるし、自然も多い。
 静養にはうってつけだろう。

 回復には十年単位でかかるかもしれないが、自分は待てる。
 信と離れていた期間に、彼でなければダメだと思い知ったのだ。
 ヤクザの畠山に囲われている間は手が出せなかった。だが、今ならば手が届く。
 例え今は一方通行の思いでも、いつか必ず振り向かせてみせる。
 大事に大事に愛し続ければ、いつか愛されるだろう。
 その日まで待てると思ったから、秋二は行動を開始した。
 命懸けで信を救い出すことを決断した。

 ◇

 秋二はその翌週からクラブ『鶯庵』に通うようになった。
 かなりの出費になったが、気にしていられない。それまでに準備していた軍資金を使い、頻回に通った。
 信が表に出てくるのは月に一、二回で、ショーの相手もそのときだけだったが、クラブへの熱意をアピールするために週三日のペースで登楼(とうろう)した。

 そんなことを二ヶ月も続けているうち、いつの間にかプラチナ会員に昇格し、『表』でできることほとんどすべてができる権利を手にした。
 長すぎる休暇をとっていることで、会社ではクビ寸前だったが、病気療養中と噓をついてなんとか持ちこたえていた。
 その頃にはクラブ側からもかなり信用されるようになり、『裏』でのプレイにも時折呼ばれるようになった。
 そして、秋二は信がどんな生活をしているかを知ったのだった。

 店の地下三階には四メートル四方の窓のない部屋が十部屋ほどある。
 すべて外から施錠するタイプの部屋で扉は厚く、中で何が起きているか、廊下からはわからない。
 ベッドとタンス、シャワーくらいしかないその小部屋には、人間を責め苛むありとあらゆる道具が揃っていて、天井からは拘束具がぶら下がり、それは白いベッドにもある。
 首輪や足枷、轡といった日常生活ではおよそお目にかかれないものも、何に使うか想像したくない道具も沢山あった。
 そのおぞましい監禁部屋で朝から晩まで訪れる客の相手をしているのだ。
 むしろ今までよく発狂しなかったと思えるような環境だった。
 信は九ヶ月ほど前からここにいるらしいが、自分だったらとうに正気を失っていただろう。
 彼が正気を保てたのはその強靭な精神と信仰心のゆえだ。三度目に部屋を訪れたときにちらりとマットレスの下から見えた聖書がそれを物語っていた。

 信は言葉を濁したが、鶯庵に落としたのはやはり畠山らしかった。詳しくは語らなかったが何か行き違いがあったらしい。
 しかし、「行き違い」程度でこんな場所に落とすなど信じられない。
 意味がわからないのと同時に腹が立った。
 自分ならば、一度でも愛した人にそのようなことはしない。
 拒絶されても、傷つけられても、傷つけない。だってそれが愛ではないか。
 おそらく畠山は信を愛していなかったのだろう。そんな男に引き取られて、信も気の毒なことだ。

 秋二は心を千々に引き裂かれるような痛みに耐えながら店に通い続け、脱出計画を練った。
 通ううちに見慣れた店の構造を図面におこし、買収できそうな従業員をリストアップし、逃走経路を探る。
 その間、秋二の指示に従い薬を断った信は徐々に自分を取り戻し、秋二に危ないことはやめるよう忠告するまでになったが、計画をやめる気はなかった。

 秋二の調査によれば、一番チャンスがあるのは週一回の帰宅から店に戻ってくるときだ。
 畠山は、まだ完全に信を手放したわけではなく、週に一回迎えにくる。
 家に帰ったからといって休めているわけではないと思うが、その一時帰宅の前後が唯一彼が外界に出られるときであり、チャンスだった。
 そこで店を停電させてボヤ騒ぎを起こし、混乱に乗じて脱出する。
 それがベストに思えた。

 鶯庵のバックには犯罪組織がついており、失敗すれば間違いなく死ぬ。
 脱出に成功したとしても畠山に追われて死ぬかもしれない。
 しかし、やるしかない。命懸けでやるしかなかった。
 ここにいたら間違いなく信は死ぬ。
 精神が先か、体が先かはわからないが、生きてここを出ることは叶わないだろう。
 だから、秋二は覚悟を決めた。
 もとより信に救ってもらった命だ。ここで人生終わっても怖くない。

 そもそも白銀楼に落ちた時点で秋二の人生は終わっていたのだ。
 自分に未来はないと思っていたし、実際そうだった。
 それを救ってくれたのは、未来をくれたのは信だ。
 理由がどうあれ、信がしてくれたことに変わりはない。
 だから、命を懸けて信をここから逃がす。
 運が良ければ秋二のヒーロー的行いに感動した信が振り向いてくれる可能性すらある。
 もしそうなったら、二人で未来を掴めたら、家族になりたい。
 そして、明るく楽しい家庭を築き、一生一緒にいたい。
 その未来のために自分は今すべきことをする。それだけだ。
 大きな賭けだが、リターンも大きい。今が勝負どきだった。
 そんなことを考えながら、秋二は着々と準備を進め、そして計画を決行した。
 その日は、紅葉が周囲の山々を彩る秋の日だった。

 ◇

 その週の土曜日も信は畠山邸に一時帰宅し、日曜日の夕方に戻ってきた。
 畠山の家から戻ってきた信が車から降りて再び鶯庵の地下部屋に押し込まれる前、畠山の部下が立ち去ったあとの一瞬の隙をついて秋二は店の協力者にブレーカーを落とさせ、火災報知器を作動させた。
 耳をつんざくような警告音に店内が騒然とする。
 秋二はその隙をついて信を店の男たちから引き離し、出口に向かった。

 外に出る直前に玄関に立ちふさがった用心棒に行く手を阻まれる。
 秋二は背広の内ポケットから拳銃を取り出し、銃口を男に向け、発砲した。
 銃声と共に客の悲鳴が上がる。男は肩を負傷していた。隣にいた男がそれを見て怯む。
 秋二はその隙に店から出た。
 撃つことにためらいはなかった。なぜなら、この店はバックに暴力団がついている店であり、用心棒の男たちも当然その筋の者たちである。
 銃を突きつけて脅している間にこちらが殺されるだろう。信は大事な商品なのだから。
 これに備えて射撃の訓練もしてきた。だがいかんせん、多勢に無勢だし、経験もない。
 勝機があるとすれば、相手の不意を突いたその一瞬しかなかった。

 秋二は信と一緒に店を出て長屋通りを走り抜け、中央の仲ノ町通りに出て、ひたすら走った。これに備えて信には理由をつけてスニーカーを履いてきてもらっている。
 信は息を切らしながらも秋二についてきた。
 やがて大門が迫ってくる。
 振り返ると追手が群衆の向こうに見えた。
 秋二は大門まで十メートルに迫ったところで懐に手を突っ込み、再び拳銃を取り出して空に向かって撃った。
 発砲音にそばにいた人々が一斉に振り向く。
 秋二は叫んだ。

「どけ! どかないと撃つ!」

 その途端に悲鳴が上がり、群衆が二つに割れて道ができる。
 秋二は、信を見て、いくよ、と声をかけ、再び走り出した。
 拳銃を持つのとは別の手で信の手をしっかり握って引っ張ってやる。
 信の合意は得ていたが、もしここでやっぱりやめる、とか言い出されたら終わりだ。
 モタモタ揉めているうちに捕まって殺されるだろう。
 そんなことにならないよう祈りながら先へ進んだ。

 そして行手に立ち塞がった大門の警備員六人の足をためらいなく撃ち抜き、門をくぐり抜ける。
 その先の木立には、逃走用の車が待機していた。事前に手配したものだ。
 その後部座席に信と飛び乗り、ドアを閉めるのとほぼ同時に出せ、と叫ぶ。
 運転手は車を急発進させ、空港に向かって走り出した。発砲音がしたが遠い。

 少し山道を走ったところで後ろを振り返って確認すると、追手の車が走り出したところだった。
 車は猛スピードで山間部を抜け、市街地に入った。運転はこういったチェイスに慣れているドライバーを高額で雇ったため、短時間で高速の入り口に到着する。
 再び後ろを見るが、追手は見えなかった。どうやら市街地で撒けたらしい。
 だがまだ油断はできない。先回りされる可能性もあるし、通報を受けた警察に捕まる可能性もある。
 犯罪組織と警察の両方に追われながら、車は首都高経由で成田空港へと向かった。

 無事空港へ到着すると、二人はプライベートジェット専用ロビーへと走り、セキュリティチェックと税関審査を終えて滑走路手前で待機しているチャーター機に乗り込んだ。
    そして離陸を待つ。
 分刻みのスケジュールで離陸時間まで計算して計画を実行に移したが、いつ離陸許可が出るか、こればかりはわからない。
 不安で窓の外を見ていると、隣に座った信が秋二の手を握った。

「大丈夫、きっとうまくいく」

 信の言葉には安心感があった。何も確信はないのに、何か確信しているような響き。そういえば昔もよくこうやって安心させてくれたな、と思い出した。
 その言葉通り、それから五分足らずで離陸許可が出る。
 まだ空港に異変はなく、警察も暴力団も来ている様子はない。
 秋二は今にも滑走路が封鎖されるのではという恐怖と戦いながら、ひたすら空港の建物を見ていた。

 まもなくエンジン音が高くなり、機体が滑走路を走り出す。
 もうここまでくれば大丈夫だ。
 秋二はほっとして前に目を戻した。
 機体はどんどん加速して、ライトアップされた夕暮れ時の滑走路を走ってゆく。
 そしてついに機体が浮いた。チャーター機はそのまま地上を離れ、空に向かって飛び立った。
 秋二はホッと息をついて窓から目を戻し、全身に入っていた力を抜いた。
 そして隣にいた愛しい人の体を抱きしめた。

「もう大丈夫」

 腕の中の体が震える。
 信は声も出さずに泣いていた。
 秋二はそこで肩を震わせる信の体が記憶より厚いことにふと気がつき、着物の帯の下をさりげ なく探った。
 すると、背中側にこんもりした盛り上がりが見つかる。
 何を持ってきたのだろう、と思いながら言った。

「何も持ってくるなって言ったのに……」
「うん、どうしてもこれだけ持ってきたくて……」
「大事なもの?」

 信はハンカチで涙を拭いて頷いた。
 中身を言おうとしない相手にどうしても気になって尋問調になってしまう。
 大好きな人が命がけで持ってきたものが気にならないわけがなかった。

「もらいもの?」

 信は躊躇った末に頷く。それでも中身は見せてくれない。
 こうなるともう気になって気になって仕方なかった。

「誰から?」
「………」
「おれの知ってる人?」

 そんな風には見えなかったが、まさか懇意にしていた客でもいたのだろうか、と思う。
 もしくは、まだ畠山を想っているとか……? あんなことをされたのに……?

「もしかしておれ、余計なことした?」

 信と包の中身を贈った人を引き離してしまったとしたら。
 秋二は不意に自分がやってきたことが全て間違っていたのでは、という不安に襲われた。
 よくよく考えてみれば信と再会してからきちんと意思疎通できる機会などなかった。
 会えるのはプレイのときだけ、他の人がそばにいる環境でだし、万一のことを考えて手紙の類も渡していない。
 もしかして、自分は相手の言動をいいように解釈して突っ走った勘違い男だったのではないか。
 そういう不安が顔に出ていたらしい。信は秋二の顔をじっと見ると、おもむろにその包みを取り出した。
 そして俯きがちに小声で言う。

「見なかったことにしていいから……」
「?」

 どういう意味だろうと思っていると、白い包みが解かれた。中から出てきたのは、見覚えのある紺の着物だった。

「これ……」
「そう……秋二からもらったものだよ」

 信の手元にあるのは、かつて秋二が贈った着物だった。
 信が気に入っていた濃紺のお召(めし)。まだ玉東にいた頃、秋二がプレゼントしたものだった。

「でも、忘れていいから」
「忘れていいってどういう意味?」
「迷惑だろうから、こんな気持ち……。君にはきちんと相手もいるだろうし」
「いやちょっと待って。どういうこと? おれ信さんに振られたよな?」
「そうなんだけど……」
「そうなんだけど?」

 それきり押し黙ってしまった信を追及する。

「これずっと取ってたの?」
「……うん」
「何で?」
「……言わなくてもわかるだろ」
「でも、畠山のことは?」
「好きだったよ。愛していた。だけど、とても淋しい人でね。私では不足だった」

 悲しげにそう言う信に嫉妬の炎が燃え上がる。

「あんなことした奴のことを何でそんなふうに言うの? おれにはわからない」
「過去に負った傷が深すぎたんだよ。そのせいで人を信じることができなかった。……私のことも。癒してあげたいと思ったけれど、無理だったよ。私が傲慢だった……」
「傷って……傷ついたのは信さんの方だろ? 訳わかんかねえ」
「そうだろうね」
「……もうアイツの話はいいよ。それで、着物を取ってたわけは? 迷惑な気持ちってなに?」
「……好きだった。秋二のことが」

 その言葉に、秋二は感動した。
 どれだけこの言葉を夢見ていたことか。
 あの頃、どれだけこの言葉を言われたかったか。

「じゃあなんであの時……」

 落籍後、信は明確に秋二の気持ちを拒絶した。それはなぜだったのか。

「だって、まさかあんなこと言われると思ってなかったから。もう浩二さんに落籍(ひい)てもらった後だったし、どうしようもなかった。気持ちを知っていたら、あんなことはしなかったよ」
「そうだったのか……」

 結局両片思いだったらしい。もっと早く気持ちを伝えていれば、と後悔が募る。そうすれば、信はこんなに傷つかずに済んだのに。

「でも、気にしなくていい。助けてくれたのは本当にありがたいことだし、一生かけて恩返しする。でも、今は相手もいるだろうから」
「いないよ。もぉー、信さん鈍すぎだよー。おれが好きでもない相手のために命かけると思う? 悪いけどそこまで善人じゃないよ」
「………」

 秋二は、目をぱちくりさせている信をぎゅっと抱きしめた。
 そして耳元で囁く。

「I’ve been in love with you. 現在完了形だよ」
「まさか……」
「返事は急がない。でも、考えておいて」

 すると相手は感極まったように嗚咽をひとつ漏らしてから、囁き返した。

「私も、ずっと……」

 実をいうと、こういう展開は期待していなかった。
 お仲間だとはわかっていたが、特別好かれていたとは思わなかったからだ。
 アメリカに着いて少し休ませてから正攻法で攻めようと思っていたのだ。
 それが一番男らしいすっきりしたやり方だと思った。
 まあ、この救出劇を恩に着せる気は満々だったのだが。
 しかし蓋を開けてみれば両想いだった。超ラッキーだ。

「信さん、一緒に幸せになろう」

 秋二の言葉に、信が再び泣き出した。
 秋二はその体を抱きしめ、目を瞑る。
 この手で信との未来を掴み取った瞬間だった。