3-1

 佐竹瑞貴は、章介が新造の時からついている若い客だ。
 年齢はひとつ上の二十一歳。
 敷居が高い白銀楼の中で、ここまで若い客は珍しい。
 彼は、旧財閥系の佐竹家の御曹司だった。
 叔父には店の賓客である佐竹司がおり、基本一見は馴染みになれない白銀楼で特別扱いをされているのはそのためだった。

 瑞貴は、二回目の登楼で新造の章介を指名した。
 これは通常ルール違反であり、許されない行為だ。
 なぜなら、指名できるのは一本立ちした傾城のみであり、見習いである禿や新造に手出しすることは禁じられているからだ。
 だが、遣り手の差配により、この指名は黙認された。
 上客である叔父の機嫌を損ねないためだろう。
 そのことに、当時章介は激怒した。
 その頃、ルール違反で見習いにセクハラをしまくる客が多く、辟易していたからだ。
 堂々と新造を指名するとは何事かと怒り、瑞貴を泣かせた。
 そのことで焦った遣り手は、章介に、個室を与えるから客を受け入れろと説得してきた。
 当時、新造は大部屋に雑魚寝であり、また、傾城になっても一定以上稼がないと個室は与えてもらえなかった。
 いい加減プライバシーゼロの生活に嫌気が差していた章介はその取り引きを呑み、瑞貴を受け入れた。
 それが瑞貴との出会いだった。

 早々に手を出されるだろうと覚悟したが、瑞貴は思いのほか上品な客だった。
 女のように華奢な体に、大きな丸い目。
 その目を輝かせて話すのは、美容のことと、ファッションのことと、ペットの犬のことばかりだった。
 先日行った美容院がどうだの、海外セレブのドレスがどうだの、そういうことしか話さず、手も出してこない。
 自慢話とセクハラばかりの他の客とは毛色の違う客だった。
 ただ酒を飲み、話をして帰っていく。
 しかも、話の内容に不快にならない。
 そんな客は他にいなかったから、章介は次第に瑞貴に心許していった。
 出会いから一年ほどで章介は一本立ちを迎えた。
 水揚げの儀式を経て、傾城になったのだ。
 それを境に瑞貴との関係も変わるかと、ありていに言えば、相手方からそういう要求があるかと思っていた。

 だが、瑞貴は態度を変えなかった。
 そういったことをほのめかすでもなく、以前と変わらずに接したのである。
 これには章介も面食らった。
 元々、この店はそういうことをする場であり、ただの飲食店ではない。
 確かに、最初に指名されたときに、新造の間は酒の相手しかしない、とはっきり言ったが、それは単なる牽制であり、ある程度通ったら身体を求められるものだと思っていたのだ。
 正直、初めての相手は瑞貴だろうとさえ思っていた。
 だが、瑞貴は律儀にその約束を守ったばかりか、水揚げがすんでもそのようなことを匂わせてこない。
 彼が何をしたいのかよくわからなかった。

 ただ酒を飲みに来るには、ここは高すぎる。
 本部屋に行かない、つまり、本番をしないにしても、座敷に上がるだけで一時間十万近くするのだ。
 それ以外にも、見習いや奏楽隊への心付けや、イベントの際の祝い金などで出費はかさむ。
 いくら大企業を経営する家系の御曹司といえども、ただの大学生が負担できる額ではない。
 実際に、瑞貴は多額の小遣いを貰っているわけでもなく、費用は自分で工面しているらしかった。
 そうまでして通う理由は何なのか。
 それを深く考えてはいけない気がして、これまでは避けてきた。
 だが、もう目を逸らせないところまできていた。
 水揚げから四ヶ月が経過し、それでも瑞貴は動かない。
 ならば、こちらが動くしかない。
 このままこの関係を続けていたら、良心の呵責でどうにかなりそうだ。
 人の好意を利用するような人間にだけはなるな、と厳しく言われてきたし、章介自身、そのような生き方はしたくなかったからだ。

 瑞貴は、章介に好意を持っている。それはほぼ間違いない。
 それを利用し、一年以上貢がせてきたのだ。
 外車が買える位の額は使っているだろう。
 そういう相手とどうしていくべきか、ここでしっかり考えねばならない。
 章介が望めば、この中途半端な関係は続くだろう。
 本心を言えば、その方が望ましい。
 章介の性的対象はあくまで女性であり、瑞貴に何らかの感情を抱いたことはなかったからだ。
 だが、このままいけばいずれ瑞貴を深く傷付けることになるような気がした。
 そういった感情はないが、瑞貴は良い友人だ。
 章介がここに来て信と一樹の次に得た友と言って差し支えなく、その相手を傷つけるようなことはしたくない。
 だから今日、瑞貴を抱くことに決めたのだった。

 楼閣の四階、通りの反対側にある自室の姿見の前で、章介は紺の角帯を締め、白の羽織を着て支度を終えた。
 そうして深呼吸をし、部屋を出る。
 左右に延びる居住区の廊下は閑散としていた。
 そこを、中央階段に向かって歩きながら、覚悟を決める。
 大丈夫、できるはずだ。
 章介は、この四ヶ月で何人もの男を抱いた。
 初めは生理的嫌悪感が耐えがたく、媚薬を入れないと勃たなかったが、次第に慣れて薬なしでも、相手によっては抱けるようになった。

 客はだいたいが年上の男で、気色悪いことを言い、気色悪く喘ぐ奴ばかりだった。
 それと比較すれば、瑞貴は相当マシなはずだ。
 年も変わらず、女のように小さく、顔も好みだ。
 性格的にも品がよく、少々お喋りだが気になるほどでもなく、基本的に控えめである。
 もし瑞貴が女だったら惚れていただろう。
 だから、大きな問題は起こらないはずだ。
 そんなことを考えながら、章介は居住区を出て中央階段を上がった。

 二十時過ぎ、最も客が多い時間帯で店は賑わっている。
 白地に花柄の着物姿の禿や新造が、お膳片手に忙しなく行き交っていた。
 開店は十七時なので、それから三時間ほど経っており、本来は張見世に出なければいけなかったが、遣り手との取り引きにより大目に見られていた。
 階段を登り切って座敷に向かおうとしたところで、ちょうど別の座敷から出てきたあやめとその客とすれ違う。
 あやめは、信に何かと難癖をつけてくる面倒な先輩傾城・紫蘭の友人で、はたから見てとても男には見えないような容姿の人物だった。
 章介は普段あまり関わりがないが、信とはそこそこ仲が良いようだ。
 よく紫蘭の尻ぬぐいをしているようである。
 小柄な体に艶やかな着物を着、花簪を挿したあやめは章介を認めて言った。

「あ、章介君。まーた張見世出てなかったでしょ」
「まあ……」
「サボり魔」
「すいません」

 すると、あやめは笑った。

「冗談冗談。じゃーねー」
「はい」

 そう言って通り過ぎてゆくあやめの折れそうに細い腰を隣を歩いていた和服の五十がらみの男が抱く。
 章介はそこから目を逸らし、会釈をして歩き出した。
 あやめと男がこの後どこに行くかはわかりきっている。
 本部屋と呼ばれる客取り部屋だ。きらびやかに装飾されたそこで何が行われるか、想像しただけで吐き気がした。

「瑞貴、来てるか?」

 そこで目当ての座敷に到着した章介は、襖に手をかけた。
 すると中から返事が聞こえる。
 襖を開けると、座敷中央の机には既に客の瑞貴がついていた。
 案内係の新造と何やら話していた瑞貴はこちらを見ると笑顔になった。

「章ちゃん」
「どうも。後は引き継ぐから戻っていい」

 そう言って瑞貴の相手をしていた新造を下がらせると、章介は隣に胡座をかいて座った。
 女みたいに小さい瑞貴は、白いシャツにカーディガンを着ていた。
 いかにも学生らしい格好だ。

「今日は学校あったのか?」
「うん。一コマだけ」
「悠々自適だな」
「そうでもないよー。帰ったら仕事してたし」
「そうか。会社はどうなんだ?」

 大学一年で企業した瑞貴は主に通販の会社をやっていた。
 業績は良いらしい。
 だから大学三年のこの時期になっても就職活動をしていなかった。

「んー、まあまあかな。今上場するか考え中なんだよね。メリットデメリットとか色々考えてて……」
「そうか。うまくいくといいな」
「ありがと。章ちゃんにそう言ってもらえるのが一番嬉しいよ。さてと、ご飯何にしよっかなー」

 そう言ってメニューを見だした瑞貴に、章介は言った。

「少し話があるんだがいいか?」
「え、なに?」

 一線を超えるなら今しかない。今しか、それを言う勇気がない。
 不安げな表情でこちらを見る瑞貴に、少しの沈黙ののちに言った。

「……おれは、一本立ちした。傾城になったんだ。だから、酒の相手以外もできる。もし……お前が望めば」

 瑞貴は元々大きな目を更に大きくした。
 そうしてしばらくじっと章介を見つめていたが、やがて言った。

「章ちゃんは? したいって思う?」
「……ああ」
「本当?」

 章介は頷いて瑞貴を抱き寄せ、キスをした。突然のことに瑞貴が息を呑むのがわかる。
 しばらくしたのち口を離すと、顔が真っ赤になっていた。
 そして腕の中でじたばたと暴れ出す。

「え、なに? なに?」
「部屋行くぞ」

 そうして問答無用で瑞貴を抱き上げ、本部屋へと連行する。
 重いから降ろせと騒いでいたが、羽根のように軽かった。
 本部屋の戸を開け、悪趣味な紅の布団に下ろすと、章介は行燈のスイッチを入れた。
 暗かった部屋がほの明るくなる。
 章介は起きあがろうとする瑞貴に覆いかぶさった。

「ちょ、待ってっ、章ちゃんっ」
「嫌か?」
「嫌じゃないけどっ、突然すぎて……」

 抵抗のそぶりは見せているが、本気で嫌がってはいない。
 そう判断して、瑞貴の髪を撫でる。
 すると一気に大人しくなった。
 再びキスをし、身体に触れていると、背中に手が回ってきて章介の着物を握りしめた。
 そののち服を脱がせ、後ろに指を入れると、固かった身体が更にこわばった。

「力、抜け」
「はっ、はっ……」

 眉をしかめて浅く息をする瑞貴に、一瞬疑問符が浮かぶ。
 経験人数は多くないが、今までこんな反応をした相手はいなかった。
 後ろもこんなにきつくなかった。
 しかし、深く考える前に瑞貴が言った。

「だ、いじょうぶ、だよっ……」

 その言葉で小柄なせいかと思い直し、二本目を入れる。
 相当にきつい。しばらく馴らさないと駄目そうだった。
 じりじりしながらほぐしていると、瑞貴が切れ切れに言った。

「章ちゃん、もういいよ」
「まだだ」

 店で受けた「講義」によれば、指三本が挿入の基準だった。
 講師たちからは、万に一つも客に怪我をさせてはならないと厳しく言われている。
 それを思い出してほぐし続けていると、次第に身体が弛緩してゆく。
 そして、時折身体が反応するようになった。

「ふっ……んっ」

 やっと三本入ったのでそろそろ良いかと指を抜く。
 そして着物と下着を脱ぎ、腰を進めた。

「あっ……」
「っ……」

 熱い内壁はそれでもきつくて、一気に締めあげられ、息をつく。
 目を瞑り、身体をつっぱらせている瑞貴を傷つけないようゆっくり腰を進めると、背中に爪を立てられた。
 息をつめると、瑞貴がハッとしたように手を離した。

「ご、ごめん」
「いい。つかまってろ」

 そう言うと、瑞貴がおずおずと背中に手を回す。
 ゆっくり腰を進めて最奥まで到達すると、章介は息をついた。
 強い力で締め上げられて今すぐにでも動き出したいが、辛そうにしているので少し待つことにする。
 額の汗を拭い、動かずに待っていると、目を開けた瑞貴が言った。

「キス、して」

 要求に応じると、背中に回った手の力が強くなった。

「もう、大丈夫、動いて」

 章介は動きを再開した。
 驚くほどの快感だった。夢中になって快楽を追っていると、やがて熱が一気に放出される。
 章介は深く息を吐き出し、瑞貴の中から出た。
 相手を見下ろすと、頬を上気させ、肩を上下させていた。

「はあ、はあ、はあ」

 下唇だけふっくらした口を半開きにしている。
 その唇も、頬も桜色に染まっていて、女のようだった。
 それを見て、奇妙な安堵感に包まれる。
 自分はまだ男として大丈夫、というようなことが一瞬頭をよぎった。
 章介は、そばにあった手拭いで自分と相手の身体を拭くと、着物を着付けた。
 そして、箪笥の上に置いてあった二膳の箸を手に取り、布団に膝をつく。

「今日、泊まってくだろ?」

 そう聞くと、瑞貴は笑顔になって頷いた。そして、布団を頭から被って唸る。

「もう、もう、もう」
「何だ」
「だって、恥ずかしくて……」
「……待ってくれてありがとな」

 そう言って、布団の上から手を置く。
 見習いの頃に指名され、かなり強く拒絶したのを思い出す。
 あの時は悪いことをしたと思う。
 瑞貴がこういう性格だとわかっていたら、あんなことはしなかった。
 そして同時に、その時遣り手と交わした契約も思い出す。
 遣り手は、瑞貴を受け入れる限りにおいて、一本立ち後は昼三に据え置きし、個室も与えると言った。
 更には、張見世にもたまに出る程度でいい、と言われた。
 章介はその後の自分の処遇と瑞貴とを天秤にかけ、遣り手の提案を呑んだのだった。
 だから、瑞貴を登楼たのは損得勘定の結果でしかない……そのはずだった。
 だが、予想に反し、瑞貴は良い友人となった。
 だから、傷つけたくなかった。
 章介は、準備していた名前入りの箸を差し出した。

「これやる」

 瑞貴は布団から頭を出し、章介の差し出したケース入りの箸をまじまじと見た。

「これって……」
「馴染みの印だ。来るときに使うといい」

 白銀楼では、傾城が馴染みになった客に名入りの箸を贈るというしきたりがあった。
 以後、客は店で飲食の際それを使うことができるようになる。

「馴染み……」
「ああ。儀式はしてないけどいいだろ」

 本来馴染みになるには、三々九度の儀式がいる。
 しかし、今更だと思った。
 瑞貴は布団を身体に巻きつけ、身を起こしてケースから箸を出した。
 そして、呟くように言った。

「可愛い……」
「気に入ったか?」
「うん。嬉しい、すごく」

 贈ったのはグラデーションがかった桃色の本体に桜模様が入った箸だった。
 花は金と白で、葉の部分が緑色。
 持ち手の裏側には楷書体で名前が印字されている。
 細かく絵柄まで指定して発注した一点ものだ。
 章介はそれと対になる青の箸をみせた。
 そちらには自分の名前が入っている。
 対となる、いわゆる夫婦箸だった。

「おれはこれを使う」
「わー、お揃い。ありがと、本当にありがとう。めちゃくちゃ嬉しい」

 そう言った瑞貴の目は潤んでいた。
 それに怯んで何も言えなくなる。
 瑞貴は箸を握りしめると、章介の胸に顔をつけた。
 顔を見られたくないのだろう。おそらく、泣いている。
 この時に章介は確信した。瑞貴は本気なのだと。
 その想いに報いようと抱いたが、正直この先どうすればよいのかわからない。
 傾城としてきちんと仕事をすれば一件落着だと思ったのに、今、こうして終わってみると、どんどんどつぼにはまっていくような気がしてくる。
 だが、具体的な解決策は思い浮かばなかった。

「泣くな」
「泣いてっ……ひっく、ないっ」

 肩を震わせ、嗚咽する瑞貴を抱きしめる。
 相手の気持ちがこれほどに強いものだとは、正直思っていなかった。
 だから、どうすればいいかわからない。
 章介は、とりあえず言った。

「たまには外で食事でもしよう。前に誘ってくれてただろ」

 その言葉に瑞貴が泣くのをやめて顔を上げる。

「本気?」
「ああ」

 これまでは玉東区外への同伴を断り続けていた。
 これは瑞貴に限ったことではなく、また檻の中に戻らねばならないのに、外の世界など見たくもなかったからだ。
 空腹時に少し食べれば、更に空腹感が増すのと同じだ。
 しかし、瑞貴の願いならば叶えるべきだろう。

「そう、だね……そうだね! 章ちゃんの行きたいとこ行こうよ」
「考えておく」
「うん」

 瑞貴は笑顔になって頷いた。
 見たことのないような、晴れ晴れした笑顔だった。
 それを見て少しホッとする。

「座敷戻るか。腹減ったな」
「うん。先戻ってて。シャワー浴びてから行く」
「必要ないだろ」
「身だしなみが必要なの」

 章介は、瑞貴に背中を押されて部屋から出た。

「お前、面白いな。おれを部屋から追い出す奴なんて初めてだ」
「ちょっと時間かかるから、先注文して食べてて。僕はいつものお弁当で」
「わかった。風呂ないけど、大丈夫か?」

 客用の個別風呂は完全予約制だった。
 本部屋にはシャワー設備しかない。

「シャワーだけで大丈夫だよ」
「わかった。あまり長風呂するなよ。夜はまだ結構冷えるからな」
「うん。あと……せっかく誘ってくれたけど、泊まりは無理だと思う。ごめんね。朝帰りなんて許してもらえないから。ここにも実は内緒で来てるんだ」
「そうだったのか」
「うん。気持ちだけもらっておくね。ありがとう」

 瑞貴はまっすぐだ。驚くほどに素直で、裏表がない。
 おそらくは、生来的な気性と生育環境が合わさってこういう性格になったのだろう。
 嘘と駆け引きばかりの白銀楼で、こういったタイプは非常に珍しかった。

「じゃあ後でな」
「うん。先食べててね」

 育ちの良さがにじみ出ているな、と思いながら座敷に向かって歩き出す。
 似たタイプがいた気がするが誰だったかな、と思っていると、その答えが現れた。

「章介、お疲れ。瑞貴くん来てる?」
「まあ」

 その答えは友人の信だった。
 こちらも育ちが良くて品がある。
 似たもの同士気が合うのか、信は瑞貴の座敷によく顔を出していた。
 そして、スキンケアやカフェの話題でいつも盛り上がっている。
 章介は、そんな二人をそばで眺めているのが嫌いではなかった。
 薄化粧に赤い友禅を着た信は、嬉しそうに言う。

「じゃあお座敷行こうかな」
「いや……今はいない」

 その言葉に信は一瞬考えてから、そうなんだ、と言った。

「馴染みにしたんだ。おれも傾城になったから」
「そっか。おめでとう。瑞貴くん、喜んでただろ?」
「ああ。なぜわかる?」
「見てればわかるよ。章介のこと、大好きなんだよ。本当に、純粋に」
「そうか……」
「そういう人に出会えるのってすごい幸運だよな。羨ましい」
「かもな。座敷、『桂』で一時間後位には瑞貴も来ると思うが」
「いいよ、邪魔したくないし今日は遠慮しておく。じゃあまたね」
「ああ、また」

 完璧な美貌に笑顔を浮かべて爽やかに去ってゆく信に、何か胸のあたりがムズムズする。
 今まで感じたことのない感覚だった。
 だが、それが特別な何かであるわけはない。
 章介の恋愛対象はあくまで女性なのだから、何かを感じるわけがないのだ。
 多分、勘違いだろう。
 章介はそう結論づけ、座敷に向かって再び歩き出す。

 瑞貴とのことはゆっくり考えていけばいい。
 いざとなったら責任を取れば問題ないだろう。
 どうせ、こんな体ではこの先ろくな恋愛もできないだろうし、する気もない。
 そして、瑞貴に対して明確な感情はないものの、情は確かにあるし、抱けた。
 ならば、瑞貴の気持ちに応えても良いのではないだろうか。
 今はまだその勇気がないが、もう少し付き合いを深めて、それでも相手の気持ちが変わらなかったら交際を申し込もう、と章介は決心した。
 そして間夫にし、もう金を取るのをやめる。
 遣り手には激怒されそうだが、それでもよかった。
 もうこれ以上瑞貴から搾取したくないし、傷つけたくない。
 人間のクズばかりが集まるこの店で、自分までクズになりたくなかった。
 章介は、そんなふうに瑞貴と歩む人生に思いを馳せながらその夜を過ごしたのだった。

 章介の世界を揺るがすような大事件が起こったのは、そんなふうにして瑞貴との関係に一区切りつけてから三ヶ月ほどが経った頃のことだった。