信の回復はゆっくりだった。そもそも過労状態だったために治りが遅かったのだ。
彼は一週間の入院と、その後一週間の就労禁止を病院側から言い渡されたために、合計二週間身体を休めることができることになった。
信の受け持っていた大量の客の相手は、別の傾城が務めることになった。顧客サービス第一主義の遣り手には、客を待たせておくという発想がなかったからだ。
そのため、回復を待つと言った一部の客以外の全員に一時的に別の傾城をあてがった。
ここで問題が発生した。それは、信の馴染み客の半数が元は一樹の馴染みであり、当然代役として彼を指名したがった、ということだった。
章介は、一樹が引き受けそうであることに勘づいて止めたが、相手は聞かなかった。
元々自分の担当していた客たちを一手に引き受け、かつて、人数制限をする前と変わらぬ忙しさに戻ってしまったのである。
内部事情を知らぬ店の傾城たちは彼のこの行動を、以前信がした仕打ちに対する報復であると解釈し、ふたりの争いを面白がって話のネタにしていた。
彼らは、普段一緒にいることの多い信と一樹の仲が実は険悪だと信じて疑わず、傾城同士の友情を築くことの難しさについて、また、ふたりの抜け目のなさ、腹黒さについていろいろと憶測を巡らせていた。
だが、章介は気に留めなかったし、実態を良く知る環も特に気にしていないようだった。
そんな中で、勘違いをしたままの店中の傾城たちの勘違いを更に強める事件が起きた。
ようやく退院し、帰ってきた信が、一樹のしたことを知るや否や部屋に乗り込んできたのである。
そして偶然居合わせた章介は、その一部始終を間近で目撃することになったのだった。
「一樹、約束覚えてる? 休むって言ったよね?」
信は部屋に入ってきて戸を閉めるなり、開口一番そう言った。
怒鳴っているわけではないが、その冷たい炎が燃え上がった瞳を見て、章介は相手が激怒していることを悟った。
「ちょっと、まだ動いちゃダメって言われただろ? さ、こっちに座って」
自分を座椅子に導こうとする一樹の手をふり払って、信は氷点下の眼差しで相手を射るように見た。
「約束は?」
「覚えてるよ。けど、しょーがないじゃん、元はおれの客だったんだしさ。指名されたら断れねーだろ」
「………遣り手に何か言われたの?」
「いや別に」
「じゃあ何で?」
「いや、つなぎ位しといた方いいかなって」
「気遣ってくれてありがとう。でも大丈夫だから。あと一週間は休めるみたいだし、そのうちに良くなるよ。だから、お客は放っておいていい。心配かけてごめんね。一樹は気を遣ってくれなくて大丈夫だから。遣り手にはあとで話しておくよ」
口調は穏やかだったが、信は激怒していた。
それは一樹にではなく、一樹を働かせている遣り手に対してだ。
今晩あたり怒鳴り込みにいきそうだった。
そこで章介は言った。
「信、とりあえずおれが交渉に行くよ。病み上がりなんだから無理するな」
それに一樹が頷く。
「そうだよ。ほら、とりあえず座って」
そのとき、信は脇腹を押さえ、顔をゆがめた。
近くにいた一樹がすかさず傾いだ身体を支え、座椅子に座らせる。
「だいじょうぶ?」
「ごめん、少し休むね」
「病み上がりなのにおれの部屋なんかまで出張ってくるから………。ちょっと休んだら部屋に強制送還だな」
「ああ」
章介は頷き、脂汗をかいて浅く息をする友人を安心させるように言った。
「ちゃんと話してくるから心配するな」
「自分のことだし、おれも行くよ」
そう言った一樹に、信は微妙な顔をする。
「私も行った方が……」
「いや、お前はここで待ってろ。あんまり動いたらまた傷口開いちゃうかもだろ?」
「でも……」
「ちゃんとはっきり言うよ、仕事しませんって」
「そう? なら、まあ……。私のことを引き合いに出されても怯んじゃダメだよ」
「わかった」
章介は頷き、立ち上がった。
そして、気力だけで来たらしい信を置いて一樹の居室を出て、五階の遣(や)り手のオフィスまで行った。
ノックすると誰何する声が聞こえ、名乗ると入室を許可された。
中のデスクにいた遣り手の小竹は、パソコンから目も上げずに用件を訪ねてきた。
ふたりは立ったまま、信の指示通りに一樹がここ一週間の間に新たに受け入れた分の客たちを、他の傾城に回して欲しい旨を話した。
すると遣り手は顔を上げ、初めてふたりの顔を見た。
そして冷然とした口調で言った。
「なるほど。追加の休みは必要ないと?」
「追加の休み?」
「そうだ。疲れも溜まっているだろうから、少し長めに休ませようかと思っていたが……しかし、代理がいないのでは無理かな」
「代役……?」
そう呟いた一樹に、遣り手が頷く。
「お前なら任せられると思ったんだがな。まあいい。そういうことなら、休みは一週間だな」
「もし引き受けたら、休みはどれくらいになりますか?」
「一樹」
遣り手の口車に乗せられそうになっている友人に首を振るが、相手は章介を無視した。
「追加で一週間」
「なら、やります」
「一樹、約束しただろ?」
小声で言うと、遣り手が量るようにこちらを見た。
「なるほど。君は菊野の代理というわけだな?」
そのことばに内心ドキッとしたが、努めて顔に出さないようにし、相手の出方を見る。
「なるほどなるほど………一度話す必要があるな。まあいい。では、やってくれるか、椿」
「はい」
一樹は頷いた。すると遣り手は満足げに鼻を鳴らした。
「ならばこちらも譲歩しよう。相手をするのは太い客だけでいい。その他は他に回す。どうだ?」
「充分です」
「ではあとでリストを届けに行かせる」
勝手に話を進める一樹に動揺し、章介は相手を小突いて小声で言った。
「充分です、じゃない。信との約束はどうした?断るはずだっただろ?」
「ニ週間だけだからだいじょうぶ」
「しかし……」
「じゃあ、約束守ってくださいね。おれも守りますから」
「もちろんだ、わかってくれてよかったよ。何かあったらまた来なさい」
「ちょっと、一樹っ!」
会釈をして部屋を出ようとする友人を止めようとするも、無駄だった。
一樹は章介を無視し、そのままオフィスを辞してしまった。
章介がどうしようかと立ち尽くしていると、遣り手がパソコンでの作業を再開しながら、用が済んだなら出ていきなさい、と言った。
章介が仕方なく部屋を出ようとした瞬間、遣り手が笑い混じりにこう言った。
「残念だったな、思惑が外れて」
章介が息を呑んだ瞬間、扉が音を立てて閉まった。
◇
それからニ週間後、信は仕事に復帰したが、一樹の客の数は減らなかった。
どころか増えてゆき、白銀楼の、椿・菊野の二枚看板時代がここに幕を開けた。
この頃からの約半年間……ふたりが交互にお職をとるようになったこの時期は、ふたりにとっても章介にとっても辛いことの連続だった。
ふたりの間では口論が絶えず、昔のように和やかに過ごせなくなったのだ。
しかし前回の不和と唯一違うのは、今回に限っては、互いが互いを思いやるがゆえに衝突している点だった。
ふたりとも、相手に仕事をさせたくなかったのだ。そして休みをとれ、というのが互いの口癖になった。
章介は調停役に逆戻りし、本来よりおしゃべりになることを要求され、日々疲労感を感じながら過ごしていた。
その上、一樹の方の体調は日に日に悪くなっていた。
痩せて、目ばかり目立つようになり、寝付けないと夜よく部屋に来るようになった。
いつも疲れたような顔をして、ぼんやりしていることが多くなり、以前の快活さは鳴りを潜めていた。
そんな相手を心配し、信と章介は仕事を控えるよう再三忠告したが、一樹はふたりの言うことに耳を貸さなかった。
彼は、自分が放した客が信に流れるのを恐れていたのである。
友人が客に刺されて以来、一樹は過剰に信の身体を心配するようになっていた。
だから遣り手に、フった客は信に回すと言われれば拒否できなかった。
信はそんな相手から客を取ることに腐心し、長らくふたりの間で客の取り合いが続いた。
彼らはほとんど交互にお職を取り、周りからは白銀楼に咲いた二輪の薔薇とか、ライバルとか言われていたが、実態はそんな華やかなものとは程遠かった。
ふたりはただ、死ぬような思いで友を守ろうとしているにすぎなかった。
その血の滲むような努力と献身を間近で見ていた章介は、その的外れな評価を忸怩たる思いで聞いていた。
結局、ふたりとも遣り手の計略にまんまと引っかかって踊らされていたのだ。
信が行動を起こしたのは、そんなある日のことだった。
この日も、案の定一樹と信の口論が勃発していた。
せっかく三人とも休みなのに最近は喧嘩ばかりだ。
自分の部屋で言い争い始めた友人二人を、章介はうんざりしながら見ていた。
「一樹、何で中西さんまで取るの」
「別におれの勝手じゃん」
「勝手じゃない。私のお客なのに……。それにまた痩せた」
「信こそ、いっつも寝てるじゃん。泊まり客入れすぎなんだよ」
「そういう自分はどうなの? 悪いけど、棺桶に片足突っ込んでるような顔してるよ。ちょっと休んでって須藤先生からも言われたじゃない」
「医者に言われなくても自分でちゃんとわかってるよ。大丈夫だって」
「何でそこまでして働くの? 過労死するよ」
「信にだけは言われたくないね」
「うるさい。騒ぐならよそでやれ」
部屋の主、章介がそう言ってもふたりは止まらなかった。
「お前、また新しいの登楼(あげ)ただろ? どんだけお職取りたいんだよ」
「一樹こそ、誰でも登楼るって評判だよ。仮にも白銀の呼び出しなんだから、もう少しえり好みしたら? 安く見られるよ」
「サドと寝てるお前に言われたくない」
一樹のことばに信が眉根を寄せる。
「どうでもいいじゃん」
「そーゆー趣味あんの? 引くわー」
「章介、何とか言ってやってよ。一樹は休むべきだよね?」
「章、まさか信の肩持ったりしないよな?」
顔を覗き込んでくるふたりに、ついに章介の堪忍袋の緒がブチ切れた。
彼は、ふたりの首根っこをひっつかんで扉の所まで引きずってゆき、廊下に放り投げた。
そして、呆気に取られて自分を見上げてくるふたりに冷たい視線を送ると、無言でドアをピシャリと閉めて鍵をかけた。
「あ、ちょっと章、開けろよ」
「章介、うるさくしちゃってごめん。もうしないから入れて」
その後しばらく戸を叩く音や、懇願調の声が聞こえてきたが、無視する。
すると、やがて表が静かになった。
これでやっと落ち着いて将棋ができる、とパソコンの前に戻ると、座り込んでマウスに手を置いた。このときが、三人が一同に会することのできる最後の機会だったなどとは夢にも思わずに。
一樹の足抜けが発覚したのは、翌々日の昼のことだった。