3-4

 最初に一樹の部屋つきの禿が異変に気付いてから話が広まるまではすぐだった。
 章介は真っ先に疑われ、遣り手のオフィスで尋問されたが、知らないものは答えようがなかった。 
 次に呼ばれていたらしい信とオフィスの入り口ですれ違ったとき、相手の顔を見て、章介は、信が関わっている、と悟った。
 信は一種達観したような、また何かをやり切ったような顔をしていた。
 そして、すれ違いざまに少し申し訳なさそうに章介を見た。
 会話はなかったが、それで信が何らかの形で騒動に関わっているのだとわかった。

 そして信はそのまま十日、帰らなかった。
 何が行われたかは明白だった。折檻だ。
 地下の部屋に監禁され、折檻という名の虐待を受ける。
 章介はそこに入ったことがなかったが、聞くところによるとかなり過酷なようだった。
 通常は三日だが、足抜け、つまり逃げようとした傾城は一週間以上閉じ込められる。
 おそらく信は、一樹の足抜けにかなり関与していたのだろう。
 折檻は十日に渡って続いた。
 しかしそのことは伏せられ、表向き、信は昔負った傷が膿んで入院したことになっていた。

 帰ってきたとき、信はボロボロだった。
 顔以外のあらゆる部位を負傷し、丸二日はろくにものも食べられず、布団から起き上がることもできなかった。
 かなり強い薬を入れられたらしく、せん妄状態であらぬ場所を見ながら何かブツブツ呟いていた。
 思ったよりも消耗が激しく、心配ではあったが、章介は一度、帰って来た日に見舞いに行ったのちは行かなかった。
 心配以上に、勝手な行動をした友人に腹が立っていたからだ。
 いったいどういう手を使ったのかはわからないが、一樹の足抜けは成功した。
 成功率が十パーセントに満たないといわれる足抜けを、売れっ子傾城が成功させたことで、店全体が揺れた。
  傾城たちは、一樹にできるのなら自分もと浮き足だち、遣り手や店側の人間たちはそんな彼らに、足抜けしようとした者、その手引きをした者は必ず河岸見世に払い下げると宣言した。
 更には、傾城たちの定期的な所持品・身体検査と、当分の間の給料前借り禁止を言い渡した。
 遣り手の怒りようといったらすさまじく、三日間、店では一日一食、それもご飯と味噌汁と沢庵しか出なかった。

 遣り手に負けず劣らず怒っていた章介は、信が病み上がりの身体を引きずって部屋にやってきても門前払いを食らわせ、食堂などの共同スペースで会っても一切口をきかなかった。
 何度か接触を試みた相手も、しばらくすると章介が一向にガードを緩める気がないのを悟り、ほとぼりが冷めるのを待つことに決めたらしく、近付いてこなくなった。
 信は折檻部屋から帰ってきてから一週間後に仕事に復帰したが、一樹が抜けた分の穴埋めのために以前よりも更に忙しくなっていた。
 そんなに働いて大丈夫か、と思わなかったわけではない。
 だがそれよりも、裏切られたという思いの方が強く、怒りがなかなか収まらなかったため、章介は三か月間、相手を徹底的に無視した。
 信は食堂や風呂で会うたび、こちらに請うような視線を向けてきたが、章介はそしらぬふりをしてそれを流した。
 新しく入ってきて、いろいろと騒ぎを起こしていると噂の問題児、アンダーソン秋二や他の部屋付き禿たちと和気あいあいと会話する相手を横目に、内心で毒を吐きながら過ごしていた。

 だって、あんまりではないか。
 一樹を足抜けさせるなどというリスクの大きいことを、こちらにひと言の相談もなくやるなど。
 折檻も酷かったようだが、下手したら河岸に払い下げられていた可能性すらあるのだ。
 ドラッグと暴力が蔓延するような店に飛ばされたら、どうするつもりだったのか。
 あそこに落ちたら最後、五体満足では出てこれないといわれていたし、章介も実際そうだと思っていた。
 そんな危険を冒してまで、一樹を足抜けさせたのはなぜなのか。
 全く理解ができなかった。
 だから、章介はしばらくの間信と口をきかなかった。
 縁を切ろうとまでは思っていなかったが、腹が立って和解する気になれなかったのだ。

 そういうふうに一気に他人同然になったふたりの和解のきっかけとなったのは、皮肉にも仕事上の席だった。
 最も古い馴染み客である佐竹瑞貴が余計な世話を焼いて信を座敷へと呼んだのである。
 信とも懇意にしている瑞貴は、騒動以来幾度となく章介に信の話を聞いてやるよう忠言してきた。
 きっとやむにやまれぬ事情があったのだろうから、釈明くらいはさせてやれというのである。
 だが、章介はそれを突っぱね続けた。
 どんな言い訳も聞きたくなかったからだ。
 それでしびれを切らした瑞貴が強硬手段に出たわけだった。
 信の方でも多忙を理由に断ればいいものを、スケジュールをわざわざ空けてやってきたので、結局席を共にするはめになった。
 その夜、瑞貴の座敷にお辞儀をして入ってきた信に、章介は眉をしかめた。

「しーちゃん、久しぶりー」
「久しぶり。呼んでくれてありがとね」
「こちらこそ、来てくれてありがとう。ここ座ってねー」

 瑞貴はわざわざ章介の隣に信を座らせた。
 自分に話を通さず勝手に信を呼んだ瑞貴を睨んだが、受け流された。
 人払いをした座敷内には三人のほかに誰もいない。
 退路は完全に断たれていた。
 瑞貴はにこにこしながら信に聞く。

「お腹空いてる?」
「ううん、大丈夫」
「そっか。あ、じゃあ、これお土産」
「ありがとう。うわー、何だろう。……あ、紅茶だ」
「この間話してたやつだよ。新しく出たやつ。飲んでみたら結構美味しかったからあげる」
「ありがとう、嬉しい。あとで頂くね」
「うん。今度またお茶しに行こうね。行ってみたいとこがあって。自由ヶ丘にあるんだけど、帝国ホテルの元シェフが最近始めたお店でね、お茶もスイーツもランチも美味しいんだって」
「ええ、行きたいなあ」
「章ちゃんも、良かったら行こうよ」

 それまで苛々しながらやり取りを聞いていた章介はそっけなく言った。

「二人で行けばいいだろ」
「そんなこと言わずに行こうよ、ね?」
「嫌だ。今日だって、信と話したいんならおれを呼ぶ必要ないだろ。下がっていいか?」
「あー、ダメダメ。今日は仲直りの日なんだから。和解するまでは出られません」
「余計なことを………喧嘩なんてしていないって言ってるだろ」
「そんな風には見えないよ。しーちゃんの話題出すと怒るし……」
「怒ってない」
「ほら、怒ってる。だから今日は、仲直りしてほしくて。ごめんね、勝手に。でも、こういうのは長引くとよくないよ」
「おれたちのことに口を出すな。今日はもう帰れ」

 余計な世話を焼く瑞貴に腹が立って、つい強い口調になる。
 すると、信が言った。

「そんな言い方……」
「お前も、何で来た? 話すことなんかないって言ってるだろ。しつこいな」
「章介、お願いだから話だけでも……」
「お前は、自分が何をしたかわかってるのか?! 河岸に落ちるところだったんだぞ!」

 章介は立ち上がって怒鳴った。
 もう我慢ならなかった。

「………」
「あそこに落ちたらどうなるか、わかっていただろう! そんな危険なことを、なぜおれに一言の相談もなくやった!?」

 すると信も立ち上がり、章介を見据えて答えた。

「止められると思ったから」
「止めるだろう、そんなことは!」
「だからだよ。もし遣り手なんかに言われて計画を潰されたら困るから、言わなかった」
「……最初から、言う気はなかったということか」

 低い声で問うと、信は頷いた。
 そして、荒くはないが強い口調で言った。

「そうだよ。もしそうなったら、一樹は死んでいた」
「そんなこと……わからないだろ」
「わかるよ。口止めされてたから言わなかったけど、あの時、一樹はドラッグに手を出していた。処方薬じゃ眠れないって言って」
「まさか……」

 衝撃的な事実に言葉を失った。

「お客から貰って、依存症になりかけていた。いや、もうなっていたかな。病院の薬もどんどん強くなっていたし、もうどうにもならないところまできていた。だから逃がすしかなかった」
「それにしたって他の手もあっただろ。お前が直接関わらなくても……」
「そうかもね。でも、あれが一番早かったんだ。詳しくは言えないけど。だからやった。理解してもらえなくてもいいけど、許してほしい。もう誰も失いたくなかったんだよ」
「もしかしてお前は、一樹が……」

 暗に好きだったのかと問うと、信は首を振った。

「そういうんじゃないよ。でも、家族みたいに思っていたから」

 家族、という言葉に信の身の上を思い出す。
 彼は、母親を自死で亡くしていた。
 そしてその責が自分にある、というようなことを言っていた。
 話を聞いた限りでは、原因は信の父親からの虐待としか思えなかったが、信はそうは思っていないようだった。
 その心の傷が、今回これほど極端な行動に走らせたのだろうか。

「家族か……」
「うん。今、許してくれなくてもいい。でもいつか、許せる時が来たら、許してほしい。何も言わずにやってしまってごめん。信用してないわけじゃなかった。だけど、どうしても一樹を逃したかった」

 信は謝罪をして頭を下げた。
 章介は沈黙ののちに言った。

「一樹がそういう状態だったなら仕方ないと思う」

 途端に信がパッと顔を上げる。
 薄化粧をした顔が、恐ろしいほど美しかった。

「………信も大変な時期だったのに、無視して悪かった」

 すると信は泣き笑いのような表情で、こちらこそごめんね、と言った。

「よかったよかった。一件落着〜」

 不意に佐竹の明るい声がして、章介は顔を上げた。

「さ、じゃあ仲直りの握手ー」

 瑞貴はそう言って章介と信を握手させた。
 それを以て二人はやっと和解したのだった。

 ◇

 それから一ヶ月後、章介は瑞貴、信と共に区外に出ていた。
 タクシーで向かった先はこの間話題に上っていたカフェレストランだ。
 住宅街にひっそり佇む店は小さく、五、六テーブルしかない。
 瑞貴と信は内装に感動していたが、章介にはよくわからなかった。
 料理もまずくはないが、特段美味しいとも思わない。
 そもそも、洋食は好きではないし、カフェに興味もない。
 だが、若衆がついているとはいえ、二人だけで外出させるのが心配でついてきたのだった。

「ん〜、美味しい。ニョッキもちもち〜」
「美味しいねえ。ソースがすごくパンと合うよ」
「あ、付けて食べるの? 僕もそうしよーっと。んー、美味しい。ここ、当たりだったね」
「うん。瑞貴くんの嗅覚やっぱすごいなあ。レーダーとかついてる?」
「ふふ、レーダーって。章ちゃん、付き合わせちゃってごめんね」
「別に構わない。やることもないしな」

 そう答えると、瑞貴が茶を飲んで言った。

「ありがとね。でもまた三人で来れてよかったあ。一時はどうなることかと思ったよ」
「その節はお世話になりました」

 信が言うと、瑞貴が首を振る。

「ううん、僕はきっかけ作っただけだし。よかったよ、章ちゃんめちゃくちゃ怖かったし」
「そんなにか」
「うん。しーちゃんの話出すたび怒ってたでしょ。どうなることかと思ったよ。けど、章ちゃんはしーちゃんのこと、心配してたんだよね」
「自殺行為みたいなことしてたからな」

 すると、向かいに座った信は、バツが悪そうな顔をした。

「ごめん」
「あれで最後だからな」
「うん、もうしない」

 友人の完璧な面にはまった黒曜石のような目を見ていると、なぜか目が離せなくなる。
 最近こういうことが多かった。
 先に目を逸らしたのは、信だった。
 ナプキンで口を拭き、瑞貴の方を見て言う。

「今日は誘ってくれてありがとね。すごく楽しかったよ。また良いとこ見つけたら誘ってね」
「うん。ぜひぜひ〜」
「じゃあ、私は先帰るね」

 信は立ち上がって伝票を取った。

「あ、伝票いいのに」
「いつもご馳走になってるからたまには奢らせて」
「そう? じゃあお言葉に甘えようかなあ。ありがとう、ご馳走様」
「悪いな」
「じゃあ、後は二人でごゆっくり〜」

 笑顔で手を振って立ち去ってゆく信の背中を見る。
 背中までの髪を帽子に押し込め、シャツにカーディガンを羽織ったごく普通の格好をしている。
 店では仕事があろうがなかろうが着物なので、こういう姿は新鮮だった。
 すらりと長い四肢がより際立っていて、つい腰に目がいく。
 華奢というほどではないが、男にしては細身だった。
 片手に収まりそうだ。
 そこまで考えて、章介はハッとした。
 自分は何を友人の腰なんぞを鑑賞しているのだ。
 気持ちが悪い。
 これでは客のようではないか。

「章ちゃん、この後どうする? 付き合ってもらったから、章ちゃんの好きなとこでいいよ」
「え? ああ……じゃあ、高尾山行っていいか?」
「りょーかい」

 とりあえず体を動かして頭をスッキリさせることにした。
 そうすれば、この奇妙な感情も消えるだろう。
 章介はそう結論づけ、このことに関してはもう考えないことにした。

 ◇

 章介はその三ヶ月後、瑞貴に正式に交際を申し入れ、間夫にした。
 瑞貴を利用し続ける罪悪感に耐えられなくなったというのももちろんある。
 だが、肌を合わせるうち情が湧いたのもまた事実だった。
 少し力を込めれば折れてしまいそうに小さな体を抱くうち、守りたくなった。
 大きな丸い目で見上げられるたび、庇護欲をくすぐられた。
 そうして、章介はかつて祖母が言っていた言葉を思い出す。

『愛がなくても夫婦にはなれる。愛は育むものだ』

 彼女はかつてそう言った。
 自身が見も知らない相手と見合い結婚をし、その相手と添い遂げた祖母の言葉には説得力があった。
 それを思い出したから、瑞貴とのことも決断できた。
 自分が抱いているのは明確な恋愛感情ではない。
 だが、そもそもそれが何なのかも知らなかったし、情は確かにあった。
 もしかすると、この情こそがそれなのかもしれない。
 瑞貴がこれまでどれだけのことをしてくれたかを考えれば、そのような感情が芽生えても不思議ではない。

 これまでずっと女性しか愛せないと思ってきた。
 だがきっと、瑞貴は特別なのだ。
 だから、瑞貴と歩んでゆくと決めた。
 きっとこれで正しかったのだろう。
 告白した日、瑞貴は泣いていた。
 夢みたいだと何度も言って、ずっと泣いていた。
 それを見て、肩の荷が降りた気がした。
 ずっと棚上げにしていた問題が解決したような感じだった。
 章介は、晴れて罪悪感から解放され、瑞貴との交際を開始した。
 店で会うことは少なくなり、休日に玉東内の店や裏山で過ごすことが多くなった。
 その時に、信がいることもあった。

 瑞貴はさほど独占欲が強くなかったから、休みが重なる日は信も呼んで三人で過ごすことも多かった。
 信と気が合うというのもあっただろうが、それは、章介からするとありがたかった。
 なぜかといえば、信が多忙でなかなか一緒に過ごせる日がなかったからだ。
 信は、初めてできた本当の友といって差し支えなく、付き合いだした途端にその友人とまったく会えなくなるというのは厳しい。
 瑞貴はそれをわかってか、信が休みの日は必ず呼んだ。
 これを見て、章介は瑞貴を選んだことが間違いではなかったことを確信した。
 瑞貴とはこの先良い関係を築いてゆけるだろう。

 愛は、育むものだ。
 相手を知り、共に歩んでいく中で、それは結実する。
 そうしていつしか、かけがえのない存在になるのだろう。
 そうなるまで、大事に育てていこう。
 いつか、本当の愛を与えられるその日まで。
 いつか、本当の愛をもらえるその日まで。