十五年前――。
ごく普通の人生を送ってゆくものだと思っていた。親には恵まれず、経済的余裕もなかったが、不幸だと思ったことはない。
それが当たり前だったからだ。
物心ついたころから父は競馬場に入り浸って借金を繰り返し、水商売をしていた母はいつも朝帰りで酒臭かった。
両親ともに金の管理ができないろくでなしで、男女関係にもだらしなく、互いに不倫していた。
そんな劣悪な環境で育児放棄された鶴見章介が飢えや熱中症で死なずにすんだのは、近くに越してきた祖母が親代わりとなって面倒をみてくれたからだった。
夫と死別してから亡くなるまで独り身を通した母方の祖母、奈々は厳格だが筋の通ったまっとうな人間だった。
女流棋士として都会で暮らしていたが、娘、つまり章介の母の出産を機に帰郷し、子供に代わって彼の世話をした。
祖母が亡くなるまでの十四年間は、章介にとって最も恵まれた子供時代だった。
祖母の家での、規則正しく、まっとうな生活は、章介の人間としての基礎を作り、彼は親の悪影響を受けずにすんだ。
堕落がいかに人間を破滅させるか、きちんと働き、道徳を重んじることが人間としていかに大切かを、祖母は口と背中で教えてくれた。
そのような真摯な生き方こそ正しいと思っていたし、自分も当然そのように生きてゆくのだと思っていた。
しかしある日、祖母は逝き、運命は急転することとなる。
家に戻ってきた息子を、両親は歓迎しなかった。
そして、彼が高校二年になったある日、あろうことか借金のカタに売ったのである。
親との初めての旅行で訪れた東京で、観光もそこそこに連れていかれたヤクザの事務所で文字通り身ぐるみをはがされた。
混乱状態で動けない章介の全身を無感動な目でチェックしたあと、刺青の入った男が言った。
臓器かポルノか玉東か、と。
父親が一番高値がつくのを、と言うと、組織の男は、それは臓器だがいいかと聞いた が、そこで母親が反対し、結局玉東ということになった。
書面に半ば無理矢理サインさせられ、混乱している章介を残し、両親は金を受け取って消えた。ごめんね、のひと言を残して。
かくして、地獄は始まったのである。
◇
「クソッ!」
鶴見章介は誰もいないトイレの壁に拳を打ちつけた。
「何でっ、おれなんだよっ! おれが何したってんだよっ!」
そう叫んで、何度も何度も拳で壁を叩く。彼は今先初めて、傾城(けいせい)がいない間に客の相手を務める名代という業務についたばかりだった。そして早々に客から聞くに堪えないような下ネタを聞かされたのだった。
死ぬほど嫌だったし、自分を品定めするような客の目も気色悪いことこの上なかった。同性に一度たりとも惹かれたことのない章介にとって男が男を抱くなど考えられなかった。
吐き気を催して個室に飛び込み、仕事前に食べた早めの夕食を吐き戻す。
とてつもなく惨めで、やるせなかった。
あとさき考えずにまずい筋の人間たちに借金を重ねた挙句逃げ去った両親が憎くてしょうがなかった。
悪態をつきながらゲーゲー吐いていると、ひとが入ってくる気配がした。話し声がするところをみると、複数のようだ。
章介が舌打ちをして、開いていた個室の扉を閉めようと振り向いて鍵の部分に手をかけたとき、背後に迫っていた人物と目が合った。
容姿は、一言で言うと美少女だった。
庇護欲をくすぐるような整った目鼻立ちに、白い肌、そして頭ひとつ分小柄な体。
色素の薄い、柔らかそうな髪は肩まで伸ばし、禿の制服である、白地に淡い橙の模様が入った木綿の着物に濃い橙の帯を締めている。
これまでお目にかかったことがないような美人だった。
なぜ女がここに、と一瞬思ったが、声変わりし始めた声で、男だと分かる。
途端に、相手へのそういった意味での興味が失せてゆく。
「だいじょうぶかー? 見たことない顔だな。こんなコいたっけ、信」
するとその男の横からもうひとり、同じく禿の制服姿の少年が姿を現した。
こちらも美少女に見えるが、男だった。
この、信と呼ばれた人物を、章介は何度か見たことがあった。
よくトイレ掃除をさせられていたからだ。
「一週間くらい前に入った子じゃない? 夏目さんたちがお話ししてた……」
「マジ?知らなかった。……君、名前は? あ、そちらの用事が終わってからでいーけど……おれは湯田一樹。ココでは椿って呼ばれてる。で、こっちが天野信、源氏名は菊野。よろしくな?」
章介の都合などお構いなしにそう言って手を差し伸べてきた相手に、彼は一気にさっきまで胸中を支配していた怒りや憎しみが消えたのを感じた。
「章介……鶴見章介。よろしく。源氏名は、紅妃とか言われた……。今、手、きたねぇから、悪い」
そう言って握手を拒むと、相手は笑顔を崩さぬまま手をひっこめた。
「へえ、どういう字書くの?」
「文章の章に、介入の介だ」
「源氏名の方は?」
「紅に、妃……」
すると、一樹はおかしそうに笑った。
「似合わねー。何でその名前?」
「知らない。遣(や)り手が勝手に」
章介自身も、なぜそのような源氏名が付けられたのか謎だった。
とても、妃なんて呼ばれるような見てくれでは無いからだ。
ここ最近伸び始めた身長は百七十五センチを超え、体格も良くなった。
更には、同級生の何人かに怖がられていた程度には強面である。
この容姿だから、花魁になどなれるわけもなく、遣り手からは髪は伸ばさなくていい、と言われていた。
つまり、いずれ客を取る時には、男の格好でということだろう。
店には何人かそういう傾城がいた。
男物の和服で接客するのだ。
彼らは、男の花魁を売りにしている白銀楼では目立たない存在だった。肩身も狭そうだ。
多分自分もそうなるのだろう。
だとしたら、紅妃という名はありえない。
おそらく、見習いの間だけの暫定的な名前だろうと思う。
「ふうん。てか、腹大丈夫か? 何かに当たった? おれらも同じモン食ってるからなー。信、期限切れの卵か何か入れたろ?」
「そもそも皿洗いしかやってない。でも……悪いモノでも入ってたのかな? 肉に火は通ってたと思うし、変な味はしなかったけど……」
信は眉をひそめて考え込むそぶりをした。
「ま、とにかく出すだけ出せば良くなんだろ。まだ出そうか?」
「いや……もう空だ」
「オッケ。ホラ、手ェ貸せ」
そう言って腕を伸ばしてくる一樹に、章介は首をふって手が唾液とか吐瀉物で汚れていることを訴えたが、相手は構わず手を掴んでひっぱりあげた。
フラつく章介の腕を自分の肩に回し、一樹は歩き出した。
「ひとりで、歩ける……」
「なーに言ってんだよ。倒れられちゃこっちがメーワクだっつーの。なー信?」
ふたりの右側を歩いていた信は章介を案じるような表情で見て、曖昧に頷いた。
「顔色悪いし、ちょっと休んだ方がいい」
「食中毒とかだったらおれらもヤベーな。ゲロ袋用意しとかねーと」
「ここの衛生管理がそんなにずさんだとは思わなかった」
あくまで食材に不備があった前提で話を進めるふたりに、章介は迷った末に本当のことを話すことにした。騒ぎにでもなったら困ると思ったからだ。
「……食べ物とかは関係ない。その、少しいろいろ……」
「あー、先輩のイビリとか? 良かったな信、イビられ仲間ができて」
「いや、それも関係ない……」
どうしてもその先を言えずに言い淀む章介を見て、一樹はすぐにピンときたようだった。
「客か」
章介が黙って頷くと、相手はため息をついた。
「まー気にすんな。そのうち慣れる」
「………」
「ってゆーかお前一週間前に来たんだよな? でもう名代入ったの? 有望株か」
「……よくわからないが、人手が足りないと言われた……」
「へー。じゃ、将来のライバル候補ってことで」
「……ライバル?」
章介がそう聞いたとき、三人はちょうど中央階段の脇に到着した。そこは奥と左右を座敷や本部屋とその前の廊下で囲まれた、最上階の五階までの吹き抜けの手前……玄関側の中央部だった。
正面玄関から入って、太鼓橋のかかった池や、ピアノ、ソファなどがある休憩スペース、そして番台を過ぎたあたり、ちょうど建物の中央部分にあるため、中央階段と呼ばれている。
ちょうど午後八時を過ぎた頃で、見世が最も忙しい時間帯だったため、朱塗りの柱や手すりが彩るきらびやかな空間は活気づいていた。
「そ」
一樹は階段を上りつつ頷いた。
「ナンバーワンの座を巡るライバル」
「ナンバーワン?」
「お職とも言うんだけどさ、一番の売れっ子ってコト。傾城(けいせい)ってのは客取るようになったひとのコトだけど、傾城になったら毎月売上高に応じて番付が発表されんだよ。おれたちはほとんど同期みたいなモンだからなる時期も一緒で、そしたらライバルにもなるワケだよ。おわかり?」
「………一樹、くんは……」
「一樹でいーよ」
「………一樹は、トップになりたい、のか?」
章介は戸惑いながら聞いた。
この店は体を売るところだ。
章介を売り払った暴力団の男がはっきりそう言っていた。
売買春は建前上違法だが、抜け道はいくらでもある、東京にはそういう店が沢山ある、と奴らは言った。
そして、こんなに色男じゃなきゃタコ部屋だったのに可哀想にな、と言った。
奴らの言うことを全面的に信じたわけではなかったが、両親のかさみにかさんだ借金返済に足る額を、ただ話をするだけの店が出すとは思えなかった。
だからおそらくここはそういう店なのだ。それも男を相手にした。
そこで売れるということは、すなわちそれだけ多く「商売」するということだ。
そんなことを望む奴の気が知れなかった。
「まーね。やっぱ何か目標がないとさ、張りあいないじゃん?」
すると信がクスリ、と笑った。
「この子、面白いだろ?」
「……確かに、変わってるな」
章介が同意すると、一樹が一旦階段の踊り場で立ち止まり、不満げに言った。
「おれはどんな環境でもがんばるって決めてんの。お前ら、そんなやる気ないとお茶挽くことになるぞ」
「お茶を挽く……?」
意味が分からず聞き返した章介に、信が説明してくれる。
「お茶挽くってのは、客がつかなくて売れ残るってことだよ」
三人は再び歩き出し、二階に上がった。そして少し進んだ後突き当たりを左に曲がり、座敷を右手にそこをまっすぐ進んだ。
「そのほうがいいじゃないか。相手をせずに済む」
「だよね」
信が頷いた。
「許される範囲内で最大限挽きたい」
「ったく……だいじょうぶかよ、ふたりとも。おれ、お前らがここでやってけるか不安で仕方ねーわ。……お、着いたぞ」
一樹はそう言って足を止め、『医務室』と白く表示された擦りガラスの窓のある戸をノックした。
「せんせーい、急患でーす!」
そして扉を開け、章介を中に入れた。中は二十畳弱といったところで、白い家具ばかりの上壁も天井も床も同色で、どこか寒々しかった。
ベッドは向かって右側の壁につけるようにして三床あり、そのうちひとつ、一番奥のベッドの周りにだけカーテンが引かれていた。
左奥の机で何か書き物をしていた医師らしき人物は立ち上がって左手前のパーテーションで仕切られた診察スペースに三人を案内した。
その医師……初老の、メガネをかけた柔和な雰囲気の男性は、章介の顔を覗き込むようにして見た。
「はじめまして、だね。新入りだろう? 僕は柿崎だ。ここで常勤医をやっているよ。よろしくね」
「鶴見……あ、紅妃、です」
本名を言いかけて源氏名に変えた章介に、柿崎はやさしく頷いた。
「鶴見君だね。今日はどうしたのかな?」
「ちょっと……気持ち悪くなって、戻してしまって……」
「原因に何か心当たりはあるかな? 例えば拾い食い、とか?」
そして愉快そうに一樹を見て続けた。
「誰とは言わないけど、何度もそれでお腹壊してる子がいるもんでねえ」
「しょーがねーだろー。成長期だから腹減るんだよ」
一樹はしれっとそう答えた。信は横でクスクス笑っている。
章介は、自分の気持ちが落ち着いてゆくのを感じた。
「あの……食べ物は関係ないです……。初めて名代に入ったんで、多分それで……」
「なるほど。じゃ、水分とってすこし横になりなさい」
柿崎もふたりと同様すぐに察したようだった。彼は立ち上がると、部屋の隅の棚を開けてパックに入っている経口補水液を取り出した。
「天野君、湯田君、このあとは?」
「あー、おれはヒマ。信は名代、だよな?」
「うん」
名代……章介の心臓がドクリ、と脈打った。彼はこれからあの場に出向かなければならないのだ。あの、吐き気を催すような、おぞましい客の相手をしに……。
「じゃあ湯田君、ちょっと付き添いお願いできるかな?」
「はいよー。じゃーな信、ケツ触られないよーにな」
信は無言で一樹の腕を叩くと、章介に、お大事に、と言い残し、医務室を出ていった。
柿崎は章介を中央のベッドに案内し、飲み物を手渡した。
「さあ、飲んで。無理しなくていいから」
章介が言われた通り喉奥に液体を流し込んでいる間に柿崎は熱を測り、バインダーに挟んだ紙に何かを書きつけた。
「熱はないね。咳もなし、と。胸の音も喉も綺麗だし、身体はだいじょうぶそうだ。ずいぶんと早く名代にあげられて災難だったね。本当に、世の中にはいろいろなひとがいる……そう思わないかい?」
手近な椅子に腰かけ、目線の高さを同じにしてそう優しく語りかけてくる医師に、章介は手先を見たままかすかに頷いた。
「僕は長年ここで医師をやっているのだけれどね、未だにここに来るひとたちのことを理解できないんだよ。……でも、だからといってできることは、君たちを診ることくらいしかないのだけれどね。……嫌なことをされたかい?」
「されたというか……言われました」
「そう……何をされていなくてもね、ことばの暴力というのはひとを深く傷付けるものなんだ。具合が悪くなって当然だよ……僕は話を聞くくらいしかできないけれど、いつでもおいで。身体の具合が悪くなくても、ね」
章介が黙って頷くと、柿崎は腰を上げ、カーテンを通って机の方に戻っていった。そして、ちょうど入れ替わるようにして一樹がカーテンの中に入ってきて、ベッドわきの椅子に腰かけた。
「いいセンセイだろ? ここがオアシスって呼ばれてる所以だよ。あのひとは信用できる」
章介は頷いた。
「そういえばお前いつ来たの?正確には」
「九月十五日。一週間前だ」
「へー。じゃあホントーに新入りなんだな。おれと信が来たのは今年の五月だよ。ぐーぜん同じ日だったんだけど。……ところでもう部屋は決まったか?」
「……部屋?」
「ホント、何も知らねーんだなあ」
一樹は苦笑した。
「部屋ってのは、担当の傾城のことだよ。あ、傾城は、知ってるよな?」
章介が頷くと、一樹は陽気に続けた。
「おれたち見習いにはそれぞれ指導担当の傾城が付くんだ。ま、直属の上司みたいなモンだな。だからどこに入るかはスゲー重要なワケ。おれと信は環さんっていうひとの部屋付きなんだけど、スゲー親分肌っての、面倒見よくてさ。キビシーけど、いいセンパイなんだよ。で、近々新造の一本立ちが予定されててな……あ、一本立ちってのは傾城になることな。詳細は、ちょっと今は割愛するけど……とにかく、空きが出るんだよ。だから、よかったら頼んでやるよ、章介を入れて貰えるよーに。まだ部屋決まってないだろ?」
「たぶん……でも、そんなこと、できるのか?」
「まーキホン遣り手……あ、コレは店回してるひとね。遣り手というか絶対君主みたいな感じ。その遣り手と傾城が相談して決めるんだけど、希望を聞いてくれることもあるよ。……お前、信と気合いそうだし、ゲロってるところに鉢合わせたよしみで推薦してやるよ」
「……悪いな……恩に着る」
「ん。じゃー決まりな。はあぁ、おれも眠くなってきちゃった。となりのベッドで寝てるな。二時間たったら起こして」
一樹はそう言うと、椅子から立ち上がり、カーテンの向こう側へと消えた。
章介は視界に入る範囲に時計が無いことに気付き、ちょっと考えたが、結局気にしないことに決めた。
少しすると、となりから規則正しい寝息が聞こえてくる。章介はつられるようにして、瞼を閉じた。