2-2

「もうっ、何で起こしてくれなかったんだよー!?」

 翌日の昼、座敷の片付けで章介と再会した一樹は開口一番文句を言ってきた。

「……時計がなかった」
「ハァ?! あるっつーの!……もーおれあのあと散々だったんだよー! 片付けと掃除に遅れて環さんに大目玉食らってさ……一週間トイレ掃除! しかも一階北のユーレイ出るってトイレ! お前のせいだぞ!」
「……すまなかった」

 章介はほうきを動かす手を止めて謝った。

「一緒にやるから許してくれ」
「うっ……ま、まあいーけど……」

 一樹はなぜか少し怯んだように言った。

「あ、それから部屋付きの件は通りそうだってよ。何せ環さんは売れっ子だからなぁ。発言権がある」
 そのことばに、章介はなるほど、と納得した。一樹が売れたいと言っていたのにはこういう訳があったのだ。
「でも顔色だいぶ良くなったみたいでよかったよ。これからは環さんがいろいろ伝授してくれるから、客あしらいもバッチリに……」
「コラッ、椿! 与太話してないで手ェ動かせっ!」

 まさに噂をすれば影、だった。桃色地に蝶や花があしらわれた、控えめだが質の良い着物を身に纏った青年が、座敷の入口のところに腕組みをして仁王立ちをし、こちらをにらんでいた。
 彼は有間環……白銀楼の若手の傾城だった。

「ゲッ! じゃあ、あとでなっ!」

 そう言ってそそくさと窓の方に逃げてゆく一樹に、昨日の今日でサボるたぁいい度胸してンじゃねえか、と叫んでから、環は章介の方に目を向けた。そして近付いて来て、章介をまじまじと観察した。

「紅妃か? 先週入ってきたっていう」

 章介が頷くと、環は続けた。

「おれんトコ来たいんだって? 結構スパルタだけど、ヘーキか?」
「ハイ」
「そう。んじゃ決まりな。おれの部屋は四〇八だから今日から来て。あ、居住区の方な?」

 環の言う居住区とは、店の西側区域一体のことで、三階から上のこの区域が傾城、新造、禿の居住スペースとなっていたのでこう呼ばれていた。
 ここには十五弱の傾城の私室、そして禿、新造にそれぞれ大部屋が一室ずつあった。
 つまり、傾城の半分は客取り部屋で起居せねばならないということだ。
 部屋の割り当ては冷酷に月の番付によって決められ、店に「貢献」できなかったとされる傾城たちは冷遇されるシステムらしかった。
 部屋をもらえないのでは休日でも気が休まらないな、と暗く思いつつ、章介は目の前の男が着ている着物を眺めた。
 十七年間生きてきて一度も和服というものに触れたことも、身近でひとが着ているのを見たこともない彼はそれが何と呼ばれるものなのかもわからなかった。
 すると、章介の視線に気づいたらしい環が笑って言った。

「気になるか? こういうふうに全体で一枚の絵みたいになってるのを絵羽模様って言うんだ。見てみ、柄が途切れてないだろ?」

 そう裾の方を指し示して一回転してみせた相手に、章介は頷いた。
 確かに裾にあしらわれた、天に向かって飛翔してゆく蝶とその周りを彩る花々は全体で一つの柄のようになっていた。

「高っ価いんだぜぇ、コレ。だから買いたくなかったんだけどさぁ、涼さんに昼三(ちゅうさん)にもなって自前の留め袖の一枚もないとは何事か、とかお説教食らっちゃってさあ、奮発したワケ」
「昼三……?」

 聞いたような気はするが何を意味しているのか全くわからない単語に首を傾げると、相手は懇切丁寧に説明してくれた。

「昼三ってのは、傾城の位のこと。まあ、だいたいどのくらい売り上げたかに応じて決まるんだけど、昼三は上から二番目なの、ココでは。最高位が新造付き呼び出しっつって、今でいうと招月さんとか桜さんとかかな。で、昼三の下が付廻っつって、ここからは居住区に自分の部屋がもらえないゾーン。最後は部屋持。あんまり長いことここで低迷してると売っ払われるから、通称棲み替え待ち。ココは危険ゾーンだから気を付けろよ」
「はい……」
「まあ、見た感じだいじょうぶそうだけどなぁ。イケメンだし、いい体してるし。多少口下手でも通りそうっつーか、無口な方がウケそうな感じだな、お前は」

 環がそう言って不意に章介の胸を触ってきたので、彼は驚いて飛びのいた。

「あぁ、ゴメンゴメン。こんな商売してっと慎みがなくなっちゃってな。よし、じゃあいいか。何か質問は?」
「あの、何時頃行けば……」

 章介は相手がそれ以上深追いしてこなかったのを心底ありがたく思いつつ、ぼそぼそと聞いた。

「三時半頃で。店開くの五時だから、支度手伝ってもらう」
「わかりました」
「……昨日、ゲロったんだって?」

 章介は今更ながら自分のヤワさが恥ずかしくなってきて、うつむいた。また心拍数が速くなる。しかし環は一切章介を責めなかった。

「入って一週間のド新人を名代にあげるなんて信じらんねー。ちゃんと言っといてやるからな。触られたか?」

 章介は首を横に振った。
 セクハラじみたことばくらいであんなにショックを受けた自分が心底恥ずかしかった。
 他の人たちは、平気なのに……。

「だよなあ。お前、強面だもん。ゴツいし、ラッキーだったな、その顔で」

 そう言うと、環はニカッと笑った。
 女と見まごうばかりの美しい面が崩れ、ひとの良さが滲み出てくる。

「お前に手エ出すのはマジ勇気いるよ。たぶん、だいじょうぶ。今後も触られはしない。言われはすっかもしんねーけど。……おれなんかさあ、こんな顔だろ? もーお触りし放題よ。今思えばタダで触らせるなんてもったいねーことしてたけどな。……じゃ、椿の監視頼むな。サボったら即報告」

 そして環は振り向き、声を張り上げた。

「聞いてたか椿! サボんなよ!」
「わかってます。ちゃんとやりますって」
「よし。じゃーまた明日」

 環はきっかり五秒間一樹を睨んでから章介に手を振って座敷を出ていった。
 窓の方から戻ってきた一樹は心もちビクビクしながら廊下をチェックしてまた戻ってきた。

「ふう、行った行った。じゃ、信のようすでも見にいくか」

 そう言って出ていこうとした相手の肩に、章介は手を置いた。

「掃除、終わってないぞ」
「ヘ?」
「だから、掃除。終わらせろって言われたろ」

 そう言って一樹が放っていこうとしたほうきを手に取ると、ぐい、と押しつけた。

「えー、章介も信タイプかよお。まあ、似てるとは思ったけどさあ」
「じゃあおれは向こう側から掃いてくるから」

 情けない悲鳴を上げる相手に、章介はそう言うと、入り口から向かって左手側の奥の方からゴミを掃き始めた。章介は少し迷ったあと、仕方なさそうに反対側から掃き始めた。
 章介は、やはり掃除は心が洗われるな、と思いながらひたすら無心で手を動かし続けた。

 ◇

 翌日から、環付きの禿(かむろ)としての日々が始まった。章介を引き入れてくれた一樹、信との接点は必然的に増え、章だんだん彼らがどういった人物であるかがわかってきた。
 章介が見たところ、一樹の方は同世代の者たちのリーダー的存在だった。
 社交的で明るく、ひとを惹きつけるオーラを放っていて、自分とは真逆だと思った。
 彼と知り合いでない者はこの店にいないように思われた。
 立ち回りもうまく、通常妬まれて何かと嫌がらせをされることになるはずの引っ込み禿だったにもかかわらず、年上の傾城や新造たちに可愛がられていた。
 対する信の方は物静かで読書を好み、集団の中に埋没していた。
 人数が足りないが、誰がいないのか思い出せない、そんなときはたいてい信が席を外しているのだった。
 賢い割には世渡りが下手で、先輩たちにことあるごとにイビられていた。
 章介はどちらかというと信といる方が気楽だったのでそうしていたが、そうすると必ずといっていいほど一樹がテンションMAXでやってきて、ふたりをどこかへ連れてゆくのだった。

 その日も章介は、手が空くと、信とふたり、禿の居室である桜の間の隅の定位置に座り込んで、将棋を指していた。

「うーん……はい」
「あっ………」

 章介が己の失策に気付いて声を上げると、信が笑った。

「待った、する?」
「………いい」
「いいの? 後悔するよー」
「いいって言ってるだろ。しつこい」
「まあいいけど?」
「そっちこそ飛車死んでるじゃないか」
「そーゆー誰かさんはいつも飛車出し過ぎて泣きをみてるじゃない」
「いいんだよ。飛車は飛ぶ車って書くだろ。活用してナンボなんだよ」

 次の一手を指した瞬間、後ろから誰かに覆いかぶさられて、章介はビクッとした。

「一樹……驚かせるな」
「もー何だよー、またふたりしておれを仲間外れにしてさっ!」

 突撃してきたのはやはり一樹だった。
 彼は章介から身体を離すと、将棋盤の横に座り込んだ。

「んーどれどれ、歩を一個出そうかな?」

 そう言って勝手にコマを動かす一樹の手を信が掴む。

「ちょっと。まさか章介の味方?」
「うん。章の方がつえーし。おれ、長いモノには巻かれる主義だから」
「なるほど。厨房のおこぼれはもういらないと?」

 普段見世の厨房で手伝いをしている信がそう言った途端、一樹が両手をついて平伏した。

「そんな殺生な~~~」
「私が折檻の危険を冒して流す品は不要だということでいいんですかね?」
「申し訳ございません~~~~! ひらにーーー、ひらにぃ~~っ!」
「……夫婦漫才」

 章介がボソリ、と呟くと、ふたりが動きを止めてこちらを凝視した。
 そして一樹が言う。

「お前、染まったなー」
 ふたりが憐れむような目を向けてきたので、腹が立って、章介は立ち上がった。

「あっ、章介、勝負は?」

 信の問いにそっけなく、一樹とやれ、おれはちょっと出てくる、と返して歩き出す。
 すると、ふたりが慌てて追ってきた。

「章、ごめんって。冗談だよ。もう邪魔しないから」
「章介、将棋しようよ」
「なー、機嫌直せよ」
「私もごめん。ただ、章介がああいうことを言うの、珍しかったから」

 その信のことばに、章介は足を止めた。
 そして、前に回り込んで自分を見上げてくるふたりの友人の顔を順番に見て、呟くように言った。

「染まらざるを、えないだろ……染まらなきゃ、生きてけない」

 そのことばに、ふたりはハッとしたように息を呑んだ。

「ああいうのが普通だって思い込まなきゃ、やってけないだろ。……ふたりとも、新造になるのがどういうことか、わかってるのか? その後は傾城なんだぞ……。それなのにヘラヘラしてて、おかしいよ」

 明日は、ふたりが新造になる日だった。
 新造は見習いの最終段階であり、そののち水揚げされて傾城となる。
 傾城となるということは、すなわち客を取り始めるということだ。
 それが間近に迫っているのに、こんな軽口を叩いている場合か。

「それで不機嫌だったわけ? 心配してくれてんだ? でもだいじょうぶ。心配しなくてもすぐお前も新造になれっから。焦んなくても平気だって」
「冗談でもそういうことを言うな……」

 章介は歯を食いしばって、その隙間から声を絞り出した。

「ごめん。けど、どーこー言ってもしょーがねーじゃん? 嫌ですっつって取りやめてくれる世界じゃねーし」
「だけどっ………! 嫌、なんだよっ!」

 章介はうつむいたまま絞り出すように言った。

「ふたりがっ、そういうふうにっ………。絶対嫌だ!」
「章介………」

 沈黙の落ちた室内に、遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。他に誰もいない部屋で三人は向き合って黙り込んだ。
 しばらくしたあとで、口火を切ったのは信だった。

「章介、乗り越えよう、一緒に。きっといつか終わる」

 すると、一樹がいつものように冗談めかして言う。

「だいじょうぶだって。たいしたことねーよ。誰が最初にお職獲れるか競争しよーぜ」
「一樹はまたそうやって……」

 信が苦笑する。ふたりの落ち着きぶりに自分を襲っていたパニックの波が次第に引いてゆくのを感じた。

「まあ競争うんぬんは置いておくとして………全員でここから出ようね」
「ああ……」

 それでも、どんなに明るい見通しを語られても、章介はどうしても頷くことができなかった。
 章介には、ふたりが絶対に売れるであろうという予感があったからだ。
 特に一樹の方は、トップに食い込むようになることは間違いがなかった。
 左右対称に整った顔に、すらりとした肢体という恵まれた容姿に加え、話術が巧みで機転が利き、やる気もある。間違いなくお職の器だった。
 店側もそれがわかっているから彼の新造出しを早めたに違いなかった。
 一樹は、次世代の看板となるのだ。
 本人もそれを望んでいて、店側もそれを狙っているのだから本人たちにとっては問題ないのかもしれない。けれど、章介はどうしても嫌だった。

 友人が、好きでもない、性愛の対象でもない男に、金のために組み敷かれることを喜べる人間がどこにいる? 
 その人数が多いことを祝福できる人間がどこにいる?
 章介はどうしても我慢ならなかった。
 ふたりが水揚げされる日を想像するだけでも身の毛がよだつ。
 章介は低い声で言った。

「一樹、トップなんて目指すな。そんなの、何の価値もない。お茶挽いてるって嘲笑われてもいいじゃないか。嫌なんだよ。お前が売れるなんて、絶対嫌だ」

 しかし、一樹は困ったように言った。

「ごめん、うんとは言えない。おれやっぱ、目指すモンがないとダメなひとだからさ」
「目標が欲しいというのはわかるけど、他の何かにできないの? わかってると思うけど、どんなに売れても私たちに入ってくるのは……」
「わかってる」

 一樹は信のことばを遮って少し強い口調で言った。

「中間搾取の話だろ? 知ってるよ。お前が長々教えてくれたからな。性産業の裏側の話。けど、おれ、この仕事向いてると思うんだよ。ひとと接するの好きだし、おしゃべりも好きだし。おれは……ここに来たことが間違いじゃなかったって思いたいんだ。人生の汚点にしたくない」

 そう言い切った相手に、信はそう、と返し、口を閉じた。そして、沈痛な面持ちで足元を見た。
 ここまで言われては説得のしようもない。
 それに、仮に説得したとして、それが通用する世界なのか。
 結局、自分たちは駒でしかないのだ。
 章介はやるせない思いを抱えながら、ふたりの友人の着ている、もうこの先一生着ないであろう禿の制服の着物をずっと見つめていた。