ふたりが新造になると、章介との接点は急速に減った。環の部屋付きであることに変わりはないが、居室も、受ける授業も、スケジュールも別々になり、環の支度のときくらいしか顔を合わせなくなったからだ。
桃色の、新造の制服を纏ったふたりは日を追うごとに艶っぽく、美しくなったと言われ、やがてお職争いをすることになるのは間違いない、と囁かれるようになった。それでも中身の方はたいして変わらず、一樹は相変わらず明るいがお調子者で、信は本の虫だった。
その日が来れば何かが終わってしまうような気がして、二人を逃がせないかとそこまで考えたが結局実行には移せなかった。
客という後ろ盾さえない二人の足抜けが成功する確率はほぼゼロに等しかったからだ。
発覚すれば見せしめのために折檻の上、河岸送りにされる。
この目で見たわけではないが、噂によれば河岸にある店は、白銀楼とは比べ物にならない無法地帯であり、暴力やドラッグが蔓延していると聞く。
そんな危険は冒せなかった。
章介が自分の無力さを痛感している間に月日は流れ、やがてふたりは章介の読み通り最短で新造を卒業することになった。
新造出しから一年足らずで水揚げが決まったのである。
その頃新造になったばかりだった章介はショックを受けながらも、心のどこかでやはり、と思っていた。
白銀楼は若い世代の看板を必要としている。
それは誰から見ても明白で、ちょうどふたりが適任なのだった。
友人たちの運命を考えて眠れない日々が続き、食欲もなく、フラフラしていたある日……二人同時の水揚げ日を一週間後に控えた、三月末のことだった。
いつものように環の支度部屋へと出向いた章介は、中から友人ふたりの抑えた話し声がするのに気付いて扉の前で足を止めた。
どうやらまだ部屋の主は到着していないようだった。
じっと耳を澄ませていると、真剣な声音でふたりがやりとりするのが聞こえた。
「………同じ日とは奇遇だよなあ」
「完全にセットだよね」
「ははっ、確かに。これも何かの縁かもな。怖い?」
一樹の声だ。余裕たっぷりで笑いさえ含んでいるが、どこか張りつめているような気がした。
「怖くないわけないだろ? 最近吐き気がひどくて………」
「マジ? 意外。涼しい顔でサラッとこなしそうなのに」
「………怖くないの?」
信が聞くと、一樹は何でもないように答えた。
「別にー。黙ってろって言われてるけどおれもう経験済みだし」
「えっ、そうなの?」
「うん。大丈夫、たいしたことねーよ」
「そ、そうかな……? でも私、嫌なのに……。こんなこと、したくないのに何で……」
すると、一樹が慌てたように言った。
「ちょっと、だいじょうぶ? 泣くなよ、泣くなよ?」
「ひっく……」
一樹が焦るのも道理だと思った。普段冷静沈着、明鏡止水を体現したようなあの信が取り乱しているのだ。
「そっかー、信は来たくて来たんじゃねーもんなあ。ヤバい奴らに売られちゃったんだっけ?」
「うん……脅されて、契約書に、サインしちゃってっ……ぐすっ」
信は家出したところを犯罪組織に拉致され、店に売られたらしかった。
親に売られた章介とも、自らここへ来た一樹とも違い、完全に犯罪に巻き込まれた形だ。
親が警察に通報しているはずだが、まだここまで捜査の手は伸びていないようだった。
「マジで卑怯な奴らだよなぁ。俺もそういう経験あるよ。けど大丈夫、いつかお父さんが迎えにきてくれるよ。それまで頑張ろう、な? こっちから連絡する方法も考えてやるから」
店のルールで従業員は携帯電話持ち込み禁止のため、外との連絡手段がない。そして、住み込みの従業員、すなわち禿、新造、傾城においては玉東区外への外出も実質禁止されていた。
これは店の経営母体が暴力団であり、信のように無理矢理働かされている者が多いからだ。
かくいう章介も自ら望んで来たわけではない。
だから脱走防止のためキャストは半ば軟禁状態で、店の外に出るときはいつも用心棒兼監視役の若衆がついてくるわけだった。
そこで章介はわざと足音を立てて、たった今到着したふりをし、扉をノックした。
「失礼します。紅妃です」
すると扉がガラッと開いて一樹が出てきた。ほとんどいつも通りの表情だった。
「あ、環さんまだだぜ? おれら、先に入って待ってたんだ」
「そうか。信、顔色が優れないようだが、だいじょうぶか?」
部屋の隅の方で腹のあたりを押さえて座り込んでいた信は青白い顔をゆがめて首を振った。
「いや、だいじょうぶじゃない………うっ……ちょっとトイレ行ってくる」
「あっ、信! ひとりでだいじょぶか?」
「だいじょぶ!」
そう叫んで部屋を飛び出していった信を心配そうに見送ってから、一樹は肩をすくめた。
「体調、良くないのか?」
「ああ………そうみたい」
「………アレのせいか」
舌がもつれてどうしてもそれを指すことばが言えない。
一樹は曖昧に頷いた。
「たぶんな」
章介が感情を露わにしたあの日以来、ふたりは気を遣ってそういった話題に触れないよう気を回すようになっていた。その延長なのか、一樹ははっきりと明言しない。
章介はもどかしさを感じながら、聞いた。
「お前は?」
「ヘ?」
相手が虚を突かれたような表情になる。
「お前は、だいじょうぶなのか?」
「ああ、ヘーキヘーキ。信ほど繊細じゃねーし」
「………そうか」
そう言われれば、頷くしかなかった。本人が助けを求めてくれなければ、どうしようもない。
一樹は片膝を立てて座った体勢で章介のことをまじまじと見た。
「………何か付いてるか?」
「いや? お揃いになったなーと思って」
一樹がそう言って互いの制服を指した。
「な、三人で写真でも撮らないか?」
「この格好で?」
「そ、記念にさ。おれと信はあと一週間でこれ、着られなくなるから」
章介は最初乗り気ではなかったが、このことばを聞いて頷いた。
しばらく部屋で待っていると、廊下ではち合わせたらしい環と信、それに環の禿たちが一緒に入ってきた。
「わりぃわりぃ、遅くなって。ちょっと涼さんに捕まっちまってよ。よーし、椿はだいじょうぶそうだな。問題は菊野か。ちょっと、布団敷くの手伝って。コイツ今日はダメだわ。休ませる」
章介と一樹は立ち上がって、一方は環が押し入れから布団を出すのを手伝い、もう一方は今にも倒れそうな信を支えにいった。
「休み取れるよう話つけてきたから。菊野~、だいじょうぶか~?」
環は部屋の隅の空間に敷かれた布団にぐったり横になった信の枕元に座って、額に手を当てた。
「熱はないみたいだが、夜上がってくるかも………。声もちょっとおかしいし、風邪っぽいな」
「マジっすか? おい信、しっかり」
「菊野~、心配ないぞ~、すぐ終わるから。注射みたいなモンだ」
すると信は弱々しい声で言った。
「すみません、ご迷惑かけてしまって………。早く、支度始めてください……。今日は大切なお客さまが、いらっしゃるんですから」
「余計な心配すんな。おれのことはいいから。ほら、とりあえず水分とって」
環がそう言ってペットボトルを差し出すと、信は一樹に助けられてようやく身を起こし、それを口に含んだ。顔面蒼白で、手も震えている。
一樹はそのまま背中に手を回して信の体重を支えてやりながら、案じるような表情で友人を見ていた。
「無理………絶対無理…………!」
信は両腕で自分を抱きしめるようにしてうずくまり、絞り出すような声で言った。
環は一樹と顔を見合わせた。そして呟くように言った。
「無理でも、やんなきゃなんねーんだよ。傾城(おれ)たちは………」
遂に信が泣き出した。彼は環に縋りつくようにして叫んだ。
「何で私がっ………こんなことしなきゃ、ないんですかっ……? 何かの、罰、ですかっ………。神様、神様、なぜ……! なぜ私が…………!」
悲痛な言葉に、部屋の中の誰もが沈黙した。
望んでここに来た者は少ない。ある者は借金を背負い、ある者は騙され、ある者は犯罪に巻き込まれて玉東に落ちた。
章介だってそうだ。ギャンブル依存症の親の借金返済のために売られて店に来た。
だから信の気持ちはよくわかる。
章介もここへ来てから同じようなことをずっと思っていたからだ。
環は苦しげに眉根を寄せ、信を抱き寄せた。
「お前は悪くない。お前は悪くないよ」
信は嗚咽を漏らしながら、呟くように聖書を諳んじ始めた。
「『なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ、膝があってわたしを抱き、乳房があって乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに』」
その絶望した両目からぽろぽろと涙がこぼれてゆく。章介は見ていられなくて目を逸らした。
「『わたしなど、だれの目にも止まらぬうちに死んでしまえばよかったものを。あたかも存在しなかったかのように、母の胎から墓へと運ばれていればよかったのに。』」
静まり返った室内に、信の嗚咽まじりの声だけが響いていた。
「『不法だと叫んでも答えはなく、救いを求めても、裁いてもらえないのだ。神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。私の名誉を奪い、頭から冠を取り去られた。親族もわたしを見捨てた。
神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのにあなたはお答えにならない。御前に立っているのにあなたは御覧にならない。わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た。神よ、どうか、わたしの声を聞いてください』」
ここまで来ると信は項垂れ、口を閉じた。
聖書には詳しくないが、これほど信の現況を的確に表す一節もないなと思った。
信が黙っても、誰もことばを発する者はいない。
ただ絶対的な絶望と闇がその空間を支配していた。
◆
ふたりの水揚げは、予定通り行われた。そして、それをもって信は四代目菊野を、一樹は五代目椿を正式に襲名した。盛大なお披露目の後には身の回りの世話をする禿がすぐについて、衣装も何着も揃えられた。
名跡がない傾城達とは扱いが天と地の差である。
しかし、二人が幸運だとは思わなかった。華々しい冠を与えられても、やることは男相手の売春である。
むしろ、その冠のゆえに苦労するだろう、と確信めいて思っていた。
章介はふたりと顔を合わせる勇気がなく、その日から一週間ほど意図的に避けて過ごした。
一樹に捕まったのはちょうどその日から一週間が経過した、四月半ばのことだった。
仕事が無いらしい相手は普段使い用の地味な紺の着流し姿で、章介の自室、すなわち新造用の大部屋を訪ねてきた。
個室がもらえるのは、傾城だけだ。
そのとき、部屋には他に何人か新造がいたが、事情を察したらしい同室者たちが気を利かせて部屋から出ていってくれた。
そのため、章介は今最も会いたくない相手とふたり、居室に取り残されることになった。
「よっ、ひさしぶり」
「…………」
「何だよー、傾城(けいせい)サマが来たんだぞ? 茶菓子のひとつくらい出してくれねーの?」
勝手にテーブルの前の座布団にドカッと腰を下ろした相手とできるだけ距離をとりながら、章介はぼそっと、切らしてる、と答えた。
「じゃ、買ってきて」
「?」
驚いて顔を上げると、相手がしてやったり、と笑った。
「冗談冗談。そんな横暴言いませんよ」
「…………」
「あのー、耳、聞こえてる? 声出せる?」
章介は頷いた。すると、一樹が仕方なさそうに笑った。
そうやって笑うと信とよく似るな、と以前から思っていた笑みだった。
「………信は?」
「あー、ちょっと寝込んでる。風邪長引いちゃったみたいで。いーよなー、おれは毎日あくせく働いてんのにさ」
あくまで軽い調子で言った一樹の瞳の奥に陰りを見つけて、章介は信があまり良くない状態にあることを悟った。
「熱あるのか?」
「うん。八度五分くらい。朝は下がるんだけど夜がね。ここんとこずっとオアシスにいるよ」
オアシスというのは、柿崎という仏のような医師が常駐している医務室のことだ。
「……見舞いに行っても、だいじょうぶだと思うか?」
「うん。面謝だけど章なら大丈夫だよ。お前のこと、気にしてたし」
「………おれを?」
一樹は頷いた。
「死ぬほど心配してるだろうって、死ぬほど心配してた」
「…………」
「何なら今から行く? おれも今日まだだし」
頷いて立ち上がりかけ、章介はふと聞いた。
「一樹は………平気か?」
「うん。全然平気。思ったよりたいしたことなかったよ。案ずるより産むが易しってヤツだな」
章介は本心を見抜こうとじっと相手を観察したが、本当のことを言っているのかどうかはいまいちわからなかった。
「そうか。ならいいが………」
しかし平気なはずがない。
あの日からまだ一週間だ。この世界では、最初のひと月が山と言われている。
そこで思いつめて精神を病んだり、ひどいときには自殺をするケースが多いからだ。
疲れの片鱗も見せない一樹に、章介は逆に違和感を覚えた。
一樹は強がっているのではないか?
実際には苦しいのに、友人を優先してそれを言わないのではないか?
章介は不意に寒気を感じてわずかに身体を震わせた。
たぶん、このままではいけない。放っておいたら恐ろしいことが起こる。悪い予感がした。
章介がどうしたものかと悶々としているうちにふたりはオアシスに到着していた。
ノックして中に入り、一番奥のカーテンが引かれたベッドに歩み寄る。一週間ぶりに見た友人の姿に、章介はことばを失った。
苦しげに浅く息をつく彼の顔は真っ白で、顎の線が以前より鋭くなっていた。身体も、ひと回り小さくなったような気がする。
章介は、来客に気付いてうっすら目を開けた信の枕元に寄っていった。
「章介………来てくれたんだ」
相手は弱々しい笑みをうかべて、掠れた声で言った。
罪悪感に苛まれながら絞り出すように言う。
「もっと早くに来るべきだった……」
「いいよ。どうせ最初の頃は寝てばっかだったし……。一樹もごめんね、毎日。仕事ある日はいいから」
一樹はとなりの空きベッドのそばにあった椅子を持ってきて、自分はそれに腰かけ、章介に枕元に元々あった椅子に座るよう指示してから首を振った。
「まだそんな忙しくないし。あと、今日は休みだから」
「そう………」
「熱が下がらないとか?」
章介が聞くと、信は頷いた。
「検査とか……一度病院に行った方がいいんじゃないか?」
「いや……疲れだって。ここのところ眠れていなかったから………。まあ、あまり続きそうなら考えるとは言われてるけど」
「そうか」
沈黙が落ちる。と、不意に一樹が立ち上がった。
そして懐から銀色のデジカメを取り出し、ブラブラさせた。
「なー、皆で写真撮らねえ?」
「今?」
「そ。信の入院記念」
「普通、退院記念じゃないの」
「だよな」
章介と信は顔を見合わせて噴き出した。
「まーまー、細かいコトは気にせずにさ。章、ベッドのむこう側行って」
言われた通りにすると、一樹が寄って寄ってー、と言って、ベッドで身を起こした信に身を寄せた。
章介はそれにならってできるだけ中央に寄り、カメラのレンズを見た。
「はい、笑って笑ってー。じゃ、いくよ。はい、チーズ!」
かけ声とともにフラッシュが光った。一樹がカメラを操作して、撮影した画像を確認する。
「何だよー、ピースしてんのおれだけじゃん。しかも章、全然笑ってねーし。ダメ、もっかい。全員笑顔でピース! 章、わかった?」
「だいぶ前から表情筋が死んでるから無理だ」
「もー、しょーがないなー」
一樹はカメラをベッドに置くと、章介を手招いて、近付いてきた顔を捕まえ、両頬をつまんで上に引き上げた。
「ひゃ、ひゃにひゅるんひゃ!」
「ちゃんとできんじゃん。はい、このままキープして」
「無理だ」
「自分の手でやんの!」
ビシッと言われて、章介は仕方なく自分の頬を手で持ち上げた。すると一樹は満足げに笑って、再びカメラを構えた。
「いくよー。はい、チーズ!」
今度の写真はお気に召したようだった。一樹はニコニコしながら、今度焼き増しして配る、と声高らかに宣言すると、隣のベッドにもぐりこんで寝てしまった。
やはり疲れているのに違いなかった。
しばらくことばもなく座っていると、やがて信も寝息を立て始めた。
先ほどせがまれてさし出した章介の手を握ったまま。
章介はぼんやり相手の寝顔を見つめながら、自分たちは何と遠くまで来てしまったのだろう、と思った。