2-4

 信よりも一樹を何とかしなければ、と思いつつも何もできずに時は経って、やがて回復した信は仕事を始めた。
 予想通り、半年がたつ頃には一樹はトップ争いに食い込むようになっていた。
 しかし、同じく有望視されていた信の方は、意図的に馴染みを作らないようにしていたため、いつも下の上くらいの成績で、トップ争いの蚊帳の外だった。
 それでも三人は変わらずに付き合っていた。
 たまたま全員の休日がかぶっていた月曜は、三人で過ごすのがこの頃の習慣となっていた。
  昔よりおとなび、時折寂しげな目をするようになったふたりと距離間を感じなかったといったら嘘になる。
 しかし、ふたりは変わらず接してくれたし、章介もそうするよう努めていた。
 月曜日は唯一、三人が昔に戻れる日だった。
 突然一樹に異変が表れたのは、そんなある日のことだった。

 その週の月曜も三人は一緒に過ごしていた。
 この日は一樹の提案で映画を観に行くことになっていたので、章介はふたりと合流し、関係者専用の裏口から店を出た。
 そして、店の前を通る紅霞通りを渡って、大門を挟んで反対側の区画へ行く。
 映画館は玉東南西の巨大な遊興施設『パラダイス』に入っている。
 地上七階、地下五階の巨大な、大正ロマンを思わせる和風建築の外装で、玉東の街並みに馴染んでいる建物だ。
 そこは、カジノ、映画館、高級レストラン、プール、バー、画廊、ブランドショップなどが入っている複合施設であり、玉東のランドマークとなっていた。

 一般客は入場券を買えばだれでも入れるが、傾城の入場は制限されていて、専用の入場チケット、通称招待券が必要だった。
 いつもそれを手に入れてくれるのは一樹であり、どうやっているのかは知らないが、それで二人を『パラダイス』に連れていってくれる。
 人混みが嫌いなので、章介は内心さほど行きたいと思わなかったが、二人が行くときは付き合いで行っていた。
 入り口で招待券を電子腕輪と交換しながら、一樹がボロ負けした将棋の試合に文句を垂れる。
 招待券と引き換えにもらえるこの装置は、パラダイスの通行券かつ財布であり、招待券のグレードに応じた額が入っていた。

「だいたい不利なんだよなー、おれ。ふたりは小さい頃から将棋の手ほどき受けてんだからさ」
「やろうって言ったのは一樹だよね」

 信のことばに、一樹は口をとがらせた。

「言ったけどさあー、何もあそこまでコテンパンにしてくれなくても………。少し弱者に対する温情ってモンがあってもいいじゃんか。一ミリ位勝てると思ったんだよー。……ん?」

 そのとき、何かに気付いたらしい一樹が声をあげた。
 目線を追うと、中年男性二人が話しながらちょうどエスカレーターを降りてきたところだった。
 どこかで見たことがあるような、と思いながら横のふたりを見やると、信が露骨に眉をしかめている。

「あの人、一樹の……」
「ああ、須藤さんだな」

 そのとき、相手がこちらを見た。
 目が合ってさすがに無視できなくなったらしいふたりは、相手に向かって歩き出した。
 近くまで行くと、その赤ら顔の男は、ふたりに気付いてニヤニヤ笑った。ニコニコではなかった、と章介は思った。

「椿じゃないか。こんなところで会うなんて。いくら誘っても来てくれなかったのになあ。その人とは来るんだ?」

 そう言って客が見たのは、章介だった。
 客と勘違いしているらしい。

「いえ、そういうわけでは……」
「間夫(まぶ)か。羨ましい」

 間夫というのは、傾城の本命の恋人のことだ。昔吉原で使われていた古い言葉だが、玉東では普通に使われている。
 なかなか同伴に応じない一樹の相手だと勘違いされているらしい。
 口を挟まずにいるのが良かろうと、章介は曖昧に頷いた。

「それに、菊野まで。おモテになる。店でお会いしましたよね?」
「はあ、まあ……」
「しかし、わざわざ店になど来なくとも、困らなそうなのに。お名前は、何でしたかな?」
「ええと……」

 そこで一樹が言った。

「友達っすよ、ただの。紅妃っつって、店にいます。水揚げはまだですけど」

 すると、男の章介を見る目があからさまに変わった。

「ああ、道理で見たことがあると思った」
「ま、そういうわけで、何もないんで」
「でも、三人だけでこんなとこいていいの? 怒られるんじゃない?」
「まあ、本当は若衆連れて来なきゃないんすけど、ほら、ご覧の通り紅妃が用心棒みたいなもんなんで」

 本来、傾城は用心棒兼監視役の若衆同伴でなければ、外出は許されていない。
 だが、守銭奴の遣り手は、次の稼ぎ頭になりそうな一樹には甘かった。

「まあ、確かに。それで安心したよ。可愛い椿が横取りされちゃ困るからね。君は、私が育てたんだ……。美しく淫らに、花開かせた……」

 相手はそう言って手を伸ばし、一樹の頬をスッと撫でた。
 そしてそのまま指を唇にもってゆき、なぞり始める。
 章介は耐えがたい嫌悪感に全身から汗が噴き出すのを感じながら、客を殴りつけたいという衝動と戦っていた。
 一樹は日々、こんな客の相手をしているのだ。
 そしていずれは、自分も……。
 一樹はじっとしてされるがままになっていたが、信がいきなり手を伸ばし、相手の手の甲をつねった。

「イタッ!」
「お客さま、困ります。こういったことは店(なか)でやって頂きませんと、私たちの立場がありません」

 声を上げて手を引っ込めた不躾な客に、信が笑顔で凄む。

「わ、悪かったよ。かわいくてつい………じゃ、また行くよ」
「お待ちしています」

 逃げるようにそそくさと去っていった相手を見送ってから、一樹が口笛を吹いた。
 そして、笑みを消した信にむかって言った。

「サンキュ、王子様」
「感じ悪いよ、あの人」
「や、いつもは止めるんだけど」

 そこで一樹はイタズラっぽい笑みを浮かべた。

「お前ら、どう反応するかなーって」
「はあ? 何でそんなことするんだよ」
「まー。結果的には白馬の王子様が助けてくれたわけだ。ありがとうございますぅ。わたし、惚れちゃいますぅ」

 信は、しなを作って腕を掴んでくる一樹の手を振り払い、置いていこう、と言って歩き出した。

「あっ、待てよ。ちょこっと冗談言っただけじゃんか」

 後ろから追いすがってくる一樹を無視して、信は言った。

「映画、何時だからだっけ?」
「十一時十分だな」
「食べるにはちょっと時間が足りないかな。何か買い物ある?」
「いや」
「本屋でも行く?」
「だな。じゃあそこ曲がった方早いな」

 そのとき、一樹が追いついて来て、ふたりの肩に腕を回した。

「ちょっとーふたりとも、冷たいんじゃないのー? ゴメンって。けどあんな冗談真に受けるなよ」
「ああいう類の悪ふざけは好きじゃない。前言ったよね?」
「ごめん、忘れてた。もうしない」

 すると、信はようやく目から怒りの色を消した。

「映画まで少しあるから、本屋行かない?」
「お、いーねー。マンガ大人買いしたかったんだよなー」
「何買うの?」
「今流行ってるやつ。なんてったっけ、忍者の……」
「あれかあ。面白そうだよね」
「あれぜってえ皆読みたいじゃん? だから全部揃えて一週間二百円で貸し出すわ」
「えぇっ、お金取るの?」

 すると、一樹は芝居がかった仕草で人差し指を振った。

「お坊ちゃん、世の中タダなんてものはないんだよ。ま、お前らにはタダで貸すけど」
「一樹、そういうのはやめた方が……」
「何だよ、章まで。いいか、おれらはあそこで図太く生きてかなきゃねーんだよ。世の中一番大事なのは金なんだよ。地獄の沙汰も金次第ってな。だから、チャンスは逃さない」
「……まあ、遣り手に見つからない程度にやれよ」

 結局、章介はそれだけ言った。
 一樹のやることに口を出す権利はないと思ったからだ。
 個人的には、金は一番ではないと思っていたが、一樹にとってはそうなのだろうし、それを否定することもない。
 多分、一樹は三人の中で一番の現実主義者であり、ある側面から見ればそれが正しいのだろう。
 実際、二人は一樹のおかげでこうして息抜きに来れているからだ。

 だが、だからこそ危うさも感じる。
 物質的な豊かさは、確かに人を助けるが、最後に拠り所になるのは信念であり、人との繋がりだ。
 一樹は明るくて人当たりがいいのに、弱みを見せないところがあって、そこだけが気がかりだった。
 本心がわからないのだ。
 今だって本当に楽しんでいるのかわからない。
 似たような考えを信が仄めかすこともあったから、章介の勘繰りすぎでもないだろう。
 いつか、本心を見せてくれる日が来るのだろうか、と思いながら、章介はしばらく二人のやり取りを見ていた。

 ◇

 三人は、映画館の斜向かいにある本屋をぶらついた後、映画館に入った。
 中は遊客と傾城(けいせい)でそこそこ混んでいて、中にはいかがわしいことをしている者もいる。
 こういうのがいるので、章介は映画があまり好きではなかったが、二人は気にしていないようだった。
 平気でポップコーンを食べながら雑談している。
 これが、傾城と新造の違いなのだろうか、と思う。
 傾城になったら、毎日客を取らねばならない。
 好きでもない、それも男と寝るのだ。
 自分にやっていけるとは、とてもではないが思えなかった。

「こんなに食べ切れるかなあ。一樹、何でLにしちゃったの? 食べられないよ」
「三人で食えば平気だろ。余ったらおれが食う」
「お昼大丈夫?」
「おれ、代謝スゲー良いからだいじょうぶ。すぐ腹減るから」
「………確かに、いつも何か食べてるわりには太らないよな」

 章介が同意すると、一樹が自慢げに言った。

「人生で太ったこと一回もねーんだよ。羨ましーだろ?」
「え、じゃあダイエットとかしたことないの?」
「ない」
「いいなあ」
「江戸時代だったら死んでるな」

 素直に思ったことを言うと、横の二人が驚いたように振り向いた。

「えっ、何それ?」
「どーゆーこと?」
「いや、飢饉とかに耐えられないだろ? 人類は昔から飢餓と戦ってきたからな。太りやすい人が多いのは、そうじゃない遺伝子が淘汰されてきたからだ。っていう話、聞いたことないか? 皆知ってると思ったが」

 すると、二人は首を振った。

「何その話、おもろ」
「あ、じゃあさ、一樹の祖先は貴族とかじゃない? 食べ物に困らなかった人」
「そうかもな」
「おお、その説いいね」

 そうやって話しているうちに、上映が始まる。
 三人は口を閉じてスクリーンに目を向けた。
 感傷的な音楽と共に主人公が現れる。
 少女は、捨て犬らしき子犬を抱えていた。
 章介はそうして、少女が苦難を乗り越えて犬を保護し、共に成長し、そしてその死を看取るさまを眺めた。
 陳腐すぎる、お涙頂戴の駄作だ。

 外れだな、と思ってあくびをかみ殺していると、隣から鼻をすする音が聞こえてきた。
 横目で確認すると、一樹が号泣していた。
 その上、嗚咽を漏らしている。
 思わず顔を向けると、向こう側にいた信と目が合った。
 相手もやはり驚いたように目を見開いて固まっている。
 こんな陳腐なストーリーで号泣するなんて、一樹はいったいどうしたのか。
  犬を飼った経験はないはずだし、そういうたぐいの映画ならもっと残酷でやるせないストーリーのを以前に見た。
 一樹はそのとき、涙ひとつこぼさなかった。
 逆に信の方が泣いていたくらいだ。
 たまたまにツボにはまったのか、もしくは……。

 そこで章介は自分がこれまで見落としてきた日常生活における一樹の些細な変化を不意に思い出した。
 よくぼんやりするようになり、朝、遅刻しがちになった。
 夜眠れない、と言い、食が細くなった。
 前より外に出たがらなくなり、細かいミスが増え、感情を表に出さなくなり、口数が減った……。
 何かがおかしかった。
 一樹の中で確実に何かが、悪い方へと変化していた。
 そこで章介は、一樹の水揚げ当初の懸念を思い出した。
 一樹が実は、水揚げをうまく処理できていなかったのではないか、虚勢を張っていたのではないか、という懸念を。

 自分のティッシュが底をついたらしい相手にティッシュとハンカチを差し出しながら、章介は、今がかなりのっぴきならない状況である可能性に思い至って息を呑んだ。
 何とかしなければ、一樹は早晩まずいことになるかもしれない。
 感情の制御がきかないような泣き方をしているのだ。
    今すぐに対処しなければならなかった。
 章介は詰めていた息を吐き出し、とりあえず信に相談だな、と思った。

 ◇

 章介はその日、店に戻って夕食を摂ると、すぐに信の部屋に向かった。
 彼は用件がわかっていて、すぐに茶を淹れた。
 そうして章介と向かい合って座り、章介の言葉を待つ。
 淹れてもらったほうじ茶を一口飲んでから、話を切り出した。

「今日の一樹、変じゃなかったか?」
「うん、いつもの一樹じゃなかったよね。あんな泣き方、初めて見た。どうしたんだろう」
「実は他にも気になったことがあってな……」

 そして、最近の一樹の少し変な言動に言及すると、信は頷いて眉根を寄せた。

「私も何となく感じてはいたんだ……。痩せたし、絶対元気ないよ。どうする?」
「とりあえず話がしたい……夜にでも部屋に行かないか?」

 一樹は帰り着くなり先輩傾城の着物選びの手伝いに行ってしまったので、今、信の部屋にはふたりしかいなかった。
 そこが、続き部屋さえない八畳間の客取り部屋だということに、いつものように気まずい思いをしながら、茶をしきりに啜る。
 このとき白銀楼で最下級の部屋持であった信には、二間ある本部屋も、本部屋とは別の居室も与えられていなかった。
 彼に与えられたのは北側の日当たりが悪く、その上せまっ苦しい部屋ひとつだった。
 開楼時間の午後五時から、酷いときには明け方まで隣の住人とその客の声が聞こえてくるような部屋で、友人は日々を過ごしていた。
 信は自分も湯呑みを傾けてから頷いた。

「早い方がいい気がする」
「ああ」
「たぶん、過労じゃないかな。働きすぎだよ、一樹は」
「………だな」

 章介はそうは思わなかったが、特に反論しなかった。
 それでも彼の表情からその思いを汲み取ったらしい信は聞き返した。

「それだけが理由じゃないのかな?」
「…………個人的には、最初からずっと無理してきたんじゃないかと思う」

 長い沈黙の末にそう意見を表明した章介に、信は少し驚いたように目を見張った。

「最初って……一本立ちのときから?」
「ああ。………あのとき一樹はまったく弱音を吐かなかった。そうじゃないか? それとも信には何か言っていたか?」

 すると相手は首を振った。

「実は前々から気になってはいたんだ。だが、どうすればよいかわからなくて。弱みを見せられないタイプだろう、一樹は」

 章介のことばに、信は憂うように虚空を見つめた。

「そうだね。たぶん私がその機会を奪ってしまったんだと思う」
「どういうことだ?」

 章介が聞くと、信は自嘲するように笑った。

「一本立ちのとき、私が騒いだから。たぶんそれで一樹は弱音を吐くに吐けなくなったんだよ。皆が私で手一杯だったから、誰も一樹を気にかけなかった。……私も」
「そんなふうに考えるな。信のせいじゃない。あのときは信だって大変だっただろ」
「でも、本当のことなんだよ」
「自分を責めるな。たぶん、だいじょうぶだよ。信の言うように過労で、精神的にも余裕がなくなっただけだろう。少し休めばよくなる」
「だといいけど」

 部屋に沈黙が落ちる。
 二人はそれからしばらく、各々考えに浸りながら黙ってお茶を啜っていた。