その日の夜、章介は信と共に何度か四階の一樹の居室を訪れ、ついに三回目で相手を捕まえた。
半ば二人の訪問を予期していたような顔の一樹は黙ってふたりを中に入れた。
「遅くにごめん。着物、いいのあった?」
信はまず世間話から入った。
章介は良い作戦だと思いながらこの策士の隣に腰を下ろし、ふたりとともに机を囲んだ。
一樹は、二人に飲み物も茶菓子も勧めなかった。
以前なら考えられなかった事態だ。
章介はこのとき、自分が一樹の異変を見落としてきたのではなく、故意に見ないようにしてきたのだ、ということを悟った。
「まぁまぁ。色目が濃いのをあんま持ってなかったみたいだから、黒っぽいやつをオススメしたよ。あんまり好かないひともいるみたいだけど、黒って本来すげーおめでたい色だろ? 昔は結婚式のときに黒い振袖着てたらしいし。それに顔だちも、大柄に負けない感じだしな」
「確かに。江藤さんてハーフじゃなかった?」
江藤というのは、今日一樹が着物選びを手伝った相手だった。
「そーそー。どこだっけな、ロシアとか言ってたような気ィする」
「うん、確かそうだった。黒か、いいね。一度着てみたいけど勇気が出なくてチャレンジしたことないんだ」
信は柔和な表情で一樹の心を溶かしにかかった。
「あぁ、ああいうのはひと選ぶからなぁ。おれなんか絶対無理。着られちゃう」
「うん、一樹は暖色系の方が似合うよ。この中だったら章介が一番似合いそうじゃない?」
急に話の矛先が自分に向いたことに驚き、章介は固まった。
すると一樹が含み笑いをしながら、彼を検分するようにじっと見つめた。
「同意。一回着せてみたいよなー」
「………」
なんとなく気づまりになって身じろぎをすると、信が口の端をつり上げるのが見えた。
「やってみる? ちょっと大きめのがあるんだ」
「仕掛け(うえ)?」
「うん」
信が頷くと、一樹はニヤッと笑った。
「じゃあどうせだから下も合わせようぜ。お下がりでもらったけど大きすぎた振袖……」
「着ないからな」
これ以上黙っているといいようにされそうだったので、章介は話を遮った。
「何だよー、ノリ悪ぃなー。何かこの先ずっと章介の女装見れない気ィするから、今着せたいんだけどなぁ」
「おれなんかがそんな格好したら目も当てられないだろう。一樹や信ならともかく」
章介は早い時期から髪を伸ばす必要がないことを告げられていた。
白銀楼においてそれはすなわち、一本立ち後、男物の和装姿のみで接客するということを意味していた。
全体としてこの「短髪組」は三分の一から四分の一くらいいて、主に章介のように体格がよく、女装姿に適さないだろうと目された者たちに割り振られていた。
一樹はそのことに言及していた。
「いやわかんないよ? 化粧映えしそうな顔してるし意外とイケるかもよ? なー、仕掛け着てよー、お願いっ」
自分の袖を引っ張り出した一樹に内心嘆息しつつ、章介はなおも首を振った。
「何を言われようと着ない」
「ちぇっ、おれらが普段どんな気持ちでやってるか知ってほしくて言ったのに」
何気なく発されたそのことばに章介は言葉を失った。
そんな章介の異変にも気づかず、一樹は続けた。
「女扱いされてベタベタ触られてさ」
「何というか、男の業が見える場所だよね、ここは」
信が相槌を打つと、一樹は頷いた。
「ホントにどうしようもねぇ奴らだよな。ご高説をぶったその口で野郎のしゃぶってんだから。気色悪いことこの上ねー」
「ああ……それで妻子持ちとかいうんだから世も末だよ。皆何考えてるんだろ」
「ハハッ、信は潔癖だからなぁ。そういやお前、また遣り手に怒られてたろ。だいじょうぶか? なぜかあのひと信のこと目の敵にしてっからなぁ」
「馬が合わないんだよ」
「だいじょうぶかよー? いくら元引っ込みだからってそんなに長く部屋持でいたら……。部屋持の別名、知ってるよな?」
部屋持というのは、白銀楼で最下級の傾城のことだ。
ここにあまり長くいると、下層の店へ売り飛ばされるという話だった。
一転して案じるような表情で窺うように見た一樹に、信は答えた。
「知ってる。……そうだね、もう少しがんばるよ」
「うん、そうした方がいい」
「一樹は……もう頑張らなくていい」
そろそろ本題に入るタイミングだろうと思った章介はそこで口を開いた。
こちらに視線を転じて、自分を観察するように見る一樹に腰が引けそうになりながらも、章介は何とか踏ん張って話を続けた。
「疲れてるだろ?」
「ま、元気溌剌ってわけではないけど、だいたいここの奴らみんなそうだろ?」
「少し休みをもらった方がいい。これだけ働いているんだから許されるだろ」
「いやいや」
あくまで取り合わない一樹に、章介は苛立ちを感じ、少し強い口調で言った。
「休まないとダメだ」
「平気だって。ちょっと疲れてっけど、仕事してれば忘れるし」
「平気そうには見えない」
章介が食い下がると、一樹は面倒くさそうにため息を吐いた。
「章、しつこい。本人がだいじょうぶって言ってんだよ」
「じゃあどうして休日に外出なくなった? 朝起きられなくなった? こんなに痩せた?」
章介は気色ばんで片膝を畳につき、相手に詰め寄った。
このチャンスを逃したら後はない、そう直感したからだ。
同じことを感じたらしい信は、ちょっと落ち着いて、と言っただけで章介を制止しなかった。
すると信じられないことに、一樹は笑い出した。
鼻で笑うとかそういうのじゃない。
文字通り腹を抱えて笑い出したのだ。
凍り付いたふたりに、相手は言った。
「ははっ、ははははっ! ふたりがこんなに必死なの、久しぶりに見たわ。ははっ、おもろっ、やべっ、笑いとまんねっ」
相手の尋常でない笑い方に、背筋がゾッとした。
こんな、笑う要素がひとつもない場面で、一樹は大笑いをしている。
これは病気だ、と思った。
章介は青ざめた顔の信と顔を見合わせた。
同じことを思っているらしい。
信は慄いたように一樹を再び見て言った。
「笑うとこじゃないだろ……」
「はははははっ、はははっ、あー、ツボッった、とまんねー! あははっ、ははっ、ひっ」
「一樹、どうしたんだよ……」
「ははははっはっ、あははっ、あはっ、あはっ、はあ、はあ、苦しっ、ヤベッ、笑いすぎて涙出てきた……うっ、ひくっ」
そうして今度は泣き始める。
章介は恐れをなして身を引いた。
明らかにまともではない。
一樹はいったいどうしてしまったというのだ。
感情の振れ幅が大きすぎて怖い。
これまでこんなことはなかったのに、なぜいきなりこんなことになったのか。
それとも、見落としていただけでその兆候はあったのか。
混乱している章介とは対照的に、信は身を乗り出した。
そして、友人に寄り添い、背中をさする。
明らかに精神に異常をきたしている人間相手になぜそんなに冷静でいられるのか、章介には理解できなかった。
信は落ち着いた、優しい声音で囁くように言った。
「大丈夫だよ。一樹、落ち着いて」
「うっ、うぅっ、ひっく、ひっく、あれっ、おかしーなっ、と、とまんねっ」
泣きぬれた瞳を前腕でごしごしとこする一樹にハンカチを差し出した。
「一樹、ゆっくり深呼吸して。そう、大丈夫だから」
「うっ、ふっ、くっ……」
「大丈夫、大丈夫だよ。そう、ゆっくり吸って、吐いて」
「ひっく……ひっ」
「我慢しなくていい。泣きたいときもあるよな。私もあるよ、夜とかね」
「ふっ……うっ……」
「世界にひとりぼっちになった気分っていうのかな。先が見えなくて、苦しくて」
「ふっく……おれっ、何か変、なんだ」
「うん」
「自分が自分じゃない……どうしようも、ないんだ」
「少し疲れているだけだよ。休めば良くなる」
「そう、かなっ……?」
「このところ忙し過ぎたんだよ。遣り手に言って少し休ませてもらおう。一緒に言いに行くから」
「ん……」
やっと落ち着いたらしい一樹は、ハンカチで目元を拭き、ティッシュで鼻をかんだ。
そうして、それまでなりゆきを傍観していた章介に今気付いたかのようにハッとして、気まずそうに目を伏せた。
「ごめんな、変なとこ見せて」
「平気だ。おれも少し休んだ方がいいと思う。遣り手は説得してやるから、そう思い詰めるな」
「うん……」
「明日にでも話しにいこう。一樹、今日はもう寝よ。布団出すよ」
信の言葉に、章介は立ち上がって押し入れに近づき、布団を敷くのを手伝った。
一樹の部屋は昼三用なので十五畳もあり、三人分の布団を敷いてもまだスペースが余っていた。
早々にそこに寝転がり、電気を消す。
疲れていた様子の一樹は、二言三言会話したのち、寝息を立て始めた。
章介はわずかに身じろぎをして、闇に浮かび上がる天井の木目を眺めた。
これでひとまず、休ませる算段はついた。
一樹がいうことをきいてくれさえすれば、うまくいく気がする。
問題は、一樹がゴネたときだ。
以前にも増して感情の起伏が激しくなったこの友人は、今日のように落ち込んだときはこうしてしおらしくしているが、調子が戻るとすぐに無鉄砲になる。
だから、明日にも働き出す可能性があった。
章介は内心、躁病ではないかと疑っていたが、玉東の病院にいる精神科医は名ばかりで、患者を薬漬けにすると噂されていた。
そういった藪医者には診せたくない。
とりあえずはまだまともな白銀楼の常勤医・柿崎に相談すべきかもしれない。
これまでも仄めかす程度になら話したことがあるが、腰を据えて相談したことはない。
彼なら何か打開策があるかもしれなかった。
章介はため息をつき、目を閉じた。
いつからこうだったのかはわからない。
きちんと見ていなかったせいで見落としたのだろう。
だが、遅かれ早かれこういう日はくるような気がしていた。
幼少時から家庭がめちゃくちゃだった章介や信と違い、一樹はまっとうな家庭でまっとうに育ってきた人間だ。
ごくごく普通に生きてきたのに突然この檻の中に閉じ込められて、平気でいられるはずがないのだ。
実の両親に虐待された挙句売られた章介も、母が精神を病んで自死した信も、普通の人生は送ってきていない。
家庭という最も闇の深いブラックボックスの中で、苦しみながら生きてきた。
だから、苦痛に対する耐性が人よりも高いのだ。
対して、そういった経験をおそらくはしたことのない一樹は、そこまで打たれ強くはない。
そして、人に弱みを見せられぬという、一番の弱点を持っている。
心を病むのも道理だった。
意固地になって働きすぎるのも良くない。
このくらいの段階で気付いてよかったと思うべきだろう。
さて、一樹の調子が戻った時に休まないと言い出したらどう説得すべきか……章介はそんなことをつらつらと考えながら、知らぬ間に眠っていた。
◇
予期した通り、二、三日休んで元の調子に戻った一樹は、変わらぬペースで働き続けた。
何でも、近々最高位の呼び出しに昇進するから頑張りたいとのことだった。
呼び出し、というのは新造付き呼び出しの略で、江戸吉原の高級遊郭でかつて使われていた呼称だった。遊女の最高位であり、振袖新造や禿を従え、客の待つ茶屋へ道中する権利を持つことからこう呼ばれた。
日常的には花魁道中を行っていない白銀楼だったが、慣例に倣って他の大見世と同様の階級分けをしていたので、この呼称が最も売れている傾城たちに使われているのだ。
呼び出しになるということは、名実ともに店のトップになるということだった。
章介には理解できないことだが、呼び出しになるのは当初からの一樹の目標であり、彼が信や章介とは比べものにならないほど客を取っているのは、売り上げを上げて番付を上げるためだった。
だが、現時点で一樹は心身共に疲弊しており、このままのペースでいけば長くはもたないだろうというのが、二人の共通認識だった。
映画館での一件でそれははっきりした。
それで、章介と信はやめるよう何とか説得を試みたが、一樹は翻意しなかった。
そして自らの宣言通り、その月の番付で一位を取り、呼び出しに昇格した。
そしてますます忙しくなった。
章介は完全にお手上げ状態だった。
日に日に痩せていく一樹を、いくら説得しようとしても翻意しない。
逆に呼び出しになったことで、ますますその地位に固執するようになってしまったのだ。
もうどうすればよいのかわからない。
章介が悩んで傍観している間に、しかし信は行動を起こした。
それは、ある朝突然始まった。
一樹が呼び出しになってから二ヶ月ほどがたったある日の朝、章介が食堂に行くと、場が異様な雰囲気に包まれていた。
傾城から禿に至るまで、店で働く者たちが揃いも揃って興奮したようにことばを交わしていたのだ。
いったい何事か、また誰か棲み替えになったのだろうか、といろいろ考えを巡らせながらお盆を持って席に着くと、間髪入れずに隣のテーブルに座った禿たちの会話が耳に飛び込んできた。
「ねぇねぇ聞いた? 菊野さんがね、遂にやる気を出したっぽい」
「もう傾城同士の友情なんて信じられないよ」
「本当だよな」
「……椿さんも災難だったよね。タイミングが悪かったというか」
「菊野さんの方が売れちゃったりしてね」
「トップ交代? ないんじゃない? だって菊野さんあっちがさ………」
「……あのふたりだったらどっち? おれは椿さんかな………」
「でも椿さんが被害者ですよねえ」
「菊野さん、いくらなんでも酷すぎる………親友に対してあんなこと……」
「菊野さんも、いよいよって感じだよね」
「この機会を待ってた、的なね。いやー、でもちょっと残念だなー。あのふたりは仲良いと思ってたから」
「ここじゃ本当の友達なんてできないよ。皆隙あらばライバル蹴落とそうとしてるし」
「これで椿さんの馴染み全部取っちゃったらスゴイよねえ」
章介は思わず振り返って、ぺちゃくちゃ喋っている青年たちに声をかけた。
「おい、どういうことだ?」
和気あいあいと歓談していた禿たちはビクッとして振り返ると怯えた顔をした。
顔のせいか、単にでかいからか、章介は見習いの子全般に怖がられていた。
危害を加えたことなどないのだが。
「ど、どういうことっていうのは………」
「菊野が椿の客取ったとか取らないとか。説明して」
彼らは自分たちが責められているわけではないことを知ってホッとしたらしく、リラックスした表情で話し出した。
「紅妃さんはもうご存知かと思ってましたけど……。昨日、椿さんが急病で倒れたんですよ。そしたらね、菊野さんが彼の客、自分に回すようにっておっしゃったらしくて………」
「昨日椿さんは五時から泊まりまでフルだったんですよお。ここだって思ったんじゃないですかぁ? すごいですよねー」
章介は最後まで聞いていなかった。
喋りまくる禿たちを置き去りにして、遣り手のもとへと急ぐ。
彼はいつも通りオフィスでパソコンと向き合っていた。
遣り手は息を切らしてやってきた章介に気付くと、目を上げた。
「今日は休みじゃなかったのか?」
「どういうことですかっ? 菊野が椿の客盗ったって」
「ああ、そのことか」
遣り手は銀縁眼鏡を押しあげながら酷薄に笑った。
「傾城って怖いよなあ。相手が親友だろうと何だろうとお構いなしに弱み見せた瞬間にガブリ、だ。ま、菊野がやる気出してくれたのはラッキーだったがな。このまま競わせて二強時代にすればウチも安泰だ」
「……信は、そんなくだらない理由で行動するヤツじゃない」
章介はそう吐き捨てると、踵を返してオフィスを出た。どうしても信と話がしたかった。
そこで章介は信の本部屋に直行すると、ドアの前で耳をそばだて、中の様子を窺った。
物音ひとつしなかったが、鍵がかかっていて人の気配がある。
まだ寝ているらしかった。
章介は仕方なく裏山に行った。
この裏山というのは、玉東の東側にある低山で、季節の催し物がよく行われている山だ。もともと名前はなかったが、ここに玉東ができたときに紅山になったらしい。
玉東の東門から出てすぐに行ける表側の登山道は整備されており、誰でも登ることができる。
それゆえにいつも観光客でいっぱいだが、章介は南側のルートを独自に開発し、人と会わずに登るのが日課だった。もっとも、勾配もさほど急ではなく、標高も二百メートルほどなので、登るというより散歩という感じだが。
それでも、店の中や玉東にいるよりはよほどマシだった。
章介はそこを登ったり降りたりして、一時間ほど時間をつぶしてから、もう一度信の部屋に行った。
今度は起きている気配がしたので扉をノックすると、返事がして間もなく部屋の中の人物が姿を現した。
「すみません、寝過ごしちゃって。今、お客様お送りしてきま……」
そこで相手が友人であったことに気付いた信はことばを途切れさせた。
いかにも柔らかそうな長髪を緩く括り、急いで着付けたふうの着物のはだけた胸元から鬱血痕を曝した姿に、章介は衝撃を受けて立ち尽くした。
それがあまりに生々しく、正視に堪えない光景だったからだ。
一緒に生活していて、ここまで生々しいものを見たのは初めてだった。
章介の視線に気づいたらしい信は気まずそうにごめん、と謝って、後ろから出てきた客と共に廊下の向こうに消えた。
章介はしばし立ち尽くしてたが、やがて戻ってきた相手に声を掛けられて我に返った。
信はいつの間にか友禅をきっちり着付けていた。
「わ、悪い……」
章介が謝ると、信は何ごともなかったかのように首を振り、聞き返した。
「うん。どうしたの?」
「……用件はわかってるだろう」
章介が唸るように言うと、信は苦笑し、まあな、と答えた後で辺りを見回した。
「ここで話すのはちょっと……。着替えてくるから待っててくれる? あとご飯も食べなきゃないから……一時間半後に裏口は?」
「わかった」
章介は頷き、信の艶姿を頭から追い出そうとしながら自室に戻った。
しかし、よほどショックだったのか、その残像はなかなか消えてくれなかった。
◇
約束通り、一時間半後に一階の従業員出入り口のところで落ち合ったふたりは、そのまま裏山に向かった。
下界とは打って変わって閑散として静かなこの場所は、長らく章介や信や一樹の聖地だった。
苦しいとき、やるせない気持ちになったときはいつも三人でここに来て地面に寝ころび、木々に抱かれて過ごしていた。
大切な話をするときも必ずここに来た。
だから今日も、ふたりはどちらが確認することもなく自然にここにやってきていたのだった。
山を登り始めて少しした頃、信はようやく口を開いた。
「事前に言わなくてごめん。でも、すごく覚悟のいることだったから、ひとりでやったんだ。章介が少しでも逃げ道を作ってくれたら……たぶん君はそうしただろうな……それに甘えてしまうとわかっていたから、話せなかった。ごめん」
禿たちの会話が不意に頭の中に蘇る。
朝まで予約が一杯で――。
泊まり客もいて――。
信は、一樹の大量の客を、勇気を振り絞って盗った。一樹のために。
生理的な嫌悪感で耐えられないと言って水揚げから一年、ろくに客を取ろうともしなかったあの信が。
「そうか……。それしか、なかったか……?」
すると信は章介の方を向いて、頷いた。
「説得はあきらめたよ。たぶんもうあんまりちゃんと考えられなくなってる……母がそうだったから」
「そうか……」
信の母は、病気の末自死したと聞いていた。
その病気がうつ病だということも。
一樹の状態がそれに近いのだろう。
柿崎の見立てでも躁鬱だろうとのことだったが、内科医だから診断はできないと言われ、薬も貰えていない。
玉東病院の精神科を受診すべきか相談したが、医師界隈でも評判が悪いらしく、止められた。
代わりに、同伴を利用して区外の医者に診せてはどうかと提案され、紹介状まで書いてもらった。
だが、一樹は行こうとしない。
どんなに言っても病気ではないから、と受診してくれないのだ。
その間にもどんどん病状は進行していった。
だから、信は実力行使に出たわけである。
一樹の客を盗ってしまえば、必然的に仕事量は減る。
この手は思いつかなかった。
「それにしても、よく思いついたな。考えもしなかった」
「天啓かな。ある時パッとひらめいてね」
「だけどお前は大丈夫なのか? あんなに嫌がっていただろう」
「もうこれしかない。やるしかないんだ」
「そうかもしれないな……。ではおれも、努力する。一樹の客には好まれそうもないが……」
章介のことばに信は笑って首を振った。
「憎まれ役はひとりで十分だ。章介には、一樹との仲を取り持ってもらわないと。怒ってそうだしなあ」
「悪いな、全部背負わせてしまって」
章介は胸に圧迫感を感じて浅く息を吐いた。
自分にはとてもできない、と思う。
やってみるとは言ったが、実際には無理そうだった。
とにかく男への嫌悪感が強すぎるのだ。
だから、信の提案は正直ありがたかった。
どうやら天野信という男は、自分が思った以上の器だったらしい、と思いながら、章介は頂上を目指してひたすら足を交互に前に出し続ける。
一見繊細で壊れやすい雰囲気であるのに、芯はこれほどに強かったのだ。
信はもう覚悟を決めていた。後戻りせず、この道を行くと決めたのだ。
道の先が正解かどうかはわからない。
だが、正直それしかないと思った。
不甲斐ない自分に忸怩たる思いを抱きながら、章介は、自分には何ができるだろうか、と考え続けていた。