それからひと月で、信は一樹の顧客の四分の一を自分に乗り換えさせた。ばかりか、今までことごとく拒絶していた客まで登楼らせはじめ、あっという間に最初のお職を取るまで半年とかからなかった。
一方、信に客を盗られ、お職の座を追われた一樹には客があまりつかなくなり、ついたとしてもすぐに信に流れたため、信の思惑通り一樹は過労状態から脱した。
章介は、信がなぜそれをやったか承知していたので、彼の急激な行動の変化にさほど驚かなかったが、他の傾城たちや、一樹は戸惑っていた。いや、一樹に関しては怒っていた、と言った方が正しい。
いきなり自分の客を奪い始めた信に腹を立て、嫌がらせをし始めたのだ。
確かに、売り上げがよければ多少の優遇はある。
しかし、毎月の道中やその他もろもろの出費も多く、仕事量や実入りは差し引きゼロかマイナスなのだ。
位が上がれば上がるだけ借金も増えたかつての江戸吉原ほどではないが、やはり白銀楼も搾取されるシステムになっていた。
一樹もそのことはわかっている。わかった上でやっていると言っていた。
章介はかつて一樹が言っていたことを思い出す。
ここに来た頃に、店に来たことを人生の汚点にしたくない、と言っていた。
それは正当化だと内心思ったが、口には出さなかった。
その気持ちもわからなくはなかったからだ。
一樹は、騙された挙句に多額の借金を背負い、その返済のためここに来ている。
詳細は聞いていないが、相当酷い目に遭ったようだ。
普段明るく振る舞ってはいるが、時折とても暗い目をすることがあったから何か重いものを背負っているのだろうとは思っていた。
だがそれを話してはくれない。だから、一樹が何に悩んでいるのかも、何に苦しんでいるのかもわからない。
だがおそらく、心の拠り所が欲しいのだろうとは思った。
一樹は、可哀想な被害者ではなく自発的に働いていると思いたいのだ。
誇りを持ってこの仕事をし、その道を極めたい、とわりと本気で思っている。
章介は内心、売買春などという醜い行為に誇りもへったくれもないと思っていたが、口には出さなかった。
これ以上一樹を追い詰めたくなかったからだ。
そういったことをいろいろと考えながら、章介は腕を振った。羽の音と共にバドミントンのシャトルが宙を舞う。
この日も、三人は裏山に来ていた。
唯一全員の休みが合う月曜日、いつものように過ごしている。
一樹の体調が悪くなってからはあまり出かけることもなかったが、この頃は少し復調したようで、今日は自ら山に行きたいと言い出した。
それは喜ばしいことだったが、章介には別の懸念事項があった。信だ。
一樹と反比例するように多忙になった信はこの日、あまり体調がよさそうではなかった。
横目で、右手でラケットを持っている信を見ると、眉根を寄せて、苦しげに立っている。
わずかに開いた口で浅い呼吸を繰り返しているのがわかる。
内心ここまで来るのもやっとだったのだろう。
章介は次にシャトルが返ってきたところで、それを手でつかみ、片手を挙げて合図をした。
「疲れた。休憩させてくれ」
「えー。もうバテたのかよー。意外と体力ねぇなー、章」
章介は不満げにラケットをもてあそぶ一樹に謝り、信のところに行って低い声で話しかけた。
「平気か?」
「ごめん……平気じゃないかも……」
「戻った方がいいな」
「大丈夫、ちょっと休めば……。一樹、ごめん、ちょっとそこで休んでるね!」
信はそう言って、よろよろと木陰に移動し、ハンカチを敷いて横座りをした。
それでも辛そうにしている。
どこか痛むようだった。
章介は一旦バドミントンを再開したが、少ししても信が相変わらず青白い顔でいるのを見て、言った。
「帰るぞ」
「えぇ~? 来たばっかじゃん」
口を尖らせる相手に、章介は言った。
「戻って休ませないと」
すると、一樹は不満げに木陰で休んでいる信を見る。
「そもそもなんで来たんだよ、アイツ。ケツ痛いんなら休んでりゃいーのに。いい迷惑だな」
「っ……とにかく、おれは帰るから」
一樹のあまりの言いざまに言い返したくなるのを我慢して、章介はそれだけ言った。
そして信のところへ行き、背を向けてしゃがんだ。
「信、帰ろう」
「でも……」
「乗って」
信は少し逡巡したのち、章介の背に覆いかぶさった。
「一樹、ごめん……」
「仲が良いこって。おれの方こそごめんなー、タイミング悪いときに誘っちゃって」
信の謝罪に一樹は皮肉を浴びせかけてさっさと山を下りていった。
章介はため息をついて信を背負い、立ち上がった。
「最近少し目に余るな」
それは章介の本音だった。
信が一樹を蹴落とそうとしたわけでないことは、三人の間に起こったことを考えれば明白であり、一樹も当然わかっているものだと思っていた。
感謝するだろうとさえ思っていた。
だが、現実は真逆だ。
一樹は信の真意を誤解し、当てつけのようにちくちく嫌味を言ってくる。
一樹も辛いのはわかっている。
だが、こうも続くと、もういい加減うんざりだった。
心中を吐露した章介にしかし、信はきっぱり言った。
「一樹を責めないで」
「なぜだ? あんなことを言うなど……。信が何のためにしたのかもわかっていないのか」
「いや、頭ではわかっていると思うよ。でも感情は別物なんだ。章介も、一樹のこだわりは知ってるだろ?トップでいたかったんだよ」
「それに何の意味がある?」
「意味があるんだよ、一樹にとっては。だから怒るのも当然なんだ。それに……追い詰められているのかもしれない。辛くて、自分でもコントロールが利かないんじゃないかと思う。怖くて仕方ないから攻撃するんだ。たぶんお職うんぬんじゃない、今回のことはきっかけに過ぎなかったんじゃないかな。
この間章介が言ったように、たぶんずっと辛かったんだと思う。辛いけど辛いって言えなくて、泣きたくても泣けなくて、だから怒るしかない」
ここで信は深刻な口調で続けた。
「もしかしたら時間はあまり残されていないかもしれない」
章介は思わず横を見た。信はその視線を捕らえて続けた。
「感情の起伏が以前より激しくなったと思わない? 突然興奮したり、落ち込んだり、怒ったり……仕事量は減ったはずなのに悪化している。本当にどうにかしないと」
「連れ出せるか?」
信は頷いた。
「やってみる。元々一樹のお客だった人に、私と二人同伴してもらえないか頼んでみるよ。だけど、一樹は説得しなきゃない。騙して連れていっても入院できるわけじゃないし、帰ってきて薬を飲んでもらえなきゃ意味ないから。だから、協力して欲しい」
「わかった。おれが説得に行こう」
「うん。そうしてもらえると助かるかな。多分私が行くよりいいと思う」
「必ず説得する。もう医者に診せないとダメだ」
一樹は、章介が思う以上に切羽詰まった状況にあるのかもしれなかった。
章介は、なんと言って説得するかを考えながら、信を背負って山を降りた。
◇
「だーから、大丈夫だっつってんだろ」
その日の夕方、早速部屋を訪れた章介に、一樹は開口一番そう言った。
しかし青白く、もう何日も寝ていないようなくっきりしたクマのある顔で言われても説得力がない。
章介は、鏡を見てみろ、と言いたいのをぐっと堪えて辛抱強く説得を続けた。
「でもあんまり眠れてないだろ? 行ってみれば少し楽になる薬を出してもらえるかも……。柿崎先生の紹介だから、そう変な医者でもないだろうし、行くだけ行ってみないか?」
柿崎というのは白銀楼のたった一つの良心と呼ばれる常勤医だ。
「別に、寝れてるけど」
「……本当に?」
自分でもわかるほど疑わしげな口調だった。
すると一樹は苛立ったように返した。
「何回も言ってんだろ、平気だって」
「食事は……」
「あー、ダイエット中だよ」
一樹はそう言うなり立ち上がった。
「トイレ行ってくるわ」
しかし行き先がそこでないのは明白だった。章介は同じように立ち上がり、言った。
「逃げるな」
すると一樹は振り返って章介を睨みつけた。
「何だって?」
「逃げるな、と言っている。いい加減腹括って自分と向き合え。鏡見てみろ、ぶっ倒れそうな顔してるぞ」
「余計なお世話だ。毎度毎度母ちゃんみたいに……どうせ今日も信に言われてきたんだろ?」
そう吐き捨てるように言った一樹に、章介は気色ばんだ。
「おれたちがどんな思いで言っているのかもわからないのか!?」
「おれたち、ねえ……。なあ、前からずっと聞きたかったんだけど、お前ら、デキてるんじゃないのか? だからおれが邪魔なんだろ」
章介はいったい何を言われたのかわからず混乱した。
「いったい何の話をしてるんだ……」
「しらばっくれんなよ。見え見えだよ。気づかれてないと思ってんの、お前らくらいだぜ?」
「一樹……まずおれたちは、そういう関係ではない。もちろん、邪魔だなんて思ってもいない。ただ、心配なんだ」
これで伝わらなければもう何を言っても伝わらないな、と思いながら、章介は真剣な声音で言った。
しかし一樹は章介を鼻で笑った。
「心配? お前が心配なのは信だろ?」
「お前を心配している」
「どうだか。お前、ずっとおれのこと嫌いだっただろ?」
その言葉に、章介は驚いて暫時言葉を紡げなくなった。
そして部屋の扉を背に好戦的に自分を見上げてくる一樹の目に怯えがちらついているのを認めて、章介は息を呑んだ。
信が言っていた「一樹は怖がっている」ということばの意味をやっと理解したからだ。
そうだ、一樹はずっと怖かったのだ。ひとに受け入れてもらえないことが、ひとに突き放されることが。
この道化の仮面をかぶった友人の本当の姿は親の顔色を窺っている子供だったのだ。
それがわかった瞬間、怒りの波が速やかに引いていった。
章介は一樹に一歩近づき、その両肩をつかんだ。
「そんなふうに思ったことなどただの一度もない。一樹は、おれの大切な友人だ。それは、何があっても変わらない」
手負いの獣のように荒み、敵意を孕んだ瞳から険が取れてゆく。
「お前はいつもおれたちの中心だった……忘れたのか? いつもおれたちを引っ張って、外に連れ出してくれたじゃないか。おれは……ずっと一樹のそういうところをうらやましく思っていた。おれにはないから。たぶん、信もそうだっただろう。信は何度も、おれたちには一樹が必要だと言ってきたし、おれも全く同感だ。邪魔だなんて思ったことはただの一度もない」
一樹の瞳がゆらゆら揺れる。
章介は唇を舐め、仕上げにかかった。
「信じてくれ、おれと信を。戻ってきてくれ。信がやったことも、一樹を思ってのことだ……決して傷つけようと思ってしたわけじゃない。付き合いが長いんだから、わかるだろ?」
「章介、おれ……」
そのとき、一樹を覆っていた堅い防護壁が砕け散った音を聞いたような気がした。
「大丈夫だ、何とかしてやるから」
章介は涙で盛り上がった目で自分を見つめる一樹を抱き寄せた。
「大丈夫、大丈夫だ」
「おれ……ごめん……」
まるで女のように脆そうで小さな身体を、章介はそっと包み込んだ。一樹は泣きながら笑って言った。
「信の抱きつき癖が伝染ったな」
◇
その後すぐに、その場にいなかった信とも和解を果たした一樹はふたりの勧めに従って区外の病院を受診した。
そこで下った診断は、双極性障害と不安障害だった。
付き添った信の話では、医師は信用できそうとのことだった。薬を最低量から始めたのが印象がよかったらしい。
過去に似たような心の病で母親を亡くしている信は、そのあたり厳しかった。
なんでも、精神疾患の薬は飲みすぎると逆に症状を悪化させることがあるらしい。
信の親が亡くなったのもそれが原因ではないか、と疑っているようだ。
確かに、章介の祖母も一度に薬は三種類まで、と言っていたし、体感的にそれは正しい気がする。
それで、章介はいくらか安心して経過を見守った。
薬の服用を始めてから、一樹の症状は驚くほど改善した。
感情の起伏が激しかったのがなくなり、意味もなく泣き出したり、逆に興奮状態でえんえんしゃべり続けたり、といったことがなくなった。
そして、落ち込む期間も減り、食欲も改善傾向にある。
また、一樹と信の関係性も完全に修復し、昔のように話すようになった。
章介は心底ホッとして、無口で人に気を遣わぬ人間に戻った。
落ち着いてきた一樹はまた、療養のために客の数を制限することにも同意したので、信が多くの客を取る必要もなくなった……はずだった。
しかし現実にはそうはいかず、だいぶ前から一樹の異変に感づいていたらしい遣り手が、一樹を白銀楼に留め置き、通院と客数の制限を許す代わりに信がお職を張り通すことを条件として提示してきた。
そうでなければ、精神を病んだごくつぶしは置いておかないなどという、とても同じ人間とは思えぬ脅迫をされ、信は条件を吞まざるをえなかった。
本来ならばそんな遣り手は糾弾される立場のはずだが、信が交渉に赴いたときには逆に、余計なことをしてくれたな、となじったらしい。
遣り手としては、一樹が心身共にボロボロになるまで一線で働かせ、使い物にならなくなったら河岸にでも払い下げる算段だったのだろう。
信や章介が休ませろと再三要求しにいっていたから、一樹の異変はわかっていたはずだ。
章介は信から報告を受けたとき、正直この人格破綻者に怒鳴り込みに行きたい、と思ったが、一度決めたら絶対に覆さない遣り手には何を言っても通らぬだろう、と結局諦めた。
信に止められたのもある。
彼は、この内々の契約を一樹から隠し通したため、一樹の方はなぜまだ働き続けるのか若干不審に思ったようだったが、それについて追及することはなかった。
もう対立したくなかったのだろう。
やがて、一樹の症状は徐々に寛解していった。
信の方も、うまく適応したのか思ったほどは打撃を受けずに、それなりに元気だったように思う。
これに章介は心底安堵し、危機は去ったと思った。
諸々の騒動に心奪われている間に、章介は水揚げを迎えた。
水揚げとは傾城が初めて客を取る日であり、まだ経験がなかった章介にとっては童貞を失う日である。
当初からいつこの日が来るかとビクビクしていたその日は、思いのほか落ち着いて迎えた。
なぜなら、嫌悪感よりも、これでやっと信と一樹の仲間入りができる、という思いの方が強かったからだ。
理由はわからないが、章介は新造出しも遅く、見習いの中では一番一本立ちが遅かった。
それまでは、配膳や掃除、皿洗いといった一般的な雑用に加えて、若衆と呼ばれる一般従業員がやるような用心棒の仕事もしていた。
そして、遣り手から若衆にならないか、と言われたことすらある。
それは願ってもない提案だったが、そうなった場合には、三十年は働いてもらうと言われた。
三十年経ったら章介は五十である。
対して、傾城になり客を取れば十年で契約満了する。
悩んだ末に、章介は後者を選択した。
こんな薄汚いところで一生を終えたくはなかったし、何より自分と祖母の尊厳を踏み躙った両親に復讐したかったからだ。
ギャンブルやクラブ通いで多額の借金を作った挙げ句に実の息子を売り、あまつさえその息子が相続した祖母の家と財産を強奪した人間のクズ。それが両親だった。
本当に血が繋がっていたのか疑問なくらいだ。
だが、章介の顔は父にも母にも似ていた。
だから、血は水より濃い、などというのは幻想だ。
現実には、子供に愛情ゼロの親などごまんといる。
親が無条件に子供を愛するはずだ、というのは、恵まれた家庭で育った人間の幻想に過ぎない。
実際、章介は育児放棄で何度も死にかけたし、学費を奪われた挙げ句に売春宿に売られた。
そういう、人間失格の親もいるのだ。
だから、奴らに復讐するというのが章介の悲願だった。
そのためには四十年も待っていられない。
その頃には両方死んでいるだろう。
だから、章介は傾城になることを選んだ。
体を売ってさっさとこんなところからは出て、自分を地獄に落とした両親に復讐に行く。
そのためならば耐えられると思った。
水揚げの日の記憶はあまりない。
抱く側を指定されていたから、万が一にも勃たないなどということがないように少し薬を入れたのがよかったらしい。
ぼんやりしている間にことは終わっていた。
相手は親よりも年上のなよなよした男だったが、何とか抱けた。
粗相をすれば地下の折檻部屋行きか、最悪河岸に売り飛ばされるので、絶対にやらねばならなかった。
人生で一度も男に惹かれたことがない自分にできるのか不安ばかりが募ったが、媚薬を飲んで死ぬ気でやればできるということが判明した。
そうして、章介は無事一本立ちし、信や一樹のように客を取り始めた。
古参の馴染み客である佐竹瑞貴と一線を超えたのは、それから少し経った頃だった。