元部屋付き禿とのトラブルが発生したのは、章介との共揚げ騒動が終わってから四か月ほどが経った頃のことだった。
佐藤敦也は、秋二より少し前に信の部屋付きとなった禿である。
信と系統が似ている顔で、若干小柄な引っ込み禿だったが、性格はごく控えめで無口だった。
自分のことについて多くを語らず、彼がなぜここに来たのかはわからない。
だが、雰囲気から察するに、望んで来たわけではなさそうだった。
敦也は、秋二が入ってくると良い友人になった。
常に動いている秋二と、彫像のような敦也の組み合わせは思いのほか相性が良かったらしく、よく一緒にいるところを見た。
信自身も、この、章介とどこか似ている素朴な少年を好ましく思っていた。
何を主張するわけでもないが、周りはよく見えていて気のつく子。
そんな存在だった。
だからこそ、他の子よりも気にかけてやらねばと思っていた。
自己主張が少ない子は、店では淘汰されがちだから。
殺伐とした環境の中でたまった鬱憤は、より弱い者へといく。
信自身、初めはそうだった。
学生時代にそうだったように大人しくしていたらたちまち標的にされ、毎日が嫌がらせ、陰口のオンパレードになったのだ。これまでそんな経験をしたことがなかった信は大いに戸惑い、傷ついた。
そして一時期は人間不信気味にすらなった。
それから解放されたのは、同世代のリーダー格だった一樹が強く牽制を入れてくれたからだ。
一樹は非常に世渡り上手で、先輩の傾城にも可愛がられていたし、店の権力者・遣り手との関係も悪くなかった。
だから、その一樹が信を庇ったことで、信は標的から外れたのだった。
そういう経緯があるから、敦也のような大人しい禿のことは放っておけなかった。
それで何かにつけて守ってきた。
その敦也が、まもなく一本立ちをする。
信は、寂しいような気分になりながらその準備を進めていた。
敦也から声をかけられたのは、そんなある日のことだった。
「信さん、あの……」
その日に限ってグズグズと支度部屋に居残っていた敦也の用を、信は既に知っていた。それで、座るように促し、時計にちらりと目をやった。
午後五時二十分前。最初の客が来るまであと二十分あった。
それに相手はまず時間前に来ることがない政界の重鎮だ。茶を淹れるには充分時間があると判断し、信は着付けた仕掛けを汚さぬよう細心の注意を払ってポットの湯を急須に注いだ。
そして少し待った後に湯呑みに中身を空け、茶菓子と共に敦也の前のテーブルに置いた。
「す、すみませんっ」
恐縮する、朋友にどことなく似た後輩に菓子を勧めながら、信は小卓の前、相手の横に坐した。着物が崩れぬよう座って、目を泳がせている相手が口を開くのをノンビリ待つことにした。
しかし待てども待てども、相手は喉に餅を詰まらせたかのように、奇妙な呼気を吐き出すばかりで一向に話を切り出してこない。そこで信は自分の方から水を向けてやることにした。
「何か、話したいことでも?」
「ハ、ハイ……そのっ……あのっ……」
「馬淵さんの件かな?」
馬淵は信の馴染み客である。四十手前の比較的若い実業家で、遊び方が綺麗な良客だった。
「たっ……頼んでくださったんじゃ、ないですかっ?」
「あの方ならだいぶマシかと思って」
すると敦也は口をパクパクさせたのち、頭を下げた。
「あ、ありがとうございますっ……!」
「ううん」
信は首を振った。傾城が部屋つきの禿の水揚げを自分の客に任せることは、さほど珍しいことではない。
馬淵の人柄と技術に信頼を置いていた信は、敦也の水揚げを彼に任せることにしたのだった。
「馬淵さんとは相性もよかったしねえ」
「……それでよく名代に呼んで頂いていたのですか?」
「うん。あの人なら絶対に痛い思いはしなくてすむはずだから、心配しないで」
「あっ、ありがとうございますっ……!」
どこまでも純粋で無垢で人間の汚ない部分を知らなそうな相手にすこし不安を覚えながら、信は安心させるように言った。
「それからちょっと改まったことを聞くけど……あっくんはどう考えてるのかな。今後、白銀楼(ここ)でどうしていくつもりか、良かったら教えてくれない?」
ポカンとした顔で自分を見てくる相手に、信は丁寧に説明した。
「ありていに言えば、売れたいかどうか、それを聞きたくて。あっくんは放っといたら絶対に売れる子だからねえ」
すると敦也は間髪いれずにブンブンと首を振った。信は少し笑って頷いた。
「そっか。じゃああとで技を伝授してあげるよ」
「技、ですか?」
「うん、昔使ってた客を追い払うやつ。効果は保証するよ。あっくんは目立つからちゃんとした小細工が必ないとね。……でも、今の答えを聞いて安心したよ。売れっ子ほど損する仕組みになってるからねえ」
そのことばに、敦也は微妙な顔をした。
「あの……前々から疑問だったんですけど……信さんはどうしてそんなに、その……」
「働いてるか? 性格かな。動いていないと落ち着かなくて」
「……」
相手は納得したような、していないような表情になった。そして、ぼそり、と付け加えた。
「それは一樹さんと何か……関係ありますか?」
「ないよ」
「でも前は……今みたいな感じじゃなかったって、聞きました……。一樹さんが体調を崩されてから、変わられたって……。皆一樹さんの客を盗ったみたいに言ってたけど、本当は何があったんですか?」
口数は少ないが、驚くほど洞察力がある敦也相手に嘘は通用しない。
信は少しためらってから言った。
「誰にも言わないって約束してくれる?」
すると敦也は真剣な顔で深く頷いた。信は息を吸って、真実を伝えた。
「一樹の足抜けを手引きしたのは私なんだよ」
敦也は絶句した。信は苦笑して続ける。
「一樹があれ以上ここにいたら、とりかえしのつかないことになると思ったから逃がしたんだよ。精神も肉体も、限界だった。薬もずいぶん飲んでいてね。合法のものも非合法のものも。まあ当然ながら遣り手にはバレてしまって、言われた――河岸に行くか、一樹の残り契約年数を背負うかと」
「そんな……」
敦也は衝撃を受けたような顔で信を凝視していた。
「私は後者を選んだ。ここはセーフセックスが徹底されているし、違法なドラッグも厳しく禁止されているから。生き残れる確率ははるかに高いと思った。だから、ここにいる限りは誰よりも稼がないといけないんだよ」
「………」
「みんなには内緒だよ。それから遣り手にはくれぐれも弱味を握られないようにね」
すこし冗談めかしてそう言ってみても、敦也は笑わなかった。敦也はそれから部屋から出ていくまで黙ったままだった。
◇
一カ月後、敦也は馬淵に水揚げされた。
思ったより大丈夫だったようで安心したのもつかの間、敦也はすぐに新たな頭痛の種になった。何を思ったのか、とても熱心に仕事に取り組み始めたからだ。
元々容姿端麗で有望株の引っ込み禿だった敦也は、何もしなければ間違いなく売れる子だった。
だから客が寄り付かないようにする術――病気もちに見せかけるとか、見た目を汚くするとか――を教えて対策したのだ。それなのに、敦也はその技をまったく活用していないようだった。
それで心配になって、信はこの日泊まり客を入れずに、敦也の、与えられたばかりの本部屋へ話しに行ったのだった。
「あっくん、信だけどいる?」
扉をノックすると、間もなく相手が中から姿を現した。顔色を素早くチェックしつつ、信は言った。
「お疲れさま。ちょっと話せるかな?」
「……どうぞ」
「あ、ここで大丈夫。すぐ済むから」
部屋の入り口手前に立ち、出てきた敦也と相対する。
そうして聞きたかったことを聞いた。
「最近どう? 仕事は慣れた?」
「まあ……」
「ずいぶん頑張ってるみたいだね」
「そうっすね」
信はここ最近の習慣で相手の顔色を窺ったが、イマイチわからなかった。
あまり疲れているようには見えないが、確証はない。章介と雰囲気の似ているこの後輩は、滅多なことでは感情を露わにしないのだ。
水揚げからまだ一カ月――一番辛い時期のはずだった。その上、彼は既に馴染みを何人も持っている。
「出世街道を驀進している感じだよね。そのうち抜かれちゃいそう」
「………」
「私があっくんぐらいのときは、ひたすらサボることばかり考えていたけどねえ」
「そうなんですか」
「うん。なるべく目立たないところに席取ってね……それでもいいんだよ。遣り手に何言われても、適当でいい。引っ込みだった子はそうそう払い下げされないから」
「………」
「……身体は平気?」
「はい」
何を言っても相槌かはいしか返ってこないことに動揺しつつ、信は敦也を見た。
これ以上何を言っても駄目そうだ。仕方なく一旦は引き下がることにしよう。
何か考えがあって働いているのだろうから。
「そう……何かあったら、いつでも言ってくれていいから。夜でも、構わずおいで――それが私の最後の仕事だからね」
「ありがとうございます。そうさせてもらいます」
「うん。邪魔してごめんね。じゃあおやすみ」
「おやすみなさい」
信は頷いて踵を返し、自室へと戻った。
結局敦也の真意はわからなかった。まあ気長に待つしかないだろう。
もしかしたら、稼がなければならない事情があって、それは話せないようなことなのかもしれないし、あまり強引に聞き出すのも憚られる。
だが気になる。
あとで仲のいい子にでも聞いてみるか、と思いながら寝る準備をし、その日は就寝したのだった。