結局、敦也の友達の秋二も夏樹も伊織も詳しくは知らなかった。
だが情報は意外なところから手に入った。
津田の親友の広尾綾人のところに敦也が色々相談しに行っているようなのだ。
内心、なぜ世話係だった自分のところに来ないのか、と少し嫉妬したが、それよりも敦也の様子を知りたかった信は綾人のところへ話しを聞きに行った。
「おはようございます」
「あ、おはよー」
翌週の月曜日、まだ閑散としている食堂の窓際に綾人を見つけた信は近づいて行って挨拶した。
あやめという源氏名のこの人物は、店に来る以前から津田と知り合いだったらしく、何かと信にちょっかいをかける津田を諫めてくれるありがたい存在でもある。
性格はごく穏やかで当たりが柔らかいため、以前から親しくしていた。小柄な美青年で、店で五指に入る売れっ子でもある。
綾人は敦也のことを聞かれると、少し首を傾げながら答えた。
「あっくん? そういえば最近よく話すかも。あっくんがどうかした?」
「いや、どうしてるかなあと思って。何かこのところあんまり話せてなくて」
「そうなんだぁ。しーちゃん忙しいもんね。そうだねえ、頑張ってるみたいよ。ま、何も感じてないワケではなさそうだけど」
「そうなんですね。綾人さんにはいろいろ話してるみたいで安心しました」
「ホント手厚いよねえ、禿のアフターケア。僕でもそこまでやらないよ……」
自分では謙遜するが、面倒見のよい綾人は、多くの人間から慕われる存在だ。
きっと敦也のこともちゃんとフォローしてくれているのだろう。
「そんなことないですよ。色々相談に乗っていただいてありがとうございます。敦也のこと、これからもよろしくお願いします。今が一番つらい時期だと思うので」
「うん、僕にできることならなんでも協力するよ。しーちゃんにはいーっぱい恩あるし……。ね、これよかったら食べてよ」
そう言って綾人が指し示したのはかぼちゃの煮付けだった。
「好きだよね、かぼちゃ」
「いいんですか?」
「どーぞ」
綾人は器ごと煮付けを差し出した。それを受け取りつつ、口を開く。
「ありがとうございます。……ところで今度、また厨房に忍び込もうと思うんですけど、一緒にどうですか?」
「行く行く~。他は、誰が来る予定?」
信は禿の頃に厨房の鍵を入手して以来、時たま友人たちと忍び込んで食べ物を盗み食いしていた。
白銀楼は仕入れも廃棄も多いので、多少つまんでも意外とバレない。
「大輔と秋二です」
「しーちゃんって意外と不良だよねえ。ここの人間のだれひとりとしてしーちゃんがそんなことしてるなんて夢にも思わないだろうね」
信は笑って答えた。
「余った食材は有効活用しないと」
「ふふっ……いつ?」
「綾人さんはいつがいいですか?」
「休みの日は基本空いてるよー。あと今週の木曜ももしかしたら早く上がれるかも」
「わかりました。じゃああと他のメンバーの予定を確認して……」
「あっ、噂をすれば何とやら……」
信が言い終わらぬうちに、秋二が姿を現した。
「あ、おはよー」
秋二は朝食が載ったプレート片手にやってくると、信のとなり、綾人の斜向かいに腰を下ろした。
その前に陽の光が燦々と降り注ぎ、卓上の花瓶の水がキラキラとその光を反射して光っている。
「おはよー。また悪いこと企んでるんだって?」
綾人の問いに、秋二はニヤッと笑った。
「まーそんなとこ。近江牛狙ってるんだよねー。一緒にやる?」
「予定が合えばね……まったく君たちは……歴代一位の問題児だね。厨房に忍び込むなんてこと、考えもしなかったよ」
「えー、酷い。人の害になるようなことはしてないじゃん」
「どの口が言うのかなー?」
「あ、信さんかぼちゃもらったの? おれのもいる?」
「いや、大丈夫」
いくらかぼちゃが好きでもさすがに六個は食べられない、と断ると、秋二はちょっと不満げな表情をした後、自分の分を箸でつかんで信の口元に突き付けた。
「はい、あーん」
「やめてくれる?」
「いいから、食べてよー」
「いいって言ってるだろ。育ち盛りなんだから自分で食べて」
「信さんお願い~」
秋二が信の腕をつかんで懇願してきたが、信は取り合わなかった。
無視して箸を進めると、綾人が口元に笑みを刻んで言った。
「ごちそうさま~」
しかし彼の前のお盆にはまだご飯が残っていた。
同じことに気づいたらしい秋二が箸を差し出したまま首をかしげる。
「体調でも悪いの?」
「ううん、まだ食べるよー。今のは言葉通りの意味じゃないの」
「?」
解せない様子の秋二の手を押しやり、信は食事を再開した。
「あっ、ちょっとっ」
「久しぶりに晴れましたねえ。そういえば着物のお直し、うまくいきました?」
信は秋二のおふざけを無視して綾人に話を振った。すると相手は味噌汁をすすってから頷いた。
「しっかしヒデとあんなに体格差あるとは思わなかったよ。だからちょっとショックだったかなー。僕ってマジでミクロなんだねえ」
ついふた月前に契約が切れて外界に出て行った津田秀隆は百六十センチちょっとだった。綾人はそれより更に五センチ以上低い。百七十センチオーバーの信から見ると、綾人は本当に小柄だった。もちろん、そんなことは口に出さないが。
「はあー、もう成長期にも期待できないしなあ、一生これで固定かと思うと……。一生ヒデに見下ろされ続けなきゃないのかあ……ムカつく~」
「お元気ですかねえ、津田さん」
津田との思い出を――主にトラブルだが――思い出しつつ言うと、綾人も遠くを見るような目になった。
「まー、あの性格だからねえ。したたかに生きてるっしょ」
「綾人さんも、もうすぐですね」
綾人の年季明けも目前に迫っていた。落籍の話が何度も持ち上がったのにも関わらず、一度も受け入れなかった津田同様、綾人も最後まで落籍を断り続けた。
決して一線は越えないが、それでも友情という強い絆で結ばれたこの二人はきっと外に出ても付き合い続けるのだろう。その推測を裏付けるかのように、綾人が言った。
「これ言うと気持ち悪い誤解受けそうだから誰にも言ってなかったけど、二人には教えとくね。あのね、こっから出たらヒデとルームシェアする予定なんだ」
「そうですか」
信が何げない風を装って相槌を打つと、綾人は少し照れたように頷いた。
「実家になんて帰れないし、何か結局頼れるのってお互いしかいないかなーって話になってさ。ま、家賃も浮くしね」
性懲りもなくかぼちゃを食べさせてこようとする秋二の動きを阻止しながら、信は素直に思ったことを口にした。
「それ、良いアイディアですね。私も章介と住もうかなあ」
その瞬間、秋二の手が引っ込んでいった。
「あー、いいかもねえ。何かあの武士がいたら毎日安眠できそうだよね」
「本当それなんですよ。あのたくましい身体に包み込まれる安心感ったら……ちょっと言葉に尽くせないですね」
「あー、目に浮かぶよ、君たちが穏やかーに暮らしてるのが。ヒデと僕じゃあ絶対そうならないけどね。もー多分毎日くだらないことでケンカしてる」
そう言いながらも綾人は嬉しそうだった。何かとても尊くて眩しいものを見た気がして、信は思わず目を細めた。
「そうですねえ、それで最終的にはいつも綾人さんが勝つのがみえます」
「えっ、そぉ? ていうか僕ってしーちゃんにとってどんなイメージなの? そんな怖い?」
「いやいや、そんなことないですよ」
「いや絶対そう思ってるってっ! あっ、もしかしてそれで最初のころ敬遠されてたの?」
「いや、そんなことは――」
綾人と軽口を叩きあいながら、信は思った。
二人は間違いなく仲間なのだと。何だかんだ言いながら綾人と津田は仲が良い。
それが、二人が共に一度も精神を病まずに、玉東を生き抜くことができた所以だった。
玉東に沈められた当初に信が直観したこと――おそらくここで一番重要なのは仲間を持つことであろうこと――はどうやら当たっているようだった。
信は、もういなくなってしまった地球の裏側にいるかつての仲間と、まだ自分と同じ場所で日々生きている仲間の両方に思いを馳せた。そして、章介と一樹に出会えた自分の幸運をしみじみと実感したのだった。
その日の午後、信は座敷に行く途中、ふと尿意を催して手洗いに立ち寄った。敦也と遭遇したのはそのときだった。
鮮やかな紫陽花があしらわれた仕掛けを身に纏った相手が、洗面台の上に身をかがめてしきりに口をゆすいでいた。
信は仕掛けの裾を引きずらないように両手でつまみあげつつ相手に近づいた。磨き上げられたタイルは照明の光を反射して黒光りしていた。
「敦也、どうしたの?」
何となく何があったかはわかったが、信は一応そう聞いた。
すると敦也はそこで初めて自分以外の人間の存在に気付いたかのようにハッと顔を上げ、振り向いた。
「信さん……?」
そう言った唇から滴が垂れ、顎を伝い落ちてゆく。顔は青白く表情は暗かった。
信は懐からハンカチを出して手渡した。
「少し休んだ方がいい。遣り手には話をつけるから」
「………」
「医務室に行っておいで。顔色が随分悪い」
「でも客が……」
「だいじょうぶだから。ほら、行って」
戸惑ったように自分を見てくる相手をそう言って無理矢理医務室に向かわせると、用を足してから最上階のオフィスに急ぎ、扉をノックした。
誰何する声に名乗ると、帰れ、と言われたが、敦也のことです、と言うと遣り手は渋々信を中に入れた。
遣り手は四十代半ばの端正な顔立ちをした男で、その顔は爬虫類のように表情がない。そして金勘定しか頭になく、傾城に対しては冷酷だった。
信はこの支配人との折り合いが良くない。それは一樹を足抜けさせたことももちろんあるが、それ以前から労働環境の改善や賃上げをしつこく要求し続けているからだった。
だから信がオフィスに行ってもだいたいは無視される。
パソコンと向き合っていた遣り手は、銀縁眼鏡の奥の目を細めて信を睨んだ。
「で、敦也がどうした?」
「敦也が体調不良で医務室に行きました」
「行ったじゃなく、『行かせた』んだろう、お前が」
「敦也のお客さまはどちらに何人ですか?」
すると遣り手は渋面のまま台帳をめくりだした。
「ったく、また勝手に……。今の時間帯はふたりだな。引き受けるつもりか?」
「はい。ただ二十一時からは身体が空かないので別のひとを回して頂けると」
「その頃には瑠璃も復活してるんじゃないか?」
瑠璃というのは敦也の源氏名だ。遣り手は傾城を源氏名でしか呼ばない。
「してません。今日は無理です」
信はきっぱり言った。遣り手の眉間の皺がますます深くなる。
「それはお前が決めることではない。医師が決めることだ」
「……お願いします。今日だけ、休ませてやってください。将来の看板候補に早々にヘバられては困るでしょう?」
「……ったく、仕方ないな。今回だけだぞ?」
信は安堵の息をついて礼を言い、その場から立ち去ろうとした。そのとき、遣り手がうしろから声をかけてきた。
「あのとき取り決めたこと、覚えてるよな? もし瑠璃にとって代わられるようなことになったらお前は河岸に落とす。河岸というより『地下』にな。その方が高く売れる」
「……努力します」
信は静かに答えた。
「すぐに追いつかれるぞ。これまで以上に努力しろ」
「はい。では失礼します」
信は頭を下げ、オフィスの扉を閉めた。そして急ぎ足で座敷に向かいながら考える。
遣り手は、信の売り上げがトップである限り、白銀楼に置いてくれると言った。一樹の足抜けを手引きするという大罪を犯した信を最下層の店に売り払うのを待つと言った。
その契約ゆえに信はお職を取るべく日夜働きづめである。
今のところ何とか相手の要求水準の働きはできているが、追随する傾城たちに水をあけて取れたことはほとんどない。だから常にギリギリの状態で競わずを得ず、辛かった。だが、それでも踏ん張るしかない。
マニアックなプレイを提供する『地下』の店に落とされたら、生きて玉東から出られないだろうから。
考えごとをしているあいだに、信は敦也の本部屋についていた。
紋切り型の挨拶を口にし、膝をついて中に入る。名代の新造と談笑していた相手は驚いたように目を見張った。
「菊野か……?」
「はい。菊野でございます。申し訳ありませんが瑠璃が体調不良のため、代わって私がお相手させて頂きます」
「菊野が……? そんなことあるのか?」
新造を下がらせ、若干気おくれしたようすの男にすり寄って酌をする。
「他の子の方がよろしかったでしょうか?」
「いや、そうではないが……」
信は意図的に相手を上目遣いで見た。
「それなら、指名してくださればよかったのに」
「君はもう新規の客を取ってないだろう」
「ああ、そうでしたねすみません。まあ、表向きはそういうことにしてるんですがね、例外もありますよ」
「例外?」
「ええ。旦那さまみたいに男前のお客さまは例外ということで」
「……なるほど」
男の目を見て、信は相手を籠絡できると確信した。
そこで微笑を浮かべてかんざしを外し、髪を下ろすとその頬を手でそっと包みこんだ。相手が息を呑む音が聞こえる。
「私の方が瑠璃より愉しませて差し上げられると思いますよ?」
そう言って小首を傾げてみせると、ついに相手が手を伸ばして信の髪に触れた。そして身を乗り出し、首筋にむしゃぶりついてくる。
信は吐息をもらしつつ、相手に腕を回した。攻略成功、と心の中で呟きつつ、相手と縺れ合って床に倒れ込む。そして、こうやって敦也の他の客を盗って強制的に仕事量を減らすのはアリだな、と思ったのだった。
◇
その翌週、信と秋二と大輔と綾人は計画通り厨房に忍び込んで食材を漁っていた。
大型冷蔵庫の中には、消費期限が今日の牛肉が廃棄と書かれた袋に入って大量にあった。
通常、厨房を取り仕切る料理人たちはその日廃棄となった食材を捨ててから帰るが、親しくしている副板長がこっそり捨てずに冷蔵庫に置いていってくれたのだった。
その肉を持ち込んだホットプレートで焼きながら大輔が言う。
「そういや聞いたぞ信。お前敦也の客に手出したんだって? さすがにそれはねーんじゃねえの?」
「大輔は何でも知ってるなあ」
「何でも知ってるなあ、じゃねえよ。おれは付き合い長いからいーけどさー、最近マジで評判悪くなってんぞ?」
店の半分くらいの傾城は信のことを嫌っており、何かするたびに悪口陰口を言う。
今回もそれでプチ炎上していた。
「まー仕方ないよ、嫌われてるし。大輔とかが理解してくれればそれでいいから」
「これだからなあ……。綾人さん、何か言ってやってくださいよ」
右側にいた綾人は、食べる手を止めて大輔に同意した。
「そうだねえ、僕たちは事情を知っているからいいけど、何も知らない人たちには、強引に見えちゃうかもしれないねえ。一樹の時もそうだったじゃない? 本当は庇ってあげたのに、お客盗ったみたいに言われちゃって」
「別にいいです。全員に好かれようとか思ってませんから。それに、芽は早いうちに摘んでおかないと」
「変わったな……」
そう呟く大輔に、信は言い返した。
「ここに来て変わらずにいられる人間なんていないよ」
「でもちょっとかわいそうじゃないか? 敦也、だいぶ信に懐いてただろ?」
「それとこれとは話が別だよ。好いてくれた相手全員に気を遣っていたらお職なんて取れない」
「確かに。しーちゃん僕にも全然遠慮ないもんねえ」
綾人が笑って言った。ことばとは裏腹に、たいして気にしていないようだ。
「手加減したら逆に失礼じゃないですか、見くびってるみたいで。だからいつも全力で勝負させて頂いてます」
「信がそんなに好戦的だったとは思わなかった。……やっぱお前こえーよ」
卵を器の中でかき混ぜながら漏らした大輔に、信はニコっと笑って返した。
「光栄ですわ~」
「ハァ……とにかく今後は控えろよ。あと敦也にも私情は挟んでないってフォローしとくこと」
「はいはい、お母さん」
信が茶化すと大輔はムッとした顔をしたが、何も言い返さなかった。
四人はそれきりその話題には触れずに、次の休みに何をするかについて話し始めた。
信は、釣りの面白さを滾々と説く大輔に相槌を打ちつつ、敦也問題をどうにかしなきゃなあ、と色々考えを巡らせるのだった。