客の横取り事件があったあとも、敦也は信に対する態度を変えなかった。何か言うこともなく、婉曲表現を用いた嫌味を言うわけでも、避けるようになるわけでもなかった。
どころか逆に、客あしらいについてのアドバイスを以前よりも積極的に求めてくるようになったのだ。信は少し不思議に思いながらもそれに応じてやっていた。
その日も敦也は信のもとを訪れていた。彼は相談を終えたのち、おずおずと切り出した。
「あの……今度、信さんが休みのときにでもお昼、どこか食べに行きませんか?」
相手の言葉に、信は一瞬考えた。
「外界(そと)にってこと?」
「はい……旦那が、一緒に連れてってくれるって言うから。……流さんのことですけど」
敦也の馴染み客を思い浮かべ、信はわずかに眉をひそめた。
「そんな余裕あるの?」
傾城と共に玉東区外に外出する同伴には莫大な金がいる。
絵画教室の講師だという流にその余裕があるとは思えなかった。
「大丈夫です」
「あっくんが払うの? そういうことはあまりしない方が……」
「……流さんの親、金持ちなんで」
「気持ちはありがたいけれど、私はやめておくよ」
明らかに信のために自腹を切ろうとしている敦也に断りを入れた途端、相手の表情が険しくなった。
「本当ですよ」
「行きたいなら二人で行っておいで。好きならしょうがないけど、たまには向こうにも負担させた方がいいよ」
話を打ち切ろうとした信の腕を、身を乗り出した敦也がつかんだ。
「あっくん?」
「おれは、信さんと出かけたいんです」
そしてすがるような目で見つめられ、信は動けなくなった。
「ダメですか?」
「……」
信の腕をつかんだ手がするっと上に動いた。
絶句していると、敦也は彼を見上げて言った。
「おれの気持ち、わかりますよね?」
「だけど……流さんは……?」
「信さんがあいつの絵を気に入ったみたいだったから間夫にしただけですよ」
流の描く絵はとても美しかった。それに感銘を受けて何度か座敷にお邪魔したことがあったのだ。
敦也はそれを覚えていて間夫にしたという。信は少し混乱した。
「えっと……」
「章さんとお付き合いされているのは知ってます。だけど、おれにも可能性ないですか?」
敦也はまっすぐ信を見て身を寄せてきた。
これは困ったことになった、と思いながら、信は思案を巡らせた。多分、章介と交際していると言うのが一番簡単なやり方なんだろう。
だが敦也は聡い子だ。下手な嘘はすぐに見抜かれる。
信は本当のことを言うことにした。
「章介とはそういうんじゃないよ」
「?」
敦也は驚いたように目を見開いた。そして言った。
「……だったら、試しに付き合ってもらえませんか?」
「試しにとか……そういうものじゃないでしょ」
「信さんは男、ダメですか?」
信の性的指向を知っている口ぶりだった。
首を振ると、敦也は表情を明るくして、じゃあいいじゃないですか、と言った。
「そんなに深刻に考えずに、おれにチャンスをくれませんか? おれ、尽くしますよ。幸せにする自信があります」
「……ごめん、ちょっと忙しくてそれどころじゃないというか……」
「大丈夫です、店との契約はおれが引き継ぎます。今すぐにというのは無理だと思いますが遣り手と交渉してできるだけ早くそうします」
「まさかここのところがんばって働いていたのはそういう理由?」
信は信じられない思いで目の前の青年を見つめた。
寡黙で、穏やかで、しかし腹の据わった、武士みたいな後輩……。
「おれがお職取ったら、付き合ってもらえますか?」
「っ……そんなわけない!」
信は思わず声を上げてしまってから、ハッとして声量を落とした。
「何でですか? 楽になるのに」
「ありえないよ。だからもうやめて」
すると、敦也は反抗的な目で信を射った。
「やめません。信さん、最近忙しすぎますよ。人には体大事にしろって言っといて」
「そんなことないよ。ちゃんと休んでる。……私は、敦也が何をしようと付き合う気はないから」
「どうしてですか? 気に入らないところがあるなら直します。だから……」
「友達以上には見られないよ。ごめんね」
「可能性もないんですか」
「ない。タイプじゃないから」
相手を傷つける言葉は極力使いたくなかった。特にその相手が長年かわいがってきた子とあっては。
しかし、敦也に信の荷物を背負わせてはならない。そのためには絶対的な拒絶が必要だった。
予想通り、敦也はショックを受けたような顔で固まった。
「これは聞かなかったことにするよ。お茶淹れるね」
そう言ったとき、敦也は呪縛が解けたかのように飛び上がった。そして信に背を向け、部屋から出て行った。
信は安堵半分、罪悪感半分でため息をつき、湯を沸かし始めたのだった。
◇
ようやく敦也がやけに商売熱心な理由を突き止め、かつそれがほかならぬ自分に係ることであったと知った信は、少し酷いことを言ってしまったかと思いつつも概ね満足していた。
これでもう敦也ががんばる理由はなくなった。あとは徐々にフェードアウトし、出ていけるその日までのらくら過ごせばいいだけだ。
敦也とは没交渉になってしまったが、いずれ許してくれるだろう、と信は楽観的に考えていた。
そんなある日のことだった、敦也の客の座敷に呼ばれたのは。
嫌な予感がしたので正直行きたくなかったのだが、敦也の手前そういうわけにもいかずに、信は座敷に向かった。そして息を吐いて気持ちを落ち着けてから戸に手をかけ、開いた。
「失礼致します。菊野でございます。遅くなってしまい、申し訳ございません」
スケジュールがぎちぎちだったので、予定よりかなり遅れていた。しかし相手は気にしたようすもなく、入るよう促した。
客の右手、敦也とは反対側に腰を下ろすと、男が言った。
「君があの椿を引きずり下ろしたという菊野か」
「瑠璃がいつもお世話になっております。おやさしく、男前でいらっしゃると伺っております」
そう言うと、相手は頬を緩めて敦也を見た。
「そうか。そういえば君は菊野の禿だったものなあ」
「うん。すごく良い人なんだよ」
敦也の言葉が痛かった。相手を傷つけてしまったという事実に胸がじくじく痛む。
しかし、後悔はなかった。あの対応が最善だった。
「本当かあ? 実は腹の底では色々考えてるんじゃないか?」
冗談めかして言った客の言葉を、敦也は否定した。
「そんなことないよ。本当に……本当に誠実で優しい人なんだ。お職取ってるのが信じられないくらい」
「大絶賛だな。惚れてるな、これは」
敦也は否定しなかった。
「惚れないでいるほうが難しいよ。この人、タラシだから」
「ちょっと酷くない…?」
小声で抗議すると、相手は口だけで笑った。相当に傷ついているのだろうな、と思った。
「だってそうだろ。無限に優しいし、人を勘違いさせるような言葉を吐きまくるし。マジ、被害者いっぱいいるよ」
「……ごめん」
謝るしかなかった。
「まあ別にいいけど。……もう関係ねえし」
信は内心ため息を吐いて、居心地の悪さをごまかすために客のグラスに酒を注いだ。
そして考える――敦也との関係は決定的に壊れてしまった。そしてその原因を作ってしまったのは自分だ。
これまで何人もの人に指摘されている通り鈍感すぎる自分が相手を誤解させてしまったせいだ。
けれども好意を受け入れることはできなかった。
受け入れれば、敦也は信の契約を背負うだろう。
そんなことはさせたくなかった。
なんとなく沈んだ空気をうまく払拭してくれたのは客と芸者たちだった。彼ら主導でお座敷遊びが始まり、敦也と信は参加を強いられた。
そうして、何の意味もない遊びに興じているうちに、彼の気は楽になっていった。というよりも、意識的に問題を忘れようとしたと言ったほうが正しい。とにかくこのところ忙しくて面倒ごとはもうたくさんだったのだ。
しかし、忘れたからといって問題がなくなったわけではもちろんなかった。一通りお座敷遊びが終わり、芸者たちや控えていた禿達が客の指示で退出した後に、その問題は再び持ち上がった。
「暑くないですか?」
そのとき、ドクリ、と心臓が脈打った。同時に全身が火照り、敦也がとんでもなく魅力的に見えてくる。
媚薬を盛られたのだと瞬時にわかった。
「薬、盛ったの?」
「何のことですか?」
そう言って敦也が信の下肢に手を伸ばす。
それを押し退けようとしながら言う。
「敦也、やめて。無理だって言った」
「でも反応してる」
「媚薬のせいだろ。本当にやめろってば」
信はしつこく体を触り、のしかかってくる敦也を突き飛ばした。
「っ……!」
そうして立ち上がり、尻もちをついている敦也を見下ろす。
「君には失望した。こんなことするなんて」
すると敦也は立ち上がり、信を睨みつけた。
「アンタがそれ言うのか? 散々気ぃ持たせといて何だよっ」
「勝手に勘違いしたのは君の方だろ?」
「あんなん、誰でも……!」
恨めしそうにこちらを見る敦也に、信は冷たく言った。
「薬盛ってどうこうしようなんて、最低だな」
「だって……! チャンスもくれないから! 何で、何でダメなんだよ」
「好みじゃない」
「だったら優しくするなよ最初から! アンタこそ最低だ」
敦也は本当に苦しそうな顔をしていた。
それを見て胸が痛くなる。
だが、信はあくまで拒絶した。
「もし思わせぶりなことをしてしまったんなら謝る。だけど、君とどうにかなることはこの先一生ない。それは受け入れてくれ」
「っ……!」
その言葉が決定打になったようだった。
敦也はショックを受けたように固まった。
口が何か言いたげに動く。だが、言葉は出てこなかった。
目を見開いてこちらを凝視する敦也に背を向け、とどめを刺す。
「これからは座敷にも呼ばないで。あんなことした人と一緒にお酒なんて飲みたくない」
「待っ……」
「もう話しかけないで」
そうして出入り口の襖を開け、廊下に出て閉めた。
敦也は追って来ない。
信は深々と息を吐き出し、自分の客が待つ座敷へ向かって歩き出した。
これでよかったのだ、と思う。
相手に一パーセントの可能性も与えずに拒絶するのが優しさなのだ。
その気もないのに気を持たせるとどういうことになるか、かつての失敗で嫌というほど知っていた。
だから、敦也を徹底的に拒絶した。
こちらの方が、その時の傷は深くても治りは早い。
自分は正しいことをしたと思う。
今は辛くてもいずれ立ち直り、ふさわしい人を見つけるだろう。
そうしたら祝福して仲直りしよう。
そんなことを思いながら、信は次の座敷の戸を開けたのだった。
◇
だが予想に反し、敦也はそれから半年も経たずに店を出て行った。ついに和解はできずじまいだったのである。
引き取ったのは、中野という上客だった。
敦也からの説明はなく、落籍される傾城が必ず開く別れの宴にも呼ばれなかった。
敦也は信の部屋付き禿だったからこれは異例だった。
店を出ていくとき、だいたいの傾城は、世話になった担当傾城を一番に呼ぶからだ。
それだけ恨みが深いということだろう。
だが、それでよかったと思っていた。
相手がある程度の良客であれば、落籍されるのが一番楽だ。
十年という契約期間は長すぎるし、白銀楼の傾城は売れれば売れるほど部屋付きの見習いが増え、出費がかさむ仕組みだ。
長くいても良いことはさほどない。
なにより、敦也は望んで来たようには見えなかったから、早めに出て行けてよかったと思った。
落籍の日、信は別れの挨拶くらいはしたいと思い、敦也の部屋を訪れた。
開店十五分前、確実に部屋にいる時間帯に行くと、敦也はちょうど着付けを終えたところだった。
薄い水色の仕掛けに金の帯を締めている。鏡台の前で化粧をしていた敦也は、振り返って信を見た。冷たく、刺すような視線だった。
「敦也、ちょっとだけ時間いい?」
「……もういいから下がって」
敦也はそう言って準備を手伝っていた禿を部屋から退出させ、椅子に座ったまま信と対峙した。
「何?」
「うん。ええと、お別れが言いたくて」
「……」
「相手、中野さんなんだってね。うちでも信用がある人だし、よかったよ」
すると、敦也は口を歪めて笑った。
「よかった? そりゃよかっただろうな、信さんにとっては。厄介払いができて」
「そんなふうには思ってないよ……」
「こんな時まで嘘つくのか。ほんと嘘つきだな」
「……私が追い出したわけじゃない」
憎々しげに自分を睨みつける敦也に、胸がぎりぎりと締め付けられる。
あの言葉は真意ではなかったと、遣り手との契約を引き継ぐとさえ言わなければ想いを受け止めたと弁明したい。だが無理だった。
「それ同然のことをしただろ。もういいっすか?」
「……体には気を付けて」
敦也はそれに答えなかった。
信は後ろ髪を引かれる気持ちで敦也に背を向け、扉を開けた。
その瞬間に敦也が振り絞るように言う。
「そうやって信さんは、一生人を傷つけて生きていくんだ」
それには答えず、部屋を出て戸を閉めた。
敦也の声は震えて、嗚咽を堪えているようだった。
だが、返事はしない。敦也はここから出ていくべきだと思ったから。
一片の未練も残さず出ていく方がいい。自分のそばにはいない方がいい。
信は深々と息を吐き出し、廊下を歩き出す。
敦也は追ってこなかった。
そうして、敦也は白銀楼を出ていったのだった。