それから半年ほどは、特に大きな問題もなく過ごした。
常に売り上げに追われる日々ではあったが、一樹の健康問題や、章介との関係に頭悩まされる日々に比べたら心穏やかに過ごせた、という意味である。
その間、傾城の待遇改善を求めて集団ストライキを主導しようと思った時期もあったが、章介にバレて強く止められ、結局未遂に終わった。
やっていたら運命が変わっていたのだろうか。そうも思うが、結局章介が正しかったのだろう。失敗したときの代償は大きかっただろうから。
そうしてストを諦めた信は、部屋付きの禿を育てることに集中した。
白銀楼では、傾城が禿、つまり見習いを世話するシステムがある。
これを部屋付き制度といい、新入りは必ず誰かの部屋付きとなり、面倒をみてもらう代わりにその傾城の身の回りの世話や雑用をすることになっている。
そして、だんだんと店の慣習や立ち居振る舞い、仕事の仕方などを学んでゆくのだ。
やがて、傾城が準備が整ったと判断したら、大々的にお披露目の儀式をしてやったのち、一本立ちをさせる。
その際の衣装代や、諸経費は全て担当傾城持ちだった。
このように、部屋付き制度は、文字通り傾城が禿を育てるようになっている。
だから、出費は痛いわけだが、信は割とこの制度を気に入っていた。
弟ができたような感覚を味わえるからだ。
一人っ子でずっと兄妹が欲しかった信にとって、禿を育てるのは楽しかった。
自分好みに育てられるのも良い。
そういうわけで、この期間、信はせっせと禿の世話を焼いていた。
禿の中でも特に目を惹いたのが、アンダーソン秋二という混血児だった。
秋二・ジョン・アンダーソンは、一年ほど前、ちょうど一樹が足抜けした頃に入ってきた禿だ。
彼は最初津田についていたが、紆余曲折を経て今は信の部屋付きになっていた。
歳は十五で、まだあどけなく、少女と間違えてしまいそうな可愛い子だった。
薔薇色の頬に抜けるように白い肌、そして、大きなオリーブ色の目のその美少年に、信は次第に惹かれるようになった。
初めは、しょっちゅう盗み食いをして怒られているところとか、快活な性格が一樹に似てるなあ、と思った程度だった。
だが、秋二は一樹よりも遥かに意志が強く、言いたいことを言う性格だった。
儚い容姿とその男らしい性格のギャップに惹かれたのかもしれない。
気付けば目で追うようになっていた。
秋二は、恐れを知らない子だった。
十四で家出をして以来、年齢を偽って職を転々としていたらしいが、なかなか住むところが見つけられずに苦労したという。
確かに、見るからに子供の秋二に部屋を貸す大家もいるまい。
それで、職場の同僚に相談したところ、玉東なら住み込みで働ける店がある、と教えられ、白銀楼に来た。
だから秋二は、数少ない、借金を負わずに店に来た人の一人だった。
何軒かある引き手茶屋、つまり花魁斡旋所に行って相談したところ、ここを紹介されたという。
それで店に入ったわけだが、秋二が言うには、白銀楼をコンカフェ程度に思って契約したのに、契約内容にはわかりにくく性的サービスを含む、とあり、騙されたとのことだった。
秋二は、ここが風俗店だと知らなかったのだ。
そのため、入って早々に実態を知った秋二は辞めようとしたが、契約違反となると莫大な違約金が課されると知らされた。
白銀楼は、そういうふうにして従業員を縛るのだ。
法のグレーゾーンをうまく使い、騙し討ちのような契約をし、働かせる。
実際に信も、契約書を盾に脅されたクチだった。
当然、これに秋二が納得するはずもない。
秋二は、見習いに履修が義務付けられている授業の全サボりや、座敷で客を呼び捨てにする等々、問題行動を連発した。
そして、それに手を焼いた津田という傾城に放り出されたところを、信が拾ったという形だった。
秋二は、信の部屋付きになってからも何度も脱走を試みては失敗した。
通常、契約満了前に店から脱走するのは重罪であり、河岸行きである。
河岸というのは完全非合法の店が多くある地区の総称で、そこに落ちて出てきた者はいないと噂の恐ろしい場所だ。
店に連れてこられた当初の信は、河岸へ移籍という脅迫がはったりではないことがわかって以降、脱走しようとは思わなくなった。
だが秋二は違った。彼は、河岸がどんなに恐ろしいところかを説かれてもなお、脱走未遂を起こしていたのである。
このことにより、秋二は店一番の問題児として遣り手に認識された。
そして、早々に河岸に落とされそうになったが、信のとりなしにより事なきを得ていた。
それを何度か繰り返した後、ついに堪忍袋の緒が切れた店の遣り手、小竹は、信が何と言おうと秋二を河岸に払い下げる、と宣言した。
これは大事だった。
そんなところに放り込まれたら最後、秋二は二度と日の目を見られないだろう。
そんなことになったら大変と、信は秋二に河岸の恐ろしさを懇々と説き、遣り手に謝罪に行こう、と言った。
幸い、秋二は納得してくれて、信と共に謝罪に行ってくれた。
遣り手は、無表情で謝罪を聞いたのち、次はない、とだけ言った。
冷徹に、淡々と言った遣り手の言葉がただの脅しではないことを察した秋二は、以後脱走しようとしなくなった。
それでひとまず、その問題は片付いたわけだった。
その後、秋二はおとなしくなったが、たびたび脱走を試みた前科のせいで、遣り手からの覚えはめでたくなく、さっさと水揚げするという話になっていた。
座敷に出さずに客の相手だけさせようという魂胆だったのである。
この時、秋二はまだ座敷に上がれる状態ではなかったし、今後もそうなる見込み薄ということで、そういう判断になったのだろう。
これに、当然信は反対した。
白銀楼はもとより、男を買うだけの売春宿ではない。
かつての吉原のように、傾城達と高度な恋愛ごっこができる、ハイクラブである。
そのために、キャストは教養、立ち居振る舞い、高度な会話術を身に着けてから一本立ちし、傾城になる。
これがこの店の売りであるはずなのに、ただ客を取らせるようなことをしたら、店の格が落ちる。
そう言って遣り手を説得しようとした。
しかしながら、利潤追求を人生の命題にしている遣り手は、そんな言葉では説得されなかった。
どころか、使い物にならないなら河岸に払い下げた方がいいな、とさえ言ったのだ。
信はこれに大いに焦った。
脱走騒動の時になんとか事を収めたはずなのに、遣り手はまたしても秋二を売ろうとしている。
これを防ぐために信がひねり出した案は、自分の馴染み客の何人かと引き合わせて気に入らせる、という手だった。
秋二には後ろ盾が必要だ。
遣り手が手放したくないと思うように、太客をつけさせなければならない。
まだ水揚げ前だったが、信は秋二を自分の座敷に呼んで、色々な客と引き合わせた。
大半が、座敷で行儀よくできない秋二に興味を持たなかった中で、唯一興味を示した客が、笠原玲だった。
笠原は、たまに訪れる店の共同オーナーの一人である。
一年ほど前から一応は信の馴染みということになっていたが、たまにしか来ない客だった。
四十半ばの、気のいい男で、相手をしていて不快に感じたことはない。
本部屋に上がったこともなく、いつも座敷で酒の相手をするだけだった。
彼は、客としてというより、オーナーとして店の経営状況を確認しに来ているだけのようだった。
だから、当初秋二と引き合わせる予定はなかった。
だが、偶然にもあるとき秋二が笠原の座敷に入ることになった。信が席を外しているときだったから、どんなやりとりがあったのかはわからない。
だが、二人は意気投合したようだった。以来、笠原が頻回に登楼するようになったのである。
二人は良い友人になり、信そっちのけで話し込むことも多くなった。
その様子を見て、信は笠原に秋二の水揚げを頼んだ。
そして、水揚げののちは、敵娼(あいかた)を自分から秋二に替えて欲しいとお願いした。
敵娼というのは、馴染み客の担当傾城のことで、店に通う客の多くはこの敵娼がいる。
これは、店で客とキャストが疑似的な夫婦関係となって遊ぶためのもので、吉原から引き継いだしきたりだった。
しかし、当時のように別の傾城と浮気をしたからといって出禁になることはない。
銭ゲバの遣り手が、そんな売り上げが落ちるような伝統を守るつもりがなかったからだ。
だから、費用はかかるが、客は何度でも敵娼を替えられるシステムだった。
信はそれを利用して、笠原に敵娼を自分から秋二に替えるようお願いした。
この、店の出資者という強力な後ろ盾があれば、いかな遣り手でも秋二を追い出せないと思ったからだ。
結果的に、その読みは当たった。
遣り手は、笠原に目をかけられているのであれば、と、秋二の払い下げを一旦保留にした。
しかし、何かの拍子で笠原が興味を失えば、すぐにでもその危機は迫ってくる。
だから、いつそうなるかとヒヤヒヤし通しだったが、秋二の水揚げが迫ると、笠原は水揚げ権を買ってくれた。
この時、どれだけ安堵したかしれない。
秋二はその意志の強さ故に、店にいい意味で順応しようとしなかったし、ずっと自分の処遇に不満を持っていたからだ。
だから、いつ何をしでかしてもおかしくない状態だった。
信は、いつ爆発するともしれない時限爆弾を抱えた気持ちで、ひたすら笠原が秋二を水揚げしてくれる日を待っていたのだった。
そしてようやく、その時が訪れようとしていた。
信は、寂しさと不安と安堵感がないまぜになったような、複雑な思いを抱きながら、お披露目と一本立ちの準備をしていた。
秋二と二人で出かけることになったのは、そんな折だった。