秋二の水揚げを一週間後に控えたその日、信は休みを利用して一緒に出かけることにしていた。
少しでも気晴らしになればいいと思ったのだ。
相手がどんなに良客でも、秋二のような子にとっては水揚げは酷に違いなかった。
詳しい身の上を聞いたことはないが、秋二はまっすぐに育ってきた子だ。
それは、側から見ていてわかる。
なぜかといえば、秋二は感覚が真っ当だったし、店の多くの子が持っている人生への諦念みたいなものが無かったからだ。
彼には、恵まれた人生を送った者特有の、人と人生への信頼感があった。
それは、崩壊した家庭で育った信のような人間にはないものだ。
それは、まっすぐに考えれば幸せなことだが、玉東のような場所では諸刃の刃になる。
かつての幸福との落差が大きすぎて順応できないことがあるのだ。
信や章介のように、元から人生への期待値が低い場合は問題ない。
だが、まっとうな幼少期を過ごした一樹がここに来て深刻に心を病んだように、生育環境に恵まれた秋二も、適応できない可能性がある。
そういう意味で、特に秋二の水揚げは心配だった。
だから信は、最大限のフォローをするため、秋二を気晴らしに連れていくことにしたのだった。
その日、昼頃に起き出した信は、遅い朝食を食べに食堂に向かった。
当の本人と鉢合わせたのは、向かう途中の階段の踊り場だった。
「おはよ」
同じく食堂に向かうらしい秋二は、前よりすこし大人びた顔に笑みを浮かべて寄ってきた。
「おはよう。昨日は眠れた?」
「うん。信さんは?」
「よく寝たよ」
何でもない話をしながら階段を降り、廊下を直進して浴場を通り過ぎる。
その先が食堂だった。
中に入ると、既にプレートを手にしていた伊織と夏樹と敦也がやってきた。
全員が信の元部屋付き禿で、伊織と夏樹はまだ新造だ。
かつてはこの三人に敦也を加えた四人でよく一緒にいるところを見たものだが、今は三人だ。
「おはようございます」
「おはよう」
「秋二もおはよ。早く行かないとさつまいものやつなくなるぜ」
「ゲッ、今行く」
さつまいものやつ、とはさつまいもとレーズンのサラダのことだろう。
白銀楼の食堂では配膳係が適当なので、こういう数が決まっていないおかずが早めに売り切れることがよくある。
まだ客にご飯をねだれない秋二のような見習いの子にとっては死活問題だった。
遣り手がケチなせいで、店では生きていけるギリギリの量の食事しか出ない。
「これあげるよ」
「あ、ありがと」
朝食を受け取ったのち、信は自分のさつまいもサラダを秋二のお盆に載せてやった。
そして友人たちの席に着く秋二を横目に移動し、空いている窓際の席に腰掛けた。
すると、食べ始めてすぐにその向かいに友人の章介が座った。
「おはよう」
「おはよ」
すっきりした短髪に、はっきりした目元が印象的な男前だ。
肩幅もがっちりしていて、信より一回り大きい。
いつ見てもいい男だなあ、と思いながら会話を続けた。
「だいぶ涼しくなったな」
「うん。久しぶりにぐっすり眠れたよ」
「今日は休みだろ? 夜、久しぶりに一局、どうだ」
「ちょうどそんな気分だったよ。あまり遅くまでは起きていられないかもしれないけど……」
「十一時には上がる」
そう言った友人に、信は微笑んで頷いた。
「じゃあお邪魔させてもらうね。今日の予定は?」
「特にない」
「そう。実は今日、秋二を連れて出かけようかと思っていて」
「ああ、あの子か……」
そう言って章介は、仲間たちと楽しそうに話す秋二を見た。
「来週だな」
主語は聞かなくてもわかった。秋二の水揚げだ。
見習いは水揚げを経て一本立ちし、正式に客を取るようになる。
しかし、人身売買の温床のようなこの場所で自らそれを望む者は半数に満たなかった。
信も章介も、そして秋二も、それを望んでいなかった。
「様子はどうだ」
「やっぱり少し元気がないかな」
「まあ、大丈夫だろう」
「そうかな?」
「笠原さんなら悪いようにはしないだろ」
「そうだね。でも、あの子多分ノンケだろうし、大丈夫かな?」
信の言葉に、章介が頭に疑問符を浮かべた。
「それは皆そうだろ?」
「……そうじゃない人もいるよ」
「どういう意味だ?」
「……黙ってて申し訳なかったけど、実は私……」
「……男が好きなのか?」
章介は驚愕したように目を見開いた。
信は、拒絶を恐れながら口を開いた。
「前に高校時代に同級生と付き合ってたって言っただろ。忘れた? うちの高校、男子校だよ……」
これを伝えた時に、カミングアウトは済んでいるものと思っていた。
だが反応を見るに、気づいてなかったらしい。
章介は絶句していた。
「そっか、やっぱり伝わってなかったんだね、ごめん。あ、でも、章介のことそういう風に見たりとかは、全然ないから」
「……どこがいいんだ?」
「わかんない。気付いたらそうなってただけ」
「……」
黙り込んでしまった章介に、どうすれば良いかわからなくなる。
気持ち悪いと思われたのだろうか?
裏切りだと思われた?
章介はこの仕事を嫌っている。
だから、嫌われてもおかしくはない。
けれど、いつまでも隠すわけにもいかなかったし、これで章介の本質が見える、とも思ったから思い切って言った。
「章介が女性が好きなように、男の人が好きなんだ。それに、誰でも良いってわけじゃないし、見境なく襲ったりもしないよ」
「そうか、それであの時……」
「あの時っていつ?」
「いや、何でもない。お前の言い分は分かった。今更それで何がが変わるわけでもない。だが、おれには理解できないから、もうこの話はしたくない。それでいいか?」
信は息を吸い込み、頷いた。
それが、章介の最大限の譲歩なのだろう。
「わかった。聞いてくれてありがとう」
とにかく、拒絶されなかったことを喜ぶべきだ。
信はほっとしながら、別の話題を振った。
章介はそれに応じ、何事もなかったかのように食事を再開したのだった。
◇
信は章介との朝食を済ませると、途中で別れて秋二の部屋を訪ねた。
「秋二、ちょっといいかな」
一本立ちに先立って相手に与えられた部屋の扉をノックすると、中からガタガタと音がして相手が出てきた。
部屋着姿で、背後には車座になってモノポリーをする秋二の友人たちの姿があった。
「信さん、どうしたの? あっ、もしかして……」
顔を輝かせていた相手の表情が何かに思い当たったらしくすぐに暗くなる。
「授業だよね……。これ終わってからでいい?」
秋二が言及しているのは、「客のあしらい方」――もっと厳密に言えば「寝所でのふるまい方」について学ぶ授業だった。
これまで秋二がことごとくサボってきた種類の授業だ。
そのため、本番直前のこの時期に世話係である信が個人的に教えるハメになっていた。
不快な気分にさせないよう相手との接触は最低限に留めていたが、「授業」の性質上ゼロというわけにはいかずに、自分に気のない初恋の相手とは絶対にやりたくないことを色々やった。
しかし、奇跡的にまだ嫌われていなかった。
そしてその状態を維持するためには何でもやろうと思っていたので、信は秋二に甘くなりがちだった。
彼は表情が曇った相手を安心させるように微笑んでみせ、首を振った。
「いや、今日は休みにしようかと思って。映画でもと思ったんだけど」
信は顔を輝かせた秋二にパンフレットを差し出した。
そこには玉東区内の映画館で上映中の作品案内が載っている。
映画館は、カジノや劇場などの遊興施設が集まる建物、通称『パラダイス』の三階に入っていた。
「観たいのある?」
「うーん、オレはこれだけど信さんは?」
秋二が指さしたのはハリウッド系のSF映画だった。
「うん、いいよ。時間は……四時からだから、十五分前くらいに出ようか」
「うん。あの、チケットは?」
「あるよ」
「信さんってマジ何でも持ってるよなー」
二枚の招待券を見せると、秋二が感嘆したように言った。
本来傾城が利用できない施設に入るためには特別なチケットがいる。
それが招待券と呼ばれるものであり、客が購入して気に入った傾城に贈れるようになっていた。
チケットで『パラダイス』を利用できる時間は三時間から一日で、施設で使える通貨のクリスタルも付いている。
これらはチケットのグレードにより決まる仕組みで、今回持ってきたのは八時間券だった。
信は、よくこのチケットを使って禿や新造を遊びに連れていっていた。
「じゃ、またあとで」
「うん!」
秋二はとびきりの笑顔を浮かべたまま後ろをふり返って、部屋の中を走り回った。
「やったー、信さんと映画だ」
「いいなー、僕も行きたい」
「おれも!」
次々ねだる後輩たちに、信は苦笑して、また今度ね、と言った。
そして部屋をあとにすると、自室へ戻った。
それから本を読んで、その後少し掃除をし、訪ねてきた同僚、綾人とお茶を飲んで世間話をした。
その後まもなく約束の時間となったので、秋二の部屋に迎えに行った。
ノックに反応して、部屋から出てきた秋二は縞模様の小紋姿だった。
店から支給されるのが女物の着物ばかりなのに不満を漏らしていた秋二に信が昔買ってやった男物の着物だ。
彼はくるっと一回転してみせると、どう?と聞いた。
信は口角を引き上げて頷いた。
「似合ってるよ」
「信さんもね。さ、行こー」
喜び勇んで突進する相手に引きずられるようにして、信は白銀楼を出て映画館に向かった。
適温の風が秋の香りを運んでくる。
秋二は落ち着きなく辺りを見回しながら早口に新しく出来た茶店のことについて話していた。
信は相槌を打ちつつ、のんびり映画館に向かった。
◇
玉東南西部の一角を占める遊興施設『パラダイス』。
巨大な五階建ての和風建築の建物内には映画館の他、カジノ、オークション、宝石店、ブランドショップ、画廊、レストラン、バー、プール、劇場、ビリヤード場、ボーリング場などが入っている。
高級ホテルをよりきらびやかにしたような華やかな内装で、あちこちにシャンデリアが下がっている。
信は入り口で二人分の招待券を出すと、係員は印字されたQRコードを機械で読み取り、棚から電子リストバンドを取り出してそちらも機械にかざした。
これにより、リストバンドの方に顧客情報が入り、施設内で使えるようになる。
受け取って手首に着けると、腕時計のように丸くなっている部分に一瞬、施設内通貨のクリスタル残高と滞在時間カウントが表示されてから消えた。
入り口ホールは人で賑わっていて、ちらほら知り合いの姿も目にしたが、目立たないよう地味な草色の着物に帽子で来たので、信に気付く者はいない。
目立つ背中までの髪さえ隠せば、そうそう気づかれないことがわかっていた。
「わー、すげー!」
秋二が周りを見回しながら感嘆する。
何度か連れてきたことがあるが、毎回この反応だ。
こういう素直なところが可愛かった。
「今日はちょっとゆっくりできるから、映画観終わったら好きなとこ行こう」
「マジ? じゃあカジノ行きたい」
「未成年だろ」
「みんな行ってるよ、良平とか詩音とか」
「みんな行ってても行かない」
「ちぇっ、ケチー」
秋二は信と腕を組んでエレベーターを上りながら口を尖らせた。
出かけると、秋二はよくこうしてくっついてくる。
自分に気があるのかと期待した時期もあったが、単にそういう性格なだけのようだった。
「何で信さんは連れてってくれないんだよー。他の部屋の子はみんな行ってるのに」
「ボーリング行こうよ。この前楽しかったじゃない」
「まあいいけど」
そうこうしているうちに二人は映画館がある三階に到着した。
エスカレーターを降り、左右に店が並ぶ通路を進んで突き当たりの映画館に入る。
後ろの方の席が空いていたので受付でそこをとって場内に入った。
まだ明るい場内では、着飾った傾城たちがあちこちで身体を弄ばれていたが、もはや気にならなくなるくらいそういった光景には慣れていた。
秋二と他愛ない話をしながら開演を待っていると、鈴のような声がした。
「お、信だ」
振り向くと、通路に知り合いが立っていた。
ごくシンプルな灰色の着物を着た若い女性はニカッと笑って片手をあげた。
「久しぶり~」
「世羅、久しぶり」
「最近会わないからちょっと身を案じてたんだけど、無事だったか」
木村世羅はそう言った。
彼女もまた玉東の店で働く傾城で、昔からの知り合いだった。
玉東区内の通称「図書館」――寺を改装した簡易的な図書室――でよく顔を合わせる仲だ。
この図書館は、元々玉東内にあった寺の持ち主が好意で作ってくれたもので、傾城や見習いだけが利用できるようになっていた。
お堂を利用して作られた図書室には本棚が並び、椅子とテーブルもあって読書ができるようになっている。
信は見習いの頃からここに通い詰めていたが、そこでよく顔を合わせていたのが世羅だった。
比較的規則が厳しくない店の子で、一見すると青年に見えるため、話していてうるさく言われない。
「ああ、ごめん。ちょっと最近忙しくて」
「無理しないようにね。あっ、秋二くんも久しぶり」
すると秋二は軽く頭を下げて、どうも、と返した。
この二人は、秋二が信について「図書館」に来たときに顔を合わせていた。
普段の彼らしからぬ愛想のなさに首を傾げていると、世羅が続けた。
「やー、聞いて聞いて。先週『グレートネイチャー』が大量輸入されたんすよー」
「本当?」
ずっと読みたかった雑誌の情報に思わず身を乗り出すと、世羅は一列前の席に座りつつ言った。
「安心してよ、バッチリ三冊キープしといたわ。どれもこれも読みたかったけど厳選してまずは三冊っ。古代文明特集と深海の生き物たちと幻の巨大哺乳類特集計三冊。いいチョイスっしょ?」
「めっちゃいい!」
「いやー、なーんか今日会う予感してたんだよねー。ナイスタイミング自分。ってことで、はい」
世羅はショルダーバッグから勢いよく三冊の雑誌を取り出し、信に手渡した。
「い、いいの?」
「もちろん。もう全部三回ほど読み通したから。これで日頃の疲れでも癒してくださいよー」
「恩に着るよ。あ、この後暇だったらご飯でも食べる? 奢るよ」
「や、今日はこれ観に来ただけなんだよねー。今度時間合ったら中華でも食べにいこ。松鐘楼の新メニュー、美味いらしいよ」
「わかった。これの返却期限いつ?」
「再来週まで延長しといた。あんまり忙しいなら期限までにそっちに取りにいってあげようか?」
世羅の申し出に、信は首を振った。
「だいじょうぶ。返しに行くぐらいはできるよ」
「そっかぁ、了解。秋二くんも読んでいいからね。それ超オススメ!」
黙っていた秋二に気を配ったらしい世羅が話を振ったが、彼はそっけなく言った。
「ああ、どうも……」
「うん、特にカリコテリウムがもう最高で――っと、すみません」
そのとき、他の客がやってきたので世羅は道を空けるために座席に腰を下ろした。
しかしやってきた客はなぜか途中で立ち止まった。
「信さんじゃない」
堂々たる足取りでやってきて世羅を信の視界から完全に消し去ったのは、白銀楼のはす向かいの店、紅(こうか)霞楼の看板傾城、なずなだった。
◇
紅霞楼は、通称大見世(おおみせ)通りと呼ばれるハイクラブが集まる紅霞通りにある店だ。
白銀楼と同じく五階建ての楼閣で、勤務する傾城は女性のみ。
斜向かいにある白銀楼と同じく玉東創成期からある老舗の高級クラブだ。
なずなはここで五指に入る売れっ子だった。
可憐な外見とは裏腹に姉御肌で、客を取り合いながらも可愛がってもらっていた。
お互いに立場上、会って話す機会はめったにないが、手紙のやり取りはこっそりやっていた。
月一回行われるイベントの花魁道中は、だいたい彼女と一緒に歩く。
毎回趣向を凝らしたなずなの衣装は、見ていて楽しかった。
黒縁眼鏡に、男物の和服、帽子という変装をしたなずなは、世羅の二つ隣に腰を下ろし、振り返った。
そして低い声で聞いた。
「誰かわかる?」
「なずなさん、お久しぶりです」
「何でわかったの」
「声でわかりますよ」
「ああ、声か。ならいいわ。お久しぶり」
「姐さんこそよくわかりましたね」
「遠目じゃわかんなかったけど、近づいたらわかったわ。世羅ちゃんは、この前会ったばかりね」
「お疲れ様ですー」
「それからその子は……」
隣に座る秋二に目を向けたなずなに信が紹介しようと口を開く前に、本人が言った。
「秋二。なずなさんってあのなずなさん?」
「『あの』?」
怪訝な表情をしたなずなに説明する。
「うちでは有名なんですよ、お綺麗だって。道中が始まると皆見に行ってますよ」
「あらそう」
「近くで見ても綺麗っすね」
「まあ、あなたに言われてもね……。信さんて美少年趣味だったのね」
「ちょっと、違いますよ! そういうんじゃない」
「随分可愛がってるみたいじゃない」
後ろ暗いことがあるのでつい強く否定してしまう。秋二に魅力を感じたことがあるのは事実だった。
なずなは薄く笑って秋二に言った。
「気をつけなさいよ。この人、王子っぽいの外見だけだから。中身は獣よ」
「え、そうなの?」
「ちょっと、変なこと吹き込まないで下さいよ」
「事実でしょ」
その時、二人の屈強な男が四人に近付いてきた。
見たことのある顔だと思ったら、なずなの店の若衆(わかしゅ)だった。
二人は世羅の前を通り、うち片方がなずなの腕を掴んだ。
「何してる」
「痛っ……何よ」
「勝手にうろつくなと言ったはずだ。こんな所で油売りやがって……。誰だ、こいつらは」
男は鋭い目で信達を見た。そして、驚いたように目を開く。
「あんた、菊野さんか」
「ええ、まあ……。すみません、私の方からお声がけしてしまって。昔私の馴染みだった方がそちらに登楼(あが)ったと耳にしたものですから、どうなったかなあと」
信のとっさの言い訳になずなの店の若衆は数秒考えるような仕草をした後、なずなを立たせた。
「今後、そういったことは控えて頂きたい。我々がお答えしますので」
「すみません。以後気を付けます」
若衆は頷き、なずなを連れて離れた席に行ってしまった。
一応セーフだったらしい。
本来、男しかいない白銀楼の傾城は周りの店の女性キャストと話すことを禁じられており、決まりを破れば双方折檻部屋行きだ。
しかし、即座に報告に行かないところを見るにぎりぎり大丈夫だったようだった。
三人を見送った世羅は額の汗を拭く仕草をした。
「フー、何あれ、怖かった」
「なんとかなったかな」
「ギリじゃない? うまく言ってくれてよかったよ。でもなずなさんかわいそう」
「あそこは厳しいよなあ」
「いやそっちもでしょ。今日も黙って来てるでしょ?」
「まあね」
実は白銀楼も傾城だけでパラダイスに行くのは禁止だったが、信はたびたび破っていた。
それでたまに折檻されることもあるが、看板の信を一日たりとも休ませたくない守銭奴の遣り手が軽く済ませるよう言っているらしく、たいして痛めつけられることもない。
だから結構堂々と規則破りをしていた。
若衆を連れてくると目立つし、他の店の知り合いと話せないし、落ち着かないしであまりいいことがない。
信は連れ去られてしまったなずなを気の毒に思いながら、上演時間まで世間話をして過ごした。
五分かそこらで場内が暗くなり、映画が始まる。
仰々しい導入音楽と共に始まったのは、SFもののハリウッド映画だった。
秋二が観たがっていたものだ。
横目で反応を見ると、もぐもぐポップコーンをほおばっていた相手と目が合った。
「いる?」
小声で言って、ポップコーンを差し出してきた秋二に頷き、その手から取って食べる。
すると相手はもう一つポップコーンを取って、今度は信の口元までもってきた。
躊躇いながらも食べると、秋二は満足げに笑った。
そして、その笑顔のまま次のポップコーンを差し出す。
こういう思わせぶりは秋二の十八番だった。
悪気がないのがわかっているので強く言えないが、正直やめてほしかった。
信はその手を押しのけ言った。
「自分で食べられる」
「はい、あーん」
「……」
「あーん」
「嫌だって、気持ち悪い」
その瞬間、秋二の雰囲気が変わった。
秋二は気まずそうな表情で手を引っ込めた。
「ごめん、やりすぎた……」
「いや、こちらこそごめん」
やってしまった。今日は秋二を元気づけるのが第一の目的なのに、その真逆をやってしまった。
どうしようか考えたのち、信は秋二の膝の上にあるポップコーンの容器からひとかけらつまんで、その口元にもっていった。
そして、驚いたような顔をしている秋二に言う。
「ちょっと恥ずかしくなっただけ。ごめんね」
すると、秋二はパッと笑顔になってポップコーンを食べた。
「ありがとー。うまい」
値千金の笑顔に、自然口元が綻ぶ。
信は頷き、正面に目を戻した。
そして、自分のとっさの機転に感謝しながら、映画鑑賞を再開したのだった。