5-7

 傾城(けいせい)たちは通常二年の修養期間を経てデビュー、すなわち一本立ちをし、客を取るようになる。
 白銀楼ではこれを、吉原での慣例にならって「水揚げ」という。
 修養期間があるのは、白銀楼では高度な接客サービスが要求されるからだ。
 白銀楼は敷居が高い。
 トップの傾城を揚げるには一晩百万かかるといわれる。
 また、低位で張見世に出ている傾城でも、料金――揚げ代や花代とも呼ばれる――は相場よりかなり高く、店側はその値段によって客をふるいにかけている。
 プライバシー管理も警備も厳重で、顧客の情報が外に漏れることはない。
 そのため、大見世と呼ばれる付近の高級クラブ同様、政府関係者や財界の大物、国 内外の富豪、芸能人などの利用が多かった。
 重要な商談や会合に向いている場所なのである。

 だから即物的な性的サービスと同じくらい、座敷での接客も徹底されており、傾城は修養期間中に、教養、芸事、立ち居振る舞いを仕込まれる。
 この修養期間中、青年たちは禿、又は新造と呼ばれ、傾城の身の回りの世話をしたり、雑用をしたりしながら接客技術を学んでゆく。
 そして、準備が整ったとみなされると水揚げの日取りが発表され、水揚げ権が競りにかけられる。
 傾城の「初めて」を買う水揚げ権に最も高値をつけた客がその権利を手にし、大々的なお披露目の儀式のあと、一夜を共にするのである。
 客はその後自動的に傾城の馴染みとなり、専用箸をもらえて、予約を優先的に入れられるようになる。
 こういう仕組みだった。
 望まずに店に来た者の中には、この水揚げを機に心を病む者もいる。
 だから信は、部屋付き禿が水揚げをされるときには細心の注意を払っているのだった。

 秋二もそのうちの一人だった。
 彼は、自分の意志で店に来たが、契約内容もよく知らぬまま契約書にサインしてしまい、働き始めた口だった。勤務内容に性的サービスが含まれているとは知らずにサインしたのだ。
 だから、当初から遣り手に反発して何度も脱走未遂を起こしていた。
 その秋二にとって水揚げはつらいに違いない。自分もそうだった。
 キス程度しかしたことがなかったのに、強制的に望まぬ相手とセックスさせられたショックで体調を崩し、しばらく寝込んだのを今でも覚えている。
 初めても、その次も、その次も、当然好きな人と好きなときに自分の意志でするものだと思っていた。
 だが違った。現実には、初体験の相手は自分を買った相手だった。
 あまりの嫌悪感に吐きそうになって、早く終われと祈っていたが、何度も何度もやりたくないことを強制された。
 あの夜は、人生で一番長い夜だったような気がする。
 もう立ち直れないかと思ったが、友人や医師の助けもあって何とか持ち直した。
 それでも、あの日のことは一生忘れないだろう。
 信にとってはそういう体験だった。
 それを秋二がどう受け止めるかはわからない。受け止められないかもしれない。

 信は心配しながら水揚げが近づき、日に日に元気がなくなっていく秋二をやきもきしながら見ていた。
 できる限り気にかけて声をかけたりはしたが、そんなのは何の意味もないだろう。
 ここから逃げられなければ意味がない。そして、信は秋二に逃げるなと言った張本人なのだ。
 信に何か言われたりされたりして救われるということもないだろう。
 そうして何もできずにいるうちに月日は流れ、やがて水揚げの日取りが発表された。
 水揚げ権を買ったのは予想通り笠原だった。
 これに多少ホッとする。笠原ならばそう酷くされることもないだろうと思ったからだ。
 だが、望まぬ行為には違いない。
 秋二を気の毒に思いながら、信は世話係としての最後の仕事、すなわち笠原へのあいさつをしに行った。
 予想外の提案をされたのはこのときだった。

「私が、ですか……?」

 呼び出された座敷に二人きりのときに笠原は、信に秋二の水揚げをまかせたいと言ってきた。
 前例のない提案に面食らっていると、笠原は頷いた。

「うん」
「では、笠原様はそのあとに?」
「いや。おれそういう趣味ねえから。お前にだけは言うけど、男じゃ勃たない」

 それは薄々気づいていたことだった。笠原はかつて信の馴染みだったが、一度も手を出してきたことがない。

「ではなぜ権利を買ったんですか?」
「どこぞのオッサンにヤられるなんてかわいそうだろ? ここだけの話、おれあの子を養子にしようと思ってんのよ。子供もいねーし、あいつなかなか見どころあるからさあ。一緒に旅したら楽しそうだし」

 笠原の趣味は旅行だった。

「そうだったんですね」
「あれ、意外。もっと喜ぶかと思った」
「いや、嬉しいですよ……。落籍のお話はもう?」

 素直に喜べなかったのはエゴのせいだ。秋二と離れ離れになりたくなかった。

「ああ。けどずっと断られてる。おれが手出すとでも思ってんのかな?」
「それはないと思いますが。ただもしかしたら、他の店に好きな子がいるかもしれません」
「ああ、なるほど。そういうことか」
「私の方からも説得してみますね」
「オッケー、よろしく。じゃあ水揚げも、頼める? 遣り手には話し通してあるから。当日はそれっぽいことしてくれればいいよ」
「承知しました。秋二にはそちらから?」
「いや、菊野から話してくれ。仮にも息子にしようって子とあんまこういう話はな……」
「わかりました。お心遣いありがとうございます。あの子も喜ぶと思います」

 信は笠原の懐の大きさに感銘を受けつつ、承諾した。
 仮にも高級クラブの白銀楼に長年いるが、こんな客には出会ったことがない。
 話だけで帰る粋な客はいるにはいるが、水揚げ権を買って使わないなど、見たことも聞いたこともない。
 どうやら秋二は稀に見る良客に見初められたらしかった。
 その上養子の話も出ている。秋二にとってこれほどの幸運もない。
 さて、秋二はなぜこれほど好条件の落籍を承諾しないのだろう、と思いを巡らせながら、信はその後座敷に戻ってきた秋二と三人でしばらく歓談したのだった。

 ◇

 水揚げの日はあっという間にやってきた。
 何もしなくていいと言われているとはいえ、多少は緊張する。
 信は少し緊張しながら準備を整え、笠原の座敷に上がった。
 信は、同じように緊張しているようすの秋二と笠原がお披露目の儀式を行うのを見なが ら過ごした。
 傾城や見習いたち、遣り手、それに客の何人かを交えてのお披露目は盛大にとりおこなわれ、三三九度で締められる。
 贈られた祝い花や仕掛けで華やかになった座敷で秋二と笠原は杯を交わし、会を締めく くった。
 一緒に選んでやった、というか着せたかったピンクの晴れ着姿の秋二はとんでもなく可愛らしかった。
 着物は着崩さず、背中までの髪を下ろし、ダリアの花簪を挿している。
 この簪は信が買ってやったものだった。ちなみにダリアはキク科の花である。
 それを身に着けている秋二を見て所有欲が満たされるのを感じながら、信はお披露目を見届けた。
 そうして終わると、笠原と秋二と三人で秋二の本部屋に上がる。
 一本立ちに先立って与えられた部屋は四階南の広めの部屋だった。
 そこは、本来傾城になったばかりの者に与えられる場所ではなかったが、笠原の便宜でそこになっていた。
 三人で中に入ると緊張したように秋二がこちらを見上げる。
 そして言った。

「何もしなくていいって聞いたけど、本当?」
「うん。笠原様のご厚意でね」

 そう答えると、秋二はテーブルについて酒をちびちびやりだした笠原の方を向いた。

「じゃあ何で信さん呼んだの?」
「それは何か、呼んでほしそうだったから」
「おれが?」
「うん」

 すると、秋二は黙り込んでしまう。そのまま突っ立ったままの相手に座るよう促し、信は笠原の向かいに腰を下ろした。
 テーブルには酒とつまみとウーロン茶が置いてあった。

「お茶、飲んでも?」
「いいよ。秋二、いつまでそこ立ってんだ?」

 笠原に言われてうつむき気味に立っていた秋二が再び口を開いた。

「けど、別にやってもいいんだよな?」
「うん?」
「水揚げ……。どーせ明日からいろんな奴とヤんなくちゃいけないんだし、やったってやらなくたって変わらねえ」
「でもおれは無理だぞ」
「知ってる。だから信さんがやればいい」

 その言葉に、信は思わず目を上げた。そこで、自分を見下ろしてくる秋二と目が合う。彼は、何とも言えない表情を浮かべていた。

「おれはいいぜ、別に。ま、そしたら席は外させてもらうかな」
「秋二、本気?」

 信が問うと、秋二は頷いた。

「おれ、初めてなんだ。どっちも。知りもしないジジィにヤられるくらいなら、信さんの方がいい。信さんがいい」
「秋二……」

 秋二の申し出に、信は言葉を失った。まさかこんな展開になるとは予想もしていなかった。

「あ、信さんが嫌じゃなければ、だけど。でも嫌だよな、ごめん。今のなし」
「……いや、いいよ」

 信の言葉に、秋二が驚いたように目を見開く。信自身も驚いていた。
 だが、この機を逃すまいとぺらぺらと言葉が口をついて出る。
 好きな人と触れ合えるチャンスは、それが何であれ逃したくなかった。

「本当に?」
「うん。どっちがいい? つまり、抱く方か抱かれる方かってことだけど」
「……抱く方」
「わかった」

 話がついたのを見て、笠原は立ち上がった。

「じゃ、おれは失礼するかな。菊野、部屋借りていいか?」
「どうぞご随意に。終わったら行きますので。お相手できなくて申し訳ないですが」
「いいよいいよ。こっそり行かないとな。じゃ、秋二、頑張れよ」
「お、おう」

 笠原は片手をあげて部屋を出て行った。
 二人きりになった部屋に沈黙が落ちる。
 信はついたての向こうの布団の方へ行き、着物と襦袢を脱いだ。
 それを秋二がついたての向こうから凝視してくる。
 いつになく深刻そうな表情に、本当によかったのかともう一度問いかける。

「秋二、無理してやらなくても……」
「無理じゃない! でも、緊張して……」
「うん。そうだよな。ほら、おいで」

 そう言って手招くと、秋二は機械仕掛けの人形のようにぎこちなく歩いてきて信のそばに座った。
 信は微笑んで秋二の髪を撫でると、かちこちになっている相手の足に手を這わせた。
 室内はちょうどよく行燈の明かりと窓から差し込む通りの明かりだけで薄暗い。女だと錯覚させられなくもない暗さだ。
 信は相手が反応しているのを確認すると、キスをしてそのまま布団の中に引き込んだ。
 目を見開いて固まっている秋二を押し倒し、首筋から下に向かって口で愛撫してゆく。
 手で撫でていた太腿がピクピクして、相手が感じているのがわかった。
 帯を解いて襦袢も脱がし、剥き出しの体にキスをする。
 そして緩く立ち上がったものをくわえ、口淫を始めた。
 すると、秋二がたまらなそうに腰をゆらす。
 その痴態に下半身を直撃されて思わず後ろ に手が伸びかけたが、すんでのところで阻止し、愛撫を続けた
 やがて秋二のそれが張り詰めてきていい頃合いとなる。
 信はかすれた声で聞いた。

「そろそろ……?」
「うん……」

 蚊の鳴くような声で答えた秋二に、再度確認する。

「無理そうだったらやめても……」
「いいから!」

 秋二はそう言って身を起こし、信を押し倒した。
 そして、おずおずと信にキスをする。背中に手を回して応えると、秋二は息を漏らした。
 触れるだけの、小鳥のようなキス。それなのに、背筋に電流が流れた。

「っ……」

 好きな相手とのキスはこんなにも気持ちいいのかと驚愕する。それは、今まで感じたことのない感覚だった。
 秋二の唇を味わっていると、やがてそれが離れていく。
 名残惜しく思っていると、こちらを見下ろす秋二と目が合った。
 普段、性とは無縁そうなその顔が上気して赤く染まっている。
 幾度となく夢想していた光景に、信は抑えようもなく興奮していた。
 相手の体をいじくり回したいのをこらえて、そのまま待っていると、秋二がおずおずと手を伸ばして体を撫で始めた。
 つたない動きに、ますます欲望が膨れ上がる。抱く方を頼まれていたら確実に嫌われることをしていたな、と思いながら、信はやんわりと秋二の背中をさすった。
 やがて、秋二がつぶやくように言う。

「信さん、おれもう……」
「いいよ、おいで」

 足を開いて促すと、秋二はそろそろと入ってきた。
 慣れない様子でゆっくりゆっくり進んでくる。辛抱強く待っていると、やがて根元まで入ったらしく、秋二が動きを止めた。
 そして聞く。

「痛くない?」
「大丈夫」

 ここ最近、こんな確認なんてされたことがない。秋二の優しさに感動しながら待っていると、相手はやがて動き出した。
 はじめはゆっくり、やがて速度を増して信の後ろを穿ち始める。
 揺さぶられているうち、えもいわれぬ多幸感に頭がふわふわし出した。
 上手いとか下手とかではなく、ただただ幸せだった。
 これほど幸せなセックスなんてしたことがない。信は初めて、好きな人とするセックスを体験したのだった。
 秋二の柔らかな栗色の髪が胸をくすぐる。見上げると、赤く色づいた唇を半開きにして快楽に浸っていた。
 その顔を引き寄せてキスしたいのをこらえて観察するだけにとどめる。
 こんなことはもう一生ないだろうから、しっかり記憶に焼き付けておきたかった。
 やがて相手の動きが速くなり、うしろをゴリゴリこすり出す。
 達するほどではないが、確実な快感に背骨が震える。信は目を瞑って吐息を漏らした。
 この瞬間が永遠に続けばいい、そう思いながら快楽に浸っていると、秋二が小声できいた。

「きもちい?」

 驚いて目を開けると、不安そうな顔の相手が見下ろしていた。
 その瞬間、歓喜に心が浮き立つ。秋二はきちんと信だと認識した上で抱いている。そして興奮している。これは奇跡的なことだった。
 信は自然笑顔になって頷いた。

「すごく……」

 途端に腹の中のものがドクリと脈打ちひと回り大きくなる。
 体型に似合わず質量のあるソレに圧迫され、ビリビリと腰に電流が走った。

「はっ……」
「んっ……おれ、もう……」

 それを聞いて信は意図的に後孔を締めた。
 すると次の瞬間、秋二が身を震わせて達する。

「はあ、はあ、はあ……」

 秋二は荒い息をつきながらくたっと信の上に突っ伏した。反射的に抱きしめると、相手が顔を上げた。
 目が合って我に返った信はパッと手を離し、秋二を押しのけて脱げかけた襦袢を着直した。
 そして物言いたげな秋二を無視し、着物を着付けにかかった。
 傷つく言葉を聞きたくなかった。
 秋二にとって、これはただの通過儀礼でしかない。何かを期待すれば、また傷つくだろう。もう、傷つくのは嫌だった。

「お疲れ様。じゃあ、笠原様お呼びしてくるから」
「うん。信さん、おれさ……」
「うん?」
「……いや、何でもない」
「……じゃあ私はそのまま次のお客様をお迎えに行くね。笠原様にはよろしく伝えてもらえる?」
「……わかった」
「何かと大変なこともあると思うけど、傾城になってもまたいつでも話しにおいで。これで終わりじゃないからね」
「うん、ありがと」
「じゃあお疲れ」

 信はそう言って秋二の本部屋から出た。
 そうして五階にある自分の本部屋に向かって歩き出す。
 体にこごった熱はしばらく引きそうになかった。


 その日、秋二は無事一本立ちし、傾城になった。
 そして張り見世に出るようになったが、秋二に客を取らせたくなかった信は、笠原に根回しをして専属にさせた。
 専属というのは、一人の客以外相手をしない傾城のことで、店の出資者かオーナーのみが指名できる。
 専属となった傾城はそのオーナー以外の相手をする必要はなくなり、張り見世にも出なくてよい、という非常に素晴らしい制度だった。
 信自身も、何人かいる出資者のうちの一人を客に持っていたのでこの制度を活用したいと常々思っていたが、足抜けの手引きという重罪を犯し、呼び出しでい続けることを条件に店に留まらせてもらっている身分なので使えなかった。
 専属となると番付から外れ、階級もなくなるからだ。
 だが、秋二ならば使える。
 店の出資者の一人である笠原にあれだけ可愛がられているのだ。笠原も嫌とは言うまい。そう思ってその件を打診したところ、笠原は快諾した。
 そして、遣り手に話を通して秋二を専属にする手続きをしてくれた。
 これで他の客の相手をしなくてよくなり、張り見世にも出なくなった。
 そして、笠原が来ないときは見習い達と一緒に給仕をしたり、洗い場を手伝ったり、買い出しに行ったりと、傾城というよりむしろ裏方の仕事をやるようになった。
 嫉妬する者もいたが、秋二が気を利かせてヘルプに入ったり、好物を差し入れたりしたので、大きな揉め事には発展しなかった。
 そうして秋二は、誰にも触れられることなく過ごせるようになった。
 こうなることを予想していなかったわけではない。というよりも、水揚げが決まった段階で想定済みだった。
 笠原からはっきり男に興味がない、と言われたのだけは予想外だったが、その他はすべて計画通り、一本立ちしたら笠原に囲わせるつもりだった。
 だから、水揚げの時に秋二が言ったことは真実ではなかった。
 秋二はあの時、見知らぬ客に初めてをやるくらいなら、信の方がマシだというようなことを言った。
 だがそれは真実ではない。なぜなら、秋二が笠原以外から触れられる未来はほぼなかったからだ。
 だから、そう言うべきだった。言わなかったのは、邪な想いを抱いたからだ。
 秋二と触れ合える機会など後にも先にもないだろうと思ったから、そのチャンスを逃したくなかった。
 それで嫌われたとしてもいい。ただ、秋二が欲しかった。
 信はそういう思いで水揚げの相手を買って出たのだった。
 だから、いずれ真実を知った秋二には嫌われるだろう。
 言うべきことを言わず、騙すような形で行為に及んだ信を軽蔑するだろう。
 信は、その日が来るのを今か今かと恐れながら毎日を過ごしていたのだった。
 そんな毎日にさらなる暗雲が垂れ込め始めたのは秋二と出会って三年目の冬――信が二十四 の年だった。
 界隈で悪名高いサディストの客、畠山浩二が登楼したのだ。
 その男が指名したのは、信だった。