6-2

 その後、信は徐々に浩二に適応した。
 彼がサディストであることには変わりなかったが、怒っていない時の浩二はだいぶマシだった。
 行為に苦痛がないわけではないが、後遺症が残るほどでもない。
 信は早々に大袈裟に痛がってみせてダメージを最少限に留めるやり方を開発し、以後はだいぶ楽になった。
 落籍の話は定期的に出たが、のらりくらりとかわし続けた。
 この時点で一樹の契約を背負った信の落籍を申し出る客は他になく、受けてもいい気もしていたが、章介や秋二のことを考えるとやはり受けられなかったのだ。
 だから、いつ浩二の堪忍袋の緒が切れるかとひやひやしながら相手をしていた。
 だが、先に切れたのは別の人物だった。秋二だ。
 それまで心配されても軽くあしらってきたのがよくなかったのか、秋二が遂にブチ切れたのは、浩二が初めて登楼してからひと月余りが経った頃だった。

 その日は、店で使うアルバム用の写真撮影のため、仕事は休みだった。
 一階ロビーと受付に置くもので、客が傾城を選ぶためのものだ。
 革表紙に黒いシートのそれに、番付順に掲載される。
 それの最初の丸々二ページがお職用で、信はそのために何枚か撮る必要があった。
 このページを飾れなくなったら河岸行きなわけだ。
 いつまでこの座を守れるだろうか、と思いながら部屋で文芸誌をめくっていると、廊下から足音が近づいてくるのが聞こえた。
 来客は部屋の前まできて、扉をノックした。

「信さん、いる?」
「どうぞ」

 ガラッと引き戸を開けて入ってきたのは秋二だった。
 小柄な体に紺地に白のストライプ模様が入った着物を着付け、黒い帯を締めている。
 せがまれて信があげたお下がりだ。
 それに身を包む姿を見て満足感に浸っていると、秋二はこわばった表情で部屋に入って後ろ手で扉を閉めた。

「お茶飲む?」
「うん。おれ淹れるね」
「ありがとう。場所、わかる? そこの棚に……」
「大丈夫、わかる」

 秋二は言葉少なに煎茶を淹れると、テーブルに持ってきた。
 そこで茶菓子を勧めたが、秋二は受け取っただけで口をつけず、お茶だけを飲んだ。
 いよいよ来たかな、と思いつつ菓子をつまんでいると、相手は湯呑みを置き、こわばった表情で話し出した。

「今日はマジ、真剣な話しにきたから」
「落籍でも決まったとか?」
「違うよ……。もうあいつを登楼(あげ)るのをやめてほしい」
「あいつ?」

 とぼけてみても、秋二は引かなかった。どころか語気を強めて詰問してくる。

「畠山浩二だよ、わかってるだろ? もう、あいつの相手はしないで」
「どうして?」
「どうしてって……わかるだろ」
「そんなにハードなことはしてないよ」
「じゃあ今服脱げる?」
「それは……」

 昨晩は浩二の相手をしている。その痕はおそらく残っているだろう。
 それを考えて躊躇った信に、秋二はそれ見たことかと言わんばかりの表情をした。

「無理なんだろ」

 そう言うと、秋二は舌打ちしてテーブルの上に出ていた信の腕をつかみ、着ていた部屋着の袖をまくり上げた。

「ッ……! なんだよ、これ」

 手首にはやはり赤い拘束痕が残っていた。
 信は腕をひき、さっと袖を直した。

「そこまでひどくない」
「はあ? こんなんされて、それはないだろ。信さんおかしいよ……。何で振らないの?」

 秋二に引かれたであろうことに消沈しながら、信は適当に言い訳した。

「見た目は派手かもしれないけど、そんなに苦痛はないよ」
「くっ……!」

 秋二は俯き、唇を噛みしめた。
 その目にじわり、と涙が浮かぶ。

「信さんっ……何でこんなっ……酷い……」

 久しぶりに秋二の涙を見た信は少なからず動揺した。

「絶対許さねえッ! あの野郎、殺してやる」
「だから、見た目ほど酷くはないんだよ」
「断れよ! 信さんならできるだろ! 何で拒否しねえんだよ!」

 いよいよ興奮してきた秋二に、信は仕方なく言った。

「嫌だ。あんな太い客、みすみす逃してたまるか」

 信のことばに、秋二が目を見開いた。

「それ、本気で言ってんの?」
「あの方はいつも花代を上乗せしてくださるからね。逃すのはもったいない」

 秋二は遣り手との契約も、一樹の契約年数が上乗せされていることも知らない。
 だが、それを話すことは出来なかった。
 遣り手に口止めされていたからだ。
 これを破れば、もうここにはいられなくなるだろう。

「自分の体より金の方が大事だって言うのかよ?」
「うん。ここで一生分稼げばあとは働かなくて済む」

 これは半分事実だった。店のピンハネはすさまじいが、それでも元々の金額設定が高いので給料はそこそこ入る。貯金も、それなりに貯まっていた。

「でもッ……! 別に畠山の相手しなくたってこれまで通りで充分じゃん。あいつの相手してたら身体がもたないよ」
「限度はわきまえているつもりだよ」
「……ッ」
「話はそれだけかな? 今日は撮影だろ。そろそろ戻って支度したら?」

 アルバム撮影では、それぞれが割り当てられた時間に、近所の白銀楼御用達の写真館に出向く。
 信と秋二は名字の頭文字が同じだったため、同じ三時からの組に割り振られていた。
 信は、薄紫地に花や蝶が描かれた友禅を着ることに決めていた。
 秋二は花柄の桃色の着物を着る。
 これは、信が選んだ着物だった。
 かわいらしい秋二には桃色がよく似合う。
 着物の着付けと髪のセットと化粧には少なく見積もっても一時間半はかかる。
 時計を見ると午後一時過ぎ。そろそろ始める頃合いだった。

「だけど……」
「ほら、もう戻って。私も準備始めるから」
 
 信は不服そうな顔の秋二をしっしっ、と追い払い、やってきた部屋つきの禿や新造たちに手伝ってもらって支度を整えたのだった。

 ◇

 着付けを終えて部屋の戸締りをし、玄関に降り立つと、そこで相変わらずブスッとした秋二が艶やかな仕掛けを身に纏って待っていた。
 不機嫌を隠そうともしないようすに、彼の部屋つきの禿たちは怯えた顔つきでようすを窺っている。
 信は苦笑して、彼らに謝った。

「ごめんね。この子、扱いづらいでしょ? ちょっとご機嫌ナナメでね」
「い、いえ……」

 少年たちは少しホッとしたように信を仰いだ。

「さ、秋二、そんなにしかめっつらをしていると皺になるよ」

 そう言って眉間を人さし指でつつくと、秋二はプイッと顔を背け、歩き出した。
 信はのんびりと下駄を履き、その後を追って店を出た。
 冬のキンとした冷気が頬を刺す。
 まだ早い時間だったが、通りにはそこそこ人がいた。
 着物姿の店員や、案内図片手に歩く観光客たちが行き交っている。
 人々は、店から出た信たちを見て立ち止まった。

「綺麗っすね」
「本当に男?」

 口笛を吹いて冷やかしてくる男たちを笑って受け流す。
 色々話しているのが聞こえてきても気にならない。そういうのが気になる段階は過ぎていた。
 どうせもう一生会うこともない人たちだ。
 日曜だからひとが多いのか、と思いながら歩いていると、学生らしき若い男の集団と行きあった。

「別嬪さん!」
「どう、おれらとお茶でも。奢るよ?」

 絡んでくる相手に、先を急いでおりますので、と言ってすり抜けようとしたとき、鋭い声が飛んできた。

「おい、離れろ」

 前を歩いていたはずの秋二が、信の行く手を塞ぐように立っていた男たちの背後に仁王立ちしていた。

「おっと、こっちにも美人がいるぜ」
「男が好きなんだろ、相手してやるよ」

 男はそう言った直後、手と口で卑猥な動作をしてみせた。

「ッンの野郎ッ!」
「秋二っ」

 まずい、と思った信は咄嗟に秋二と男たちの間に割って入った。
 鈍い音と共に頬を衝撃が見舞い、頭がクラクラする。

「あっ、信さんっ!」
「っ……!」
「ごっ、ごめん信さんっ! 顔が……」
「ははっ、生理か?」
「お前っ!」

 今にも手を出しそうな秋二の前に出てその体を押さえつける。
 そして、男たちに向かって深々と頭を下げた。

「失礼して申し訳ございません。……秋二も謝って」
「……悪かったよ」

 頭を下げようとしない秋二の首根っこを押さえつけ、無理やり頭を垂れさせる。

「この通りです」
「まあ、しょうがねえな」

 信は五秒待ってから秋二の頭を押さえつけていた手を離し、自身も顔を上げた。
 すると、溜飲を下げたらしい男達は去っていった。
 信は息をつき、再び歩き始めた。

「し、信さんおれっ……ごめん! でもどうしても我慢できなくて」
「ああいうのはまともに相手しなくていいよ」

 申し訳なさそうな秋二にそう言ってやる。
 すると、相手が信の頬に軽く触れた。
 それに驚き、思わず足が止まる。
 秋二は愛らしい顔に悲しげな表情を浮かべて、そっと頬を撫でた。

「顔、腫れちゃってる……。ごめん……」
「いいよ。どうしても今日撮らなきゃないってわけじゃないから」

 封印したはずの想いが、こういうちょっとした時に再び湧き上がってくる。
 こんな思わせぶりなことはしないでほしかった。

「うん。本当にごめん」
「もういいよ。さ、スタジオに行こう」
「え、信さんも行くの?」
「うん。撮影は無理だろうけど見学してるよ。休みだしね」
「そう……」
 
 黙り込んでしまった秋二と再び歩き始めると、やがて写真館の看板が見えてきた。
 二階建ての趣のある木造建築の一階の屋根部分に金色で『夕暮スタジヲ』と印字されている。
 信と秋二はその下の紺の暖簾をくぐり、下駄を脱いで中に入った。
 入り口付近の壁際に並んだ椅子には、順番待ちの傾城達が座っていた。
 おつかれさま、と声をかけ、奥で撮影を仕切っている番頭新造の伊沢に事情を説明しにいく。
 彼は遣り手の右腕であり、こうした撮影や行事などを統括する立場だった。
 三十代半ばで、今は裏方に回っているが、かつては傾城だった優男だ。
 基本的に遣り手に逆らわない伊沢とは関係良好とはいえず、何度も傾城の待遇改善を要求する信と対立していた。
 そのため、信を一目見て状況を察したらしい伊沢はあからさまに顔をしかめて舌打ちした。

「全く……また面倒ごとを」
「すみません。来る途中で少々トラブルがありまして、今日の撮影は無理そうです」
「またお前がふっかけたんだろう。懲りない奴だな」
「すみません」
「まあ仕方がない。帰って冷やしとけ。それと遣り手に報告」
「せっかくの休みなので少し見ていこうかと」
「冷やさなきゃ明日の仕事に差し支えるだろ。戻れ」

 そこで写真館の主人が遠慮がちに口を開いた。

「あの~、氷嚢ならあるけどねえ。確か冷凍庫に……あったあった、はいこれ」
「どうもすみません」

 信は店主のふっくらした手から氷嚢を受け取り、礼を言った。
 そして不満げな顔をしている伊沢に会釈をして席に戻る。
 すると、ちょうど秋二の撮影が始まったとこれだった。
 色素の薄い髪をアップにし、薄桃色の花簪を挿している。
 緊張気味にちょこんと立っている姿はまるで雛人形のようで可愛かった。
 着物を着崩していないのも、太鼓帯じゃないのもいい。
 信が好きなスタイルだった。
 花魁というより初々しい娘といった感じで可愛い。
 信は幸せを感じながらそれからしばらく、秋二の一瞬が永遠になるさまを眺めていた。