呉服屋を出た二人は紅霞通りに入り、店に戻った。
五階建てのその建物には煌々と明かりが灯り、軒先にぶらさがった提灯や、ベランダに飾られた桃色の花の存在も相まって淫靡な雰囲気を醸し出している。
裏に回って扉を開け、上がり框に足をかけた途端、近くにいた傾城が言った。
「お客さま、こちら裏ですので入り口にご案内します」
信が説明する前に秋二が答える。
「すみません、表回りますねー」
「ダメじゃないか、ちゃんとご案内しないと。申し訳ございません」
「いや、私は……」
信だとわかっていない様子の同僚、川西に説明しようとした信を引きずって、秋二は表玄関に連れていった。
そして、声を張りあげて、おひとりさまごあんなーい、と言った。
館中に響き渡るような声で叫んだので、ロビーの傾城たちが一斉にこちらを見た。
番台にいた受付の戸田は、一瞬台帳に手を伸ばしかけて引っ込めた。
そして、信をまじまじと見つめる。
「……菊野さんじゃないですか。なぜこちらから?」
「すみません、ちょっと……」
笠原の専属となったはずの秋二が違う客を連れているのはいったいどういうわけかを探るために集まってきていた傾城たちの大半は、同じく正体不明の客が同僚であったことを突き止めると、すぐに散っていった。
しかし、玄関口に居合わせたやることのない数人の禿たちはその場にとどまってなにやらひそひそと囁き交わしていた。
「菊野さんかっこいい」
「うん……。こうしているといかにも旦那さまみたいだね」
「こんな人がお客だったらなあ」
本人に聞こえる声量でことばを交わす禿たちに向かって秋二が低い声で言った。
「信さんは、おれの旦那さまなの。ほら、かんざしも買ってもらったんだよ。いいだろー」
「えー、いいなあ。一緒に出かけたかったあ」
「今度行こうね」
「今日はどうしてこういった着物を?」
「うん、今日は写真撮ってきたんだけど、その帰りに秋二がプレゼントしてくれたんだよ」
「秋二が? すげえ」
「お似合いですよねえ。どこのお店ですか?」
しばらく話していると、なかなか散らない見習いたちにしびれを切らしたらしい秋二が強引に信の腕を引いて、輪の中から引きずり出した。
「このひと、おれの旦那だから」
そして信が何か言う前にぐいぐい腕をひっぱって階段を上らせた。
膳を運んだり、立ち働いている傾城たちの視線に曝されながら居住区の方向に向かっていると、口笛が聞こえた。
「立花、浮気か? 笠原さんに怒られるよ」
勘違いしてそう言ってきたのは友人の大輔だった。
その隣にいたのは、傾城としての契約満了後も白銀楼に残り、遣り手の右腕として采配を振るっている番頭新造(ばんとうしんぞう)の伊沢と、友人の章介だった。
「ふふ、大丈夫だよ」
「良い旦那を見つけたか」
そう言った伊沢に、章介が頷く。
「……イケメン、だな」
「からかうなよ」
信は、明らかに面白がっているようすの章介に顔をしかめた。
伊沢も章介も、正体が信だとわかった上で言っている。
わかっていないのは大輔だけだった。
「えっ、ちょっと待って……信? 信なのか?」
「当たり」
そこでやっと信の正体に気付いたらしい大輔が驚愕の表情でこちらをまじまじと見た。
信が苦笑して頷くと、相手は目をこれ以上できないくらい丸くした。
「客かと思った」
そのことばに乗じて、章介がらしくもなくふざけ出す。
「酌してやろうか?」
「面白そうだな。そこの座敷九時まで空いてるはずだから連れ込もうぜ」
すると、大輔までのってきて、信は抗議する間もなく近くの座敷に連れ込まれた。
彼らは面白半分に信を小卓の前の座椅子に座らせると、どこからか調達してきた酒を注いで勧め始めた。
「旦那さまぁ、さ、どうぞ」
「こっちも美味いぞ」
「ちょっと、やめてよ」
両脇を章介と大輔にがっちり固められて口元にお猪口を押し付けられる。
差し出された酒を何とか飲み干すと、今度は艶やかな仕掛けを身に纏った大輔と、同じく接客用の、渋い灰緑色のお召を着た章介が、どちらがお好みですか、とかフザけたことを聞いてくる。
斜向かいに座ってじっとこちらを観察している秋二に目で助けを求めたが、相手は応じなかった。
「ただの遊びだろ。付き合ってやれば?」
「ちょっと、本当にやめてよ」
立ち上がろうとしてもふたりがかりで押さえつけられて動けない。
秋二の横に坐した伊沢は完全に高みの見物を決め込んでいた。
「今日はどっちを上げるんだ」
「当然私ですよねえ。自慢じゃないけど二週間先まで予約で一杯なんです」
「……悪ノリが過ぎるよ、二人とも」
「吉野です、旦那さま。さあ、どちらかお選びになって」
信はため息をついて、乗るしかないか、と両手をふたりの肩にかけて抱き寄せた。
「選べないですよ。こんなに美しい花がふたつも咲いていては、どちらか選ぶことなんでできない」
「……言ってて恥ずかしくならない?」
失礼なことを言ってくる大輔に微笑み、少し顔を近付ける。
これは少し思い知らせてやらねば。
「本当のことを言ったまで。噂には聞いていたけれど、本当に綺麗ですね。そんな目で見つめられると脳髄が痺れるな。キス、してもいいですか」
「し、信……ストップ、ストーップ!」
相手の後頭部に指を差し入れて更に顔を近づけた瞬間に、大輔は信を両手で突き飛ばした。
「っ……! 何するの」
「それは、こっちのセリフだっ!」
勢いよく立ち上がった大輔は、着物の袷を掻き合わせながら後ずさった。
信は肩をすくめた。
「まさか本当にするとでも?」
「する気だっただろっ!」
「かもね」
「っ……お前ってっ……! 性格悪いぞっ!」
「御所望の演技をしてあげたと思ったんだけど」
「そこまでしろなんて言ってないっ! お、お前には貞操観念がないのかっ!?」
すると伊沢が口元を袖で隠してくつくつと笑った。
「ミイラ取りがミイラになったな。何だお前、知らなかったのか、菊野の通り名」
「『花魁殺し』っすか? いや知ってましたけど根も葉もない噂だと……」
座敷の入り口のところまで逃げた大輔は、怯えた顔で信を見つつ答えた。
この不名誉なあだ名は、界隈でいつの間にかつけられていたものだった。
「火のないところに煙は立たぬ、だ、この場合。とって食われないように気をつけろよ」
完全に面白がっているようすの伊沢のことばに、章介は何かを思い出したかのように眉根を寄せた。
共揚げ、つまり一緒に本部屋に揚げられたときのことを思い出している。
つられて彼と絶交の危機に陥った約二年前の大事件を思い出す。
章介の魅力に負けて抱いてしまった結果、絶交の危機に陥った件だ。
彼は、男に抱かれるなど絶対に我慢ならない、というタイプだった。
それを見誤った信がやりすぎて怒らせてしまったのだ。
信は本来、抱かれるよりは抱く方が好みであり、章介に対しても最初からそのような魅力を感じていた。
だから、ノンケだと思い込んでいる相手が何かの拍子にそちらに目覚めないかと、実験的に抱いてみたのだが、この実験は大失敗だった。
章介は激怒し、目も見てくれなくなったのだ。
とっさの機転で泥酔していたふりをし、土下座をして謝罪した結果、何とか関係を修復できたが、もう二度とあんな思いはしたくなかった。
信は回想から浮上し、座敷で険しい表情をしている章介を見た。
あのとき、章介と寝た……もっと正確にいえば抱いた信をこの友人は半月許してくれなかった。
謝り倒して何とか許してもらったが、もう二度とああいうことにはなりたくない。
そこで、早めに切り上げるのがよかろうと口を開いた。
「もう部屋に戻るよ」
「次おれね」
そこで、それまでおとなしくしていた秋二が立ち上がり、横にドカッと座ったからだ。
腰を上げようとすると、腕を引かれた。
「大輔はよくておれはダメなのかよ?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあいいだろ。やろうよ、旦那ごっこ」
「また今度ね」
秋二に何と言われようとこの悪ふざけを彼相手にやるつもりはなかった。
こういうことは、何とも思っていない友人とやるから冗談になるのであって、本命相手にやるものではない。
そんなことをしてこちらの気持ちを感づかれたらこれまで苦労して築き上げてきた関係性がパーになる。
だから信はいくらせがまれても応じなかった。
秋二と押し問答をしていると、不意にこちらを観察していた伊沢が口を開いた。
「確かに、旦那に見えないこともないな。紅妃、どう思う?」
「元々しっかりした顔立ちですし、骨格も華奢ではない。こういう格好も悪くないと思います」
「ふむ……。菊野、今度それを着て座敷に出てみろ。お客様の反応を見る」
「……男物の着物を、ということですか?」
「いや、それでだ。濃い色のは持ってなかっただろ」
「私物なんですけど……」
信の控えめな抗議を無視し、伊沢は言った。
「今まで気づかなかったが、そっちの方も需要がありそうだ。気づいてよかった。ではそういうことで」
伊沢はそれだけ言うと、信が抗議する間もなく座敷から出て行ってしまった。
残された信はため息をつき、やり取りを黙って見ていた秋二を見た。
「秋二、ごめん。せっかく貰ったのに仕事で使うことになってしまって……」
「いや全然。むしろうれしいっていうか……とにかく、着なきゃ意味ないでしょ? 何か信さん、タンスの奥にしまって着なさそうな感じだったし」
「でも……」
「いいって。汚れたらクリーニングに出しゃいいじゃん? タンスの肥やしよりよっぽどいいよ」
「ごめん……」
うなだれた信に、秋二は明るく言った。
「でもおれはうれしいよ。何か信さん守ってあげられる感じがして」
「……戻ろうか。いい加減その衣装脱がないと体がカチコチになっちゃうよ」
「うん。さ、行きましょう、旦那」
秋二はそう言うと信の腕に自分の腕を絡ませた。
ふたりがそのまま出入り口の襖の方へ行くと、近くに立っていた章介が黙って戸を開けてくれた。
「ありがとう」
「あ、すみません」
章介は頷くと、ふたりに続いて部屋を出た。
南階段の方に向かいつつ、章介が秋二に問いかけた。
「出かけていたのか?」
「うん。記念撮影してきた」
その言いように、信は思わず笑った。
「信と?」
よくわからない、といった顔をしている友人に、信は説明してやった。
「秋二は飛び入り参加をしたんだよ、一緒に撮るために。私のこと好きだもんね?」
冗談めかして言い、秋二の頭をポンと叩くと、相手はそっぽを向いた。
「べ、べつにっ……そういうんじゃねぇよっ」
「公式より安い値段では売らないようにね。遣り手が怒り狂うから」
大方焼き増しをして、受付で売っているよりちょっと安く売りさばくために撮ったのだろうと当たりをつけていた信が忠告してやると、秋二は驚いたように目を見開いた。
そして何か言おうとしたが、ちょうどそのとき階段に着き、章介がぼそぼそと、階下に行く、また明日な、と言ったので、タイミングを逃してしまったようだった。
信は章介に近づき、整っていた短髪を手でぐしゃっと乱してやると、腕をポン、と叩いて、また明日、と返した。
沈んだ様子で張り見世に向かう友人を少し気の毒に思いながら、信は相手を見送った。
相手が階下に消えるのを見届けると、信は秋二と共に階段を上り始めた。
「明日って何?」
間髪入れずにぶつけられた問いに、信は答えた。
「将棋」
「ふうん。見に行ってもいい?」
女流棋士の祖母を持つ章介は、信の貴重な将棋仲間だ。
しばしば負けるが、休日に彼と対局するのが数少ない楽しみのひとつだった。
「仕事は? たしか、笠原さんがいらっしゃる日だったよね」
「大丈夫。ちょっとくらい抜けても」
信は首を振って後輩を窘めた。
「やめたほうがいい。お客さまは大事にしないと。いくら優しいからといって甘えてはダメだよ」
笠原の庇護を失ったら、秋二の生活は今とは比べものにならないほど過酷になる。
それを危惧して、思わず少し強い口調になってしまう。
すると、秋二は口をとがらせた。
「へいへい。わかったよ、ママ。てか逆に信さんは客に腰低すぎんだよ。もっと我儘言ってやれよ、それでも信さんならトップだから」
そこでふたりは三階に着いた。左手に本部屋がずらっと並ぶ廊下を西に向かって直進する。
営業中の店は見習いたちに指示を飛ばす従業員や、客の登楼を告げる声や、宴会をしている座敷から漏れ聞こえる歓声などで騒々しかった。
白銀楼の設計士が一体何を思って見世の部分を五階まで吹き抜けにしたのか、信にはさっぱりわからなかった。
建物の防音性についてつらつら考えていた信は、秋二の声でハッと我に返った。
「まあ、今のやり方でうまくいってんだから、おれがどーこー言える話でもないけどさ……」
「下手に出たほうが楽だからね」
「ここ出たら、どうするの?」
「まだ考えていない。学校に行きたいとは思っているけど」
廊下の端まで来たふたりは、突き当りにある居住区画と店とを隔てる扉を開け、暖簾をくぐってすぐのところにある階段を再び上った。
四階に着くと、秋二の部屋はすぐだった。
「信さんってここ来たの……」
彼が部屋の鍵を開けつつ聞いてくる。信は秋二に続いて部屋に入って、答えた。
「高校二年のときだよ」
「何で来たかって、聞いてもいい?」
電気のついていない、廊下の光が差し込むだけの部屋で振り返って聞く秋二に信は説明した。
「家出した。父と喧嘩してね、衝動的に出てしまった。家がめちゃくちゃでね……父が、母を虐待するような家庭だったんだ。身体的暴力はなかったけど、言葉の暴力は毎日だった。おそらくは、性的な暴力も……。だけど私は何もできなくて、そのうち母は心を病んで、死んでしまった……」
秋二が息を呑むのがわかる。
信は、これまでごく一部の限られた人間にしか話してこなかった事情を打ち明けた。
「私は、父が殺したも同然だと思って父を責めた。そうしたら大喧嘩になってしまってね。家を飛び出したんだ。あの人は……人を利用することしか考えないどうしようもない人間だった。多分、彼も病んでいたのだと思う。それからは、みんなとそう変わらないかな。犯罪組織に捕まって、無理矢理書類にサインさせられて、ここへ来た」
「お父さんは信さんがここにいるの、知ってるの?」
「さあ、どうだろう。この界隈で見たことはないけど、噂ぐらいは耳にしてるかもね。だけど来なかったということはそういうことだろう。きっと今頃、私のことなど忘れて新しい家庭でも築いてるよ」
「そうと決まったわけじゃないだろ……。そっか……おれは、ちっちゃい頃に出ていったから、父親のことはあんま覚えてない」
「そう」
「母親は、母親なりに愛してくれたんだろうけど、なんつーか癇癪もちでさ。おれ、色々問題ばっか起こしてたから叱られてばっかで」
「そうだったんだね」
信が相槌を打つと、秋二は少し遠い目になって言った。
「今何してっかなあ」
懐かしむような表情に、信は秋二が少し羨ましくなった。
家庭のことを振り返ったとき、自分は感慨に浸れない。
人でなしを親に持ってしまったことへの諦めに似たような悲哀と、失ってしまった人への渇望が募るばかりだ。
自分と母の人生をめちゃくちゃにした男への憎しみはない。
憎むことすらしたくないほど、嫌悪感が強かった。
今はただ、その存在をなかったことにしている。
夕陽の残照が差し込む部屋で、秋二が聞いた。
「ここ出たら、何する?」
「普通の生活がしたいかな」
「おれは、アメリカ行きたい。じーちゃんたちに会いたいんだよなあ。母親がアメリカ人で、実家向こうなんだ」
「それはいい。きっと行けるよ」
そう言って微笑んでみせると、秋二が聞いた。
「一緒にくる?」
「うーん、どうかな」
「なあ、行こうよ。ど田舎だけどいいとこだぜ」
「はは、考えてみるよ」
信は、好きな人との海外生活という夢のような妄想に幸せな気持ちになりながら、楽しげに将来の展望について語る秋二を眺めていたのだった。