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 十四で母を亡くした天野信が玉東(ぎょくとう)に落ちたのは十六のときだった。
 東京玉東――吉原をモチーフに新たに造られた飲食店が並ぶ観光街。
 その程度の認識しかなかった信が真実を知ったのは、まさにそのど真ん中に落とされたからだった。
 なぜそんなことになったかといえば、長く心を病んでいた母の死により、父との関係が悪化し、衝動的に家を出てしまったからだ。
 母は、有能だが脆い女性だった。信を産むまでは大企業勤めで出世街道をひた走っていたが、出産を機に退職した。それは、母の意向ではなかったという。
 本来は育休を取り、ある程度落ち着いたら仕事に復帰する予定だった。
 だが、父がそれに反対した。信の父親は上昇志向の強い保守的な男で、子供が生まれた時から一流のヴァイオリニストにすると決めていた。
 彼自身もヴァイオリンをやっており、若い頃は演奏家を目指していたようだが、結局は音大の教授に収まった。だから、自分が叶えられなかった夢を子供に託したかったのだろう。
 そこまではまだ理解できる。だが問題だったのは、その子供の教育を妻に押し付けたことだった。
 元々、子供をのびのび育てたかった母とは、そもそも教育方針をめぐっての対立もあり、物心ついた時にはすでに夫婦仲は冷え切っていた。
 相手を言葉でねじ伏せるタイプの父親は、何かあるたび母親を攻撃し、外に逃げ場のない母は次第に病んでいった。
 そうしてある日、自ら命を絶ってしまった。ごめんね、とだけ書き残して。

 その時、どれだけ後悔したかしれない。
 なぜ無理にでも母を連れて家を出なかったのかと、何度も何度も自問した。
 母はもう限界だったのだ。それを一番近くで見ているはずの息子の自分が、助けてやれなかった。母は、自分のせいで死んだのだ。
 あまりのショックでその後半年の記憶がないほどだった。そうして、母を失った信は、ヴァイオリンに触れることができなくなった。
 楽器を見るたび、譜面を見るたび、母に付き添ってもらってレッスンに通った日々のことを思い出すからだ。譜面には、まだ先生からの指摘をメモした母親の書き込みが残っていた。
 そんなものにはもう手を触れることすらできない。信はヴァイオリンをやめ、音楽もやめた。
 これに激怒したのが父親だった。これまでの努力を無駄にするつもりか、と信をなじり、何度もレッスンに行くよう迫った。それに信は応じなかった。
 反抗というよりも、ただ精神的に無理だっただけだったのだが、父はそうとらなかったらしい。以来、家庭内では口論が絶えなくなった。
 顔を合わせるたびになぜヴァイオリンをやらないのだ、と責められ続け、信は精神的に疲弊していった。愛していたはずの妻を失ったのに、たいして堪えていないように見える父親のことも理解できなかった。

 それでも耐えていたが、ある日絶対に看過できない言葉を吐かれた。母親に似て弱い、どうしようもない、と言われたのである。
 言葉の暴力で母を精神的に追い詰めた男にそれを言われて、ついに信の堪忍袋の緒が切れた。
 信は、母はお前のせいで死んだのだ、とその場で父親を糾弾した。
 当然父親も激高し、激しい口論となり、出ていけ、と言われた。
 もうこんな家はうんざりだった信は勢いで家を出て、父親と縁を切った。
 そして、どうしようかと夜道をふらふらしているうちに犯罪組織に拉致され、玉東(ぎょくとう)に連れて来られて、脅迫を用いて雇用契約書にサインさせられた。そして、契約を反故にしたら莫大な違約金を払ってもらう、と脅され、ヤクザが経営する店、白銀楼で働き始めたのだった。

 玉東は、二十世紀末に東京郊外の山間部にできた、百二十軒ほどの店が軒を連ねる花街風の観光街である。
 その程度の認識しかなかった信が内情を知ったのは、その中に入ったからだった。
 その実態は違法な売春窟だったのだ。
 飲食店を模して造られた店は、一般の観光客にはただの食事を、それを求めて来る者には男娼や娼婦を提供する店である。
 信が売られたのはそのうちのひとつ、白銀楼(はくぎんろう)だった。
 白銀楼は、遣(や)り手と呼ばれる支配人、小竹が取り仕切る、いわゆるハイクラブである。
 常時三十人前後の傾城(けいせい)と呼ばれる男娼と、その見習いが在籍する大きな店だ。
 五階建ての障子窓の楼閣は黒光りする木造建築で、かつての遊郭を連想させる趣となっている。
 そこで五十人近くの従業員が起居していた。
 この白銀楼が他の店と異なるところは、玉東で唯一女子禁制であり、客も従業員も男のみ、というところだった。
 つまり、相手をするのは男ということだ。
 この時既に恋愛対象が同性のみだと自覚していた信にとっては不幸中の幸いだったが、中には異性愛者の同僚も結構いて、気の毒に思ったものだ。
 いずれにせよ、信はそこでの生活をスタートさせた。

 店に入った者は最初、禿(かむろ)と呼ばれる見習いとして、店の雑用や掃除を担当する。
 この頃はまだ育成期間のため、座敷に入ることはあっても客の相手はしない。
 しかしこの時期に、信は自分がいずれどうなるかを知ったのだった。
 白銀楼には座敷の他、本部屋と呼ばれる個室がある。
 建前上、ここは指名した傾城と酒が飲める個室だったが、実際にはそこでしばしば本番行為を含む性的サービスが提供されていたのである。
 禿を経て新造となり、一本立ちして傾城になると、酒の相手と売春が仕事になる。そして毎月初めに発表される売り上げ番付に従って階級付けがされ、店での待遇が変わるという仕組みだった。
 白銀楼の傾城は上から順に、新造(しんぞう)付き呼び出し、昼三(ちゅうさん)、付廻(つけまわし)、部屋持(へやもち)と決められており、店の居住区に自室が持てるのは昼三までである。付廻以下の傾城は店側の客取り部屋、すなわち本部屋で起居せねばならない。これは大問題だった。
 なぜなら自分の本部屋の隣は普通他の傾城の本部屋であり、そこでは深夜までいかがわしいことが行われている。誰もそんな音を聞きながら生活したくはない。
 そして、売り上げが下位の傾城はしばしば店から姿を消す。これの多くは払い下げといわれる、他の店への転籍出向であり、通常出向先の店は白銀楼よりも条件が悪い。ドラッグや暴力が蔓延している河岸もこの出向先に含まれる。
 傾城達はこういった条件の中で、日々客を取ることばかりを考えているわけだった。

 だから、傾城になどなりたいわけがない。信は当然逃げようとした。
 脅迫されてサインした契約書が合法だとは思わなかったし、ここで働く義務などないと思ったからだ。
 売買春が違法行為であることももちろん知っていた。
 だから、脱出を試みようと計画を練った。
 店の出入りは自由であり、玉東の入り口の大門も常時開いている。
 逃げ出すのはそう難しそうではなかった。
 だが、店に入った日に明らかにその筋の者だとわかる若衆(わかしゅ)から告げられたことは、玉東区外への無断外出は契約破棄とみなし、罰する。その際、命の保証はできない、という恐ろしい脅迫だった。
 そして、河岸(かし)にある店では傾城が監禁されて外に出ることさえできないこと、体を傷つけるようなハードなプレイやマニアックなプレイと横行するドラッグで生きて外へ出られる確率は非常に低いことを説明されたのち、足抜け、つまり脱走の罰は河岸への出向であることが告げられた。

 その話を聞いたとき、最初は単なる脅しだろうと思った。
 現実的に考えてそんな完全に非合法の店があれば、早々に摘発されるはずだからだ。
 だが、何年も玉東にいる先輩傾城に話を聞いてみると、揃ってそういう店はあると思う、と言った。
 実際に白銀楼からそこへ行って出てきた者を見たことがないというのだ。
 傾城達のこの反応を見て、信は脱走を思いとどまった。
 成功すればいいが、もし捕まったら本当に命の保証はないと思ったからだ。
 傾城になれば同伴で外出の機会も増えるだろうし、逃げるならその時の方が確実だと思った。
 信がそういうふうに脱走計画を一時棚上げした頃だった、鶴見章介が店に来たのは。

 章介は、信が店に来た半年後に店に入った同い年の青年だ。
 初めて会った時の印象は、美丈夫の武士、この一言に尽きた。
 当時既に百七十五を超す高身長に、堂々たる体躯、すっきりとした短髪に、男らしく整った顔立ち。
 女性はもちろん、ある種の男性をも魅了するような容姿だった。
 そして、そういった目立つ容姿をしているのに、それを鼻にかけたところもなかった。
 むしろ朴訥として、色恋沙汰には関心がなく、趣味が登山と将棋という、硬派な男だった。
 この頃、自分が同性に惹かれるタイプの人間であることを自覚していた信は、この男前の新入りに色々な意味で興味を持った。
 しかし、相手が自分を含め、男に全く関心を示さなかったので、アプローチは早々に諦めた。
 章介にはその気がなかったのだ。
 恋愛対象が女性なのにこんなところに放り込まれて気の毒だと思いながら、信は章介の友達になることに決めた。
 そういう目で見たら迷惑だろうと思ったからだ。

 実際、章介は男相手の仕事を毛嫌いしており、これが女相手だったらどれだけマシか、というようなことを何度か口にしていた。
 章介は、白銀楼で売れっ子の傾城何人に秋波を送られようとも一顧だにしない。
 どれだけ美しくても、男である限り意味がないのだ。
 それがわかったから、信は友人以上になろうとはしなかった。
 結果的にそれが功を奏して、二人は良い友人になった。
 性格的な相性が良かったらしく、この友人の存在は店での生活の中で非常な助けになった。
 なぜなら、こういった環境に長くいると、人は人を信じられなくなってゆく。未来も、人間としての尊厳も奪われた人間にとどめを刺すのは、孤独であるからだ。

 孤独に蝕まれると、人は絶望する。そして人生に意味を見出せなくなるのだ。
 店に入ってから信は、そのような人間を何人も見てきた。
 彼らは皆心を病み、自分、あるいは他人を傷つけ、酒と薬に溺れ、どうにもならないところまで落ちていった。
 だからわかる。
 苦難の中で何より必要なのは、仲間なのだと。
 そういう意味で、信の方針転換は奏功した。
 章介と色恋抜きの友人になったのは、結果的に大成功だったのだ。
 欲望や嫉妬で簡単に関係が壊れてしまうような恋人になるより、余程良かったといえる。
 信は、自分の決断に感謝しつつ、章介の友人として日々を穏やかに過ごしていた。
 そんな中で、簡単に壊れるはずのない関係が危機に陥ったのは、もう一人の友人・一樹を章介に黙って足抜けさせた時だった。