湯田一樹は、信と全く同じ時期に店に入った同期である。社交的で、リーダーシップがあって、同世代のリーダー的存在だった。
そしてまた、犯罪組織により店に売られて落ち込んでいた信に一番に声をかけてくれた存在であり、馴染めなかった信の居場所を作ってくれた存在でもあった。
そんな友人が心を病み始めたのは、一本立ちから少し経った頃だった。
店に入った者は、禿(かむろ)、新造(しんぞう)の見習い期間が終わると、水揚げを経て一本立ちし、傾城となる。
本部屋という客取り部屋が与えられるのはこの時で、これ以降は、酒の相手だけでなく、性的サービスも提供するようになるが、この段階で心を病む者も多かった。
なぜなら、傾城の大半が、信のように犯罪組織に捕まって売られたか、多額の借金の返済のためにここに来たかした者達であり、純粋に自らの意志で店に入る者は少数派だったからだ。
そういうタイプもいないではないが、仮にそうであっても親が水商売をしていたり、そもそも玉東生まれであったりと、家庭環境に恵まれない者が多く、大抵そういう人達は無気力で斜に構えており、人を信用しなかった。
だから、店の雰囲気は良いとは言いがたい。
誰もが人生に失望し、悲観し、無気力になり、攻撃的になっているからだ。
こういう環境で、更に望まぬ性的搾取ということが加われば、心を病むのも道理だった。
実際信も、水揚げ直後は精神的に追い詰められ、体調を崩してしばらく医務室に入院していた。
それを乗り切れたのは、毎日見舞って励ましてくれた一樹のおかげだった。
一樹は、自分も水揚げされたばかりできつい時期であるにもかかわらず、毎日仕事前に医務室に来て話し相手になってくれた。
客との間にあった出来事を面白おかしく話し、早くお職(しょく)争いしようぜ、と軽い冗談で元気づけてくれた。
初めて抱かれたのが好きでもない壮年の男で意気消沈していた信は、そのおかげで元気を取り戻し、やがて退院した。
そして、徐々に傾城としての生活に順応していったのである。
そのように信を立ち直らせてくれた張本人があるとき体調を崩した。
元気がなくなり、感情の起伏が激しくなり、食が細くなり、夜眠ることができなくなったのだ。
だが、そうまでなっても一樹は休もうとしなかった。
信は心配して常勤医に相談し、医務室にしばらく入院させて休ませようとしたが、本人は頑として拒否した。
そうしてついに眠剤等の処方薬を客から手に入れて使いだした。
夜眠るためだと言い訳していたが、薬の量はどんどん増え、それと反比例するように痩せていった。
医師の診断を受けずに処方薬を服用するのは非常に危険である。それが精神病の薬ならなおさら、症状を悪化させる可能性があるからだ。
信はそうやんわりと指摘し、薬を飲むのをやめるよう言ったが一樹は聞かなかった。
のっぴきならない事態になったと判断した信と章介は、そこでなんとか一樹を説得し、玉東区外の精神病院に連れていった。
そこで下った診断は、躁うつ病と不安障害だった。
一樹はやはりかなり追い詰められた状態だったのだ。
だが、手遅れではなかった。
医者の勧めで投薬治療とカウンセリングを始めると一樹の状態は徐々に改善し、体重も戻ってきたのだ。
信は心底安堵し、もうこれで大丈夫だと思った。
だが、現実はそんなに甘くなかった。
次なる試練が待っていたのだ。
それは、信の客、小岩雅貴が起こした刃傷沙汰だった。
小岩は、初期の頃からついていた馴染み客で、知的な優男だった。
年もさほど離れていなかったから、兄のような感覚で英文学を教えてもらったりしていた。
西洋美術や海外文学を好むあたり信と趣味が似ており、物腰も柔らかで嫌なことを強要するようなこともなかったから、当時は良客だと思い込んでいた。
それが間違いだったことが判明したのは、信が小岩と出会って二年半後、ちょうど一樹が回復しかけている頃だった。
事件の日、小岩はいつになく張りつめた雰囲気を身に纏っていた。
何かの拍子で糸が切れてしまいそうな緊張感に、信は不審を察知した。
そしてそのことを遣(や)り手の右腕である番頭新造(ばんとうしんぞう)の伊沢に報告したが、気のせいだろう、と追い返されて特に対処されなかった。
伊沢も元は傾城だったが、その時は完全に経営側の人間になっており、一樹を休ませろとしつこく要求する信を快く思っていなかった。だからそのような処遇になったのだろう。
傾城を統括する立場である伊沢には傾城の身の安全を守る義務があり、不審な客を厳しくチェックしているのも見てきていたから、単純に私怨か見落としだったのだろうと思う。
事実、小岩はそれまでに問題行動を起こすこともなく、店側もノーマークだったはずだ。
だから、結局信は小岩に一人で対応することになった。
事件が起こったのはその時だった。
小岩が刃物を出し、想いが報われないのなら死ぬしかない、と言って自らの体にそれを突き立てようとしたのだ。
この時はじめて大変なことになったと悟った。
実は、だいぶ前からたびたび好きだというようなことを言われていたのだ。
しかし、まさか本気だとは思わずに適当に流していた。
それが仇になった。
小岩は本気で、ここまでするほどに思い詰めていたのだ。
信は慌てて止めたが、小岩の決心は固く、自らの腹に向かって刃物を振り下ろした。
その瞬間、考えるより前に体が動いて、信は小岩の腕と体をつかんだ。
不意をつかれた小岩が驚いて体勢を崩し、そのままもつれあって倒れた拍子に、そのナイフが信の腹に突き刺さった。
自重でかなり深くまで刺さり、信は瞬間的に、死んだかもしれない、と思った。
その位衝撃が大きかったのだ。
薄れゆく意識の中で、自分を呼ぶ章介の声だけが響いていた。
都市伝説だと思っていた走馬灯が本当によぎるのに驚きながら、やがて信は意識を手放した。
もう覚めることはないだろうと思いながら閉じた目は、しかし再び玉東病院の入院病棟で開き、信は一命を取り留めたのだった。
小岩は、罪に問われることこそなかったものの、傾城に手を出したことで店を出禁になり、その噂が玉東中に知れ渡ったので、事実上玉東には出入りできなくなった。
小岩が起こした事件の顛末はこうだった。
そしてこの事件が、一樹が再び体調悪化する引き金になってしまった。
なぜかといえば、信がしばらく働けなかったからだ。
これに不満を持った遣り手が売れっ子だった一樹に圧力をかけ、また働かせ始めたのだ。
遣り手は元より一樹の精神状態など気にかけておらず、一樹が限界を迎えるまで使い潰すつもりだった。
区外の病院への通院も認めていなかった。
それを、一樹を休ませる代わりに自分が働くという条件で認めさせた信がダウンしてしまったので、遣り手は当初の計画通り一樹を酷使し始めたのだった。
当然信はこれに抗議し、体が回復次第すぐに働き出したが、一樹はまた以前のように休まなくなった。
それは、信の体を案じたからだ。
信も一樹が心配だから、互いに休めない。
小岩の思惑通りに、両方が働き詰めという状況だった。
信の方は幸い怪我の治りが良く、体調は良好だったが、一樹の精神状態は悪化していた。
再び落ち込んだり興奮したりするようになり、不眠症も再発した。
なお悪いことに、前の薬の量では足りなくなり、処方薬ではあるが、どんどん薬の量が増えてしまっていた。
薬やカウンセリングではなく休みが必要なのに、休めない。
そのせいで一樹は眠れなくなり、ついに違法ドラッグに手を出すに至った。
とにかく寝たい一心だったのだろう。
この時点で信は、一樹を足抜けさせる決意を固めた。
足抜けとは、契約期間が終わっていない傾城が店から逃げ出すことで、これは店で最も重い罪である。
捕まった場合、足抜けしようとした者、及びその手引きをした者は河岸の『地下』と呼ばれる店に払い下げられる。
この『地下』というのは、過激なSM等の違法行為を行う完全会員制の店の総称であり、そこに落ちたら最後、五体満足では出てこられないとすらいわれる恐ろしい場所だ。
だから、そんなリスクを冒して足抜けしようなどという猛者はほぼいなかった。
だが、信はもう一樹を足抜けさせるしかない、と感じていた。
この調子でいくと契約満了の五年後まで保たないだろうと思ったからだ。
ドラッグに手を出したら先は長くない。
実際、オーバードーズで死んだ同僚もいたし、精神に異常をきたし行方知れずになった者もいた。
だから、リスクを冒してでも逃がすしかないと思った。
そう決めた日から、信は、なんとか一樹を逃がす方法はないかと探り始めた。
そして、運に恵まれて小岩が一樹の実の叔父だったことを突き止め、それを小岩に頼むことにしたのだった。
小岩は事件後、店には来ていなかったが、謝罪させてくれと請われ、玉東外で会っていた。
その時に土下座され、償いをさせてくれと言われていたから、ならばと一樹の身辺調査をお願いしたのだ。
結果は驚くべきものだった。
なんと、小岩は一樹の母の実の兄だったのである。
一樹の母は若くして家出して以来家族と交流がなく、そのせいで小岩は子供がいたことも知らなかったらしい。
実はその子供こそが一樹であり、甥だったのだ。
これには小岩も驚いた様子だった。
信も驚き、そしてこれが神の配剤であると確信した。
小岩に保護してもらう他一樹が生き延びる道はない。そう確信し、小岩に一樹を引き取ってもらえないかと打診した。
小岩はすぐに承諾したが、一樹が同意しないのではないか、と懸念を口にした。
確かに、一樹は信を心配して、残していけないと言う可能性がある。
しかしまあ、言うだけ言ってみようと、一樹に提案してみたが、案の定即却下された。
理由は、信達が予想した通りだ。
一樹は、お前らを残していけるわけがない、と頑なに落籍の話を受けなかった。
そしてその後、何度説得しても一樹は首を縦に振ってくれなかった。
その間にも月日は流れ、一樹はどんどん疲弊してゆく。
もはや猶予がないと思った信は、腹をくくって一樹を足抜けさせることにした。
だが、足抜けは重罪である。
もし手引きしたとバレたら、前科のある信は今度こそ河岸行きを免れない。
だから、一樹と一緒に逃げようかとも思ったが、その場合、章介に類が及びそうでできなかった。
ならば章介と三人で、と思い、さりげなく提案してみたが、そんな危険なことはできない、と一蹴された。
それで信は、最終的に一樹一人を逃がすことに決めた。
小岩の依頼人に一樹を玉東の外に連れていってもらい、その後小岩と合流して渡米できるよう手配したのだ。
その際に、ずっと一樹を探していた母親も一緒に連れていってもらった。
店のバックについている組織の者が母親の居場所を見つけないとも限らないと思ったからだ。
そうやって周到に用意した計画は成功した。
一樹は無事、小岩と母親と渡米し、完全に店の者の手が届かないところまで逃げおおせたのである。
このときどれほど安堵したかしれない。毎朝起きるたびに一樹がまだ生きているかどうかと思う生活に、精神的に疲弊しきっていた。だから足抜けが成功した日の夜はぐっすり眠れた。
しかしその後すぐに遣り手に手引きを疑われた。
一樹と最も仲の良い信が疑われるのは当然である。信は、章介にまで累が及ばぬように足抜けの手引きを認めた。
すると遣り手は激怒し、信を地下の折檻部屋へ監禁した上、これまでなかったぐらい酷く痛めつけた。
通常使うことのない薬や道具を使われ、ほぼ拷問のような制裁を受けた。
だが、金儲け主義の遣り手が稼ぎ頭の信を潰すようなことは絶対にしないとわかっていたので、信はなんとか耐え抜いた。
そして地獄のような一週間ののちに解放された信は遣り手から一樹の残りの契約年数を追加で契約しお職を張り続けるか、河岸に行くか選べと選択を迫られた。
信は、両者を天秤にかけた結果、前者の方がマシという決断を下し、店に残ることにしたのだった。
そうして今に至る。
常にトップから落ちるのではないかという恐怖と闘いながら、毎日馬車馬のごとく働いている。
だが、遣り手とのこの内々の契約を章介に言うつもりはなかった。
もし信の契約が延びたと知ったら、激怒して遣り手のところへ怒鳴り込みにいくだろうと思ったからだ。
怒鳴り込んだからといって要求が通るわけがないし、それどころか、せっかく遣り手から優遇されている章介の心証を落とすことになる。
そんなことになってほしくなかったから、信は章介に真実を言わなかった。
そして、一樹の行き先についても言ってこなかった。
章介のことは信用しているが、万万万が一にでも漏れたら大変なことになるからだ。
そのように思って、信は一樹の足抜けからの一年を過ごしてきた。
だが、そろそろ章介にだけは言っておくべきかもしれない、と思い始めていた。
章介が、一樹がどうしているかしきりに気にしているからだ。
それは、遠回しに信に聞いているのと同じだった。
信頼を示すためにも、このあたりで伝えておいた方がいいだろう。
そう思って過ごしていた信が、ついに話す機会を得たのは、足抜けからちょうど一年が過ぎた、紅葉の季節だった。