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 その翌週、信は秋二と章介と共に裏山に来ていた。
 そこは、紅葉シーズンということもあって賑わっていた。
 傾城を伴って紅葉狩りに来る遊客も多い。
 そのため、三人は表の山道を避けて南側から登っていた。
 ここは、章介が見つけたルートで、客にも、傾城にもほとんど知られていないから、のんびり散策が楽しめる。
 三人はそこをゆっくり登っていた。
 赤や黄に色づいた木々を見上げながら歩いていると、章介がふと前を行く秋二を見て目を細めた。
 何か思うところがあったのだろうかと、信は聞いた。

「似てる?」
「似ていないと言ったら嘘になる」
「そっか」
「……ところで、いったいどうしてそんな恰好を?」

 章介は呆れたように言った。
 この日、信は青い友禅を着て薄化粧までしてきていた。
 特に深い意味はなく、せっかく紅葉を見に行くから着飾っていこうと思ったのだ。
 信は、さほど女装に抵抗がなかった。
 章介には理解できないんだろう、軽く眉をしかめている。
 その反応を見て、少しからかいたくなり、信は言った。

「どう? 今日は髪下ろしてみたんだよ」
「……恥ずかしいとは思わないのか?」
「荷物を持ちたくなくて」
「まったく、お前は……」
「男ふたりが女の子にでっかい荷物持たせてたら、周りの顰蹙を買うだろ」
「最初から持たせる気などない」
「そうだったの?」

 わざと小首をかしげて上目遣いで見てやると、章介は苛立ったように信の身体を押しやった。

「うわっ」
「秋二! そこ足元に気をつけろ!」

 そうして足を速めてさっさと秋二の方に行ってしまう。

「あっ、ちょっと待ってよ、章介」

 だが、章介は振り返りもせずに行ってしまった。
 信はくすりと笑ってそのあとを追った。
 信は女装が嫌いではない。皮肉にもそれに気づかせてくれたのは玉東での仕事だったが、それ以来休日はたまにこうして女装することがあった。
 しかしノンケの章介にはそれが受け入れがたいようだ。
 仕事上でもそうでなくても信が女装するとこうして反応する。
 はじめのうちは気持ち悪がられるのでは、と控えめにしていたが、反応しつつも強く拒絶されることはなかったので、最近はもうやりたいようにやっている。
 そもそも髪を伸ばしているので女物の方が映えるのだ。
 信はそんなことを考えながら、のんびりと裏山を散策した。

 紅山の中腹には少し開けた場所があり、そこには木陰になっている場所がいくつかあって休憩できるようになっている。
 信は持ってきたシートを敷くと腰を下ろし、お茶を飲んだ。
 いくらなんでもこの格好で山頂までは行けない。
 二人の姿がないところを見るに、展望台のある山頂まで行ったらしかった。
 お昼はここで食べることにしているから、そのうち合流できるだろう。
 そう思ってのんびり過ごしていると、不意に若い男の集団が近づいてくるのが見えた。
 大学生だろうか、かなり若い男四人が何事かを話しながらこちらに近づいてくる。
 アクセサリーをじゃらじゃらと着け、明るい茶髪のいかにも軽薄そうな男ばかりだった。

「ねえ今一人? 下のお店の人?」
「そうですよ」

 その中の一人に聞かれて答えると、男たちが声の低さに反応した。

「えっ、男?」
「うわ男かよ」
「見えねえ」

 自分を不躾に見てくる相手に、信は微笑んで言った。

「白銀楼っていうお店で働いています。よければ今度お越しになってください」
「白銀楼……? ああ、野郎しかいない店か。何か聞いたことある」
「何で知ってんだよお前。ホモか?」
「いや俺は行ってねぇよ? 行く気もねーし。あーあ、男かよ。行こうぜ」

 そばかすの男がそう言って踵を返しかけたが、他三人はまだこちらを見ていた。
 下世話な好奇心を隠さぬ表情だ。

「ホモ?」
「そーゆー店で働いてんだからそういうことだろ。なあ、ケツ掘られるのってどんな感じ?」

 眼鏡の男の問いに、信は表情を崩さず答えた。

「お店に来てもらえれば全部お話ししますよ。微に入り細に穿って全部ね。二時間三十万ですけど」
「「三十万?!」」
「ええ。私、呼び出しなもので。あ、呼び出しってご存じですか? トップってことですけど。この呼び名ってある程度のお店でしか使われないんですよねえ」

 暗にお前らなんかじゃ払えないだろ、と揶揄してやると、男たちの顔がわずかに赤くなった。

「高すぎだろ」
「何それそこぼったくりバーかなんか?」
「調子乗りやがって、カマ野郎が」
「ふふ、いつか来てくださいね」

 信はそうとどめを刺し、すごすごと退散してゆく男たちを見送った。
 面倒な絡まれ方をしたときはこれに限る。
 揚げ代を引き合いに出して面子を潰してやれば、プライドが高い男はだいたい追い払えるのだ。
 男の傾城は珍しいため、絡まれることも多いが、このやり方を覚えてからは嫌な思いをすることもなくなった。
 信はそんなことを思いながら、周りの赤と黄に色づいた木々を眺めた。
 紅山はその名の通り落葉樹が多いため、秋にはこうして美しい紅葉を眺められる。
 今日来たのもそれを見るためだった。
 表側のメインの山道はこの時期観光客でにぎわっているが、裏側のルートは意外と人が少ない。
 今日三人が登って来たのもこの裏ルートである。
 だから目立つ格好で来たのだが、遊客の中にもこちらのルートを知っている人がいたらしい。
 今度は普通の服で来よう、と思いながらしばらく待っていると、やがて山道の上から章介が下りてきた。

「おかえり。ずいぶん早かったね」

 武士然とした大男は、わずかに顎を引いてちらと後ろを見てから言った。

「明らかに絡まれそうなのがここにいるからな。秋二は山頂まで登るそうだ。……もしかして、もう絡まれた後か?」

 信は曖昧に笑ってごまかし、話題を変えた。

「大丈夫だよ。秋二はやっぱり体力があるねえ。野球をやってただけある」
「そうだな」
「辛かっただろうな……」

 章介は痛ましそうな表情で頷いた。
 玉東に沈められた者たちが皆共有する、剥奪された、という感覚を今ふたりは強く感じていた。
 冷酷な暴力と醜い欲望によって永遠に断たれた夢が、ここには何百何千と漂っていた。
 秋二は甲子園への挑戦を許されるはずだった。プロになるという夢を抱く権利を、その機会を与えられるはずだった。
 しかし今、彼は土俵に立つことすら許されず、この地の底で人間のもっとも醜い部分を処理させられている。
 地に這いつくばらされて、蔑まれて、身体の使用権を他人に金で買われている。
 あまりにも残酷で救いがないではないか。
 信はため息をつきたくなるのを堪え、シートの上に落ちた赤い葉っぱを透かして太陽を見た。

「私は大して失うものがなかったからまだいいけど、ああいう子にとってここは地獄だろうね」

 信も章介も、家庭環境には恵まれずに育った。だが秋二は違うだろう。
 まっとうな家で普通に育ってきた子にしか見えなかった。
 
「そうだな……。おれはもっともっと登りたかった……冬の穂高に行きたかった……」

 章介は単に山登りの話をしているのではない、と信にはわかった。
 彼はきっと、登山家になりたかったのに違いなかった。
 だから信は、契約が終わって外に出れば登れるじゃないか、とは言わなかった。

「冬山かあ……いいなあ。スキーを思い出すよ。あの雪山の清浄な空気というか、いいよね」

 スキーと同時に思い浮かぶのは母の顔だった。
 どちらかというと似ていない、と言われた彼女の生き生きとした表情が蘇ってくる。
 母は行動的で、闊達としていて、賢くて、面白くて、自立した女性で、そして何より絶対の味方だった。
 だから夫からどんな虐待を受けようと、別れようとしなかった。そして、そのことで信に当たったことは一度もなかった。
 信の存在が明らかに枷となっていたのに。
 彼女は強かった。強く献身的な母だった。
 だからこそ、脆かったのだ。
 母親といえどもあくまで人間であり、聖人とはなれないことを、誰かが教えるべきだった。
 誰かが、手を掴んで引き上げるべきだった。
 その誰かに、自分が一番なれるはずだった……。

「母も好きだったよ。毎年のように連れて行ってくれた」
「そうか……」

 章介はまたも痛みを耐えるような顔になった。

「おれの親はどちらもろくでもなかったが、しかし長瀬さんには会いたいな」
「ずいぶんお世話になったとか」
「そうだ」

 章介は頷いた。長瀬というのは章介がお世話になった地元の山岳会の人らしかった。

「山の良さはあの人のおかげで知ったようなものだ……。それに技術も一流だった。あの人に付いていけば、何かが得られると思っていた……きっと何か…得難いものが手に入ると……何かを成し遂げられると……」

 章介はそこで口を噤んだ。
 その顔は逆光になっていたがそれでもはっきりと苦渋の表情を浮かべていることがわかった。
 それを見て胸が苦しくなり、視界が滲み始める。

「私も、もっと明るい場所で生きたかった……」

 ただ普通に暮らせたらどんなによかっただろう、と信は胸の内で思った。
 もっと明るい場所で、人の醜さや暗部を見ずに生きていけたらどんなによかっただろう。
 人の善意だけを信じて生きてゆけたら、どんなによかっただろう。
 ただ普通の人間として普通の生活を送ることができたらどんなに幸せだっただろう……。
 しかし現実を見れば人生はその逆をいっている。
 堕落した人間たちが欲望を吐き出す掃き溜めで、人間未満の扱いを受けている――現実はこうなのだ。

「どうしておれたちだったのだろうな……」

 この問いの答えを、信も章介も求め続けている。
 しかし神は沈黙したままだった。

「あのね、この機会にちょっと話したいことがあって。一樹のことなんだけど」
「……ああ」

 すると、隣に座った章介がこちらを見つめた。ずっとそれを待っていた、と表情が語っていた。

「もう二年だね」
「そんなに経つか」

 章介は空を見上げた。まるでそこが一樹のいる世界とこちらとの架け橋であるかのように。
 信もまた顔を上げ、上空を見た。そして、呟くように言った。

「アメリカにいる」
「え?」
「一樹は今アメリカにいるよ。東海岸」

 信は章介が自分を凝視しているのに気付き、そちらを向いて目を合わせた。
 
「小岩さんと一緒に暮らしているよ。引き取ってくれたんだ」

 章介は絶句した。

「あのふたり、怖いくらいに顔が似てたの覚えてる? さもありなん、小岩さんは一樹の実の叔父さんだったんだ。調べていたら偶然わかってね。それで、引き取ってくれるようお願いした。それで一緒に計画して一樹を逃がしたんだよ」
「そうだったのか……」
「うん。お母さんとも再会できたって。病院にもちゃんと通ってだいぶ良くなったみたいよ。で、今は大学生」
「よかったな」

 小岩というのはかつて信の馴染み客だった男で、信を想うあまりに自ら死のうとした過去があった。
 その際、止めに入った信が大怪我をし、店を出禁になった。だが、その後友人一樹の親戚であることが発覚したため、店に内緒で会いにいった。
 そして、何でもすると言った小岩に、一樹の足抜けの手引きを頼んだのだった。
 足抜けは無事成功した。そして一樹は小岩と共にニューヨークに渡り、新生活を始めた。
 その一樹に思いを馳せながら空を見る。
 ちぎれ雲がところどころに浮かんで、ゆっくり流れていた。
 きっともう元気になっただろう。過去はすべてここに捨てて、本当の人生を生きているだろう。

 足抜け当時はとても痩せていたが、もう元に戻っただろうか。現地の食事は口に合っているだろうか。
 そこまで考えて、そういえば渡欧した時は油っこいものと肉ばかりだったな、とふと思い返す。
 信は小学生の頃、ヴァイオリンの国際コンクールに参加するためヨーロッパに渡ったことがあった。
 その頃はまだ母親の体調も悪くなくて、一緒についてきてくれた。そして父もいた。
 思えばあれが一番長い家族旅行だったかもしれない。
 父はコンクールのことしか頭になかったが、信と母は観光を楽しんだりもしていた。
 音楽に真剣でなかったわけではないが、深刻に考えていたわけでもなかった。
 信に海外志向はなく、コンクールも父とヴァイオリンの先生に言われたから受けただけだった。
 どちらかといえば信が好んだのは、文学や美術であり、音楽は半分位は父の機嫌取りでやっていたに過ぎない。

 外見だけは瓜二つと言われた父は上昇志向が強く、将来的に信を世界的なヴァイオリニストにするつもりだった。
 そのために幼い頃から膨大な課題を課され続け、ヴァイオリンに触らなかった日はなかったといっていい。
 球技全般は禁止され、修学旅行に参加したこともない。
 友人達からは気の毒がられたが、それが当たり前だったから当時はなんとも思わなかった。
 しかし、今考えてみると、やはり行き過ぎだったようにも思う。
 そして、何よりの問題は、同じように感じた母が教育方針を巡り、父とたびたび対立していたことだった。
 天野家の家庭内不和の原因を作ったのは自分だったのだ。
 だから、母にはずっと申し訳なかった。今でもそう思っている。
 彼女が病んだ責任の一端は確実に自分にあったし、何とかできたかもしれない、と後悔し続けている。
 無理にでも家から連れ出し、二人で生きてゆく道もあったはずだ。
 それなのに行動を起こせなかった。そのせいで母は手も声も届かないところへ行ってしまった。
 遺書にはただ一言、ごめんねとだけ書いてあった。謝るべきは自分の方だったのに。
 だからもう二度とそんな思いをしたくなかった。
 一樹を半ば強引に足抜けさせたのはそのためだ。
 様子を見ているうち、手遅れになりたくなくて性急にことを進めた。
 母と同じ心の病に蝕まれてゆくのを、とても見ていられなかった。

 手引きしたのが信だと発覚した時、章介は激怒した。相談なしにリスクの高いことをしたことに怒ったのだ。
 信用していないのかと随分なじられた覚えがある。
 しかし、信は万全を期したかった。信用していないわけではない。だが止められると思った。
 当時、章介は一樹の精神疾患をあまり重く受け止めていない節があった。
 通院し、薬を飲んでいれば大丈夫だろう、というスタンスだったのだ。
 だが、同じような病に苦しんでいた信の母はそれでも死んだ。
 精神科にかかり、処方された薬を飲んでいたのに自ら命を絶ってしまったのだ。
 だから信は、一樹がいつでもその一線を超えうるだろうと思って毎日を過ごしていた。章介とはとらえ方が違ったのである。
 それで章介には最後まで計画のことを言わなかった。章介は止めるだろうと思ったからだ。
 その判断は間違っていなかったと今でも思っている。
 身近に精神疾患の患者のいる人間しか察知できない危機感みたいなものもあるのだ。
 章介には申し訳ないと思ったが、それから今までも万が一を考えて一樹の居場所や計画の詳細については話さなかった。
 だが足抜けからはすでに半年が経過している。そろそろ話すべきだろうと思い、今こうして真実を伝えたのだった。
 章介がかみしめるように言う。

「お前は正しかった」
「そう言ってくれるとありがたいかな」
「だけど次からは一人でやるな。危ないことは」
「わかった」

 信は頷き、顔を上げて流れゆく雲を見た。
 この空の向こうには一樹がいる。きっと元気になって、きっと幸せを掴んで。
 それを想像するだけで楽しくなる。
 いつかその未来が自分にも来ることを祈りながら、信はそうしてしばらく空を眺めていたのだった。