静かな室内に本のページをめくる音だけが響く。
信はその日の午前中、信は自室でゆったりと読書をしながら休日を楽しんでいた。
昨日、急に泊まり客がキャンセルになって、その分早く起きられたのだ。
このところ忙しかったのでこれはありがたかった。
こんなに朝早く起きられる日も珍しい。
このとき、信が傾城になって四年余りが経過していた。
半年前に心身共に衰弱していた友人の一樹が店を去り、大きな懸念事項のなくなった信は、このところリラックスして過ごせるようになっていた。
一樹がいた頃、特に最後の方は心配で読書も楽しめなかったのを思い出す。
瘦せ細り、精神不安定になった一樹がもう生きていないのではと思いながら朝起きる日々。
あと少しでも負荷をかけたら死んでしまう、そんな張り詰めた空気を漂わせる友人との生活は精神的にとてもきつかった。
信は、うつ病の母を亡くした経験から、一樹の状態の深刻さに気付いていた。十年の雇用契約を満了して玉東を出るまでもたない状態だったのである。
だから、ここから逃がすと決めた。あらゆる手を使って逃がすと。
白銀楼で、足抜けの手引きは重罪である。だから一樹を逃がすのには大きなリスクを伴った。
だがそのリスクを負ってでも玉東から出してやりたかった。もう大事な人を亡くしたくなかったから。
そして誰も巻き込みたくなかったので、信は一人ですべてを手配し、計画を実行した。
そのことに章介は激怒し、しばらく絶交状態だったが、自分が間違っていたとは思わなかった。
身近な人を多く亡くしてきたからわかる。
一樹のタイムリミットは近かった。
無理にでも介入しなければ、手の届かぬ所へ行ってしまっただろう。
だから後悔はしていない。激怒した店の遣り手に、一樹の分の契約年数を上乗せされたが些細なことだ。
今更数年刑期が延びたところで変わらなかった。
そういう昔のことをなんとなく思い返しながら午前中の静謐なひとときを満喫していると、扉がノックされた。
「信、起きてるか? ちょっと話がある」
今まさに考えていた友人、章介の声だった。
いつになく苛立っているな、と思いながら返事をすると、こわばった表情の相手が入ってきた。
「朝早くすまん。邪魔するな」
「お茶淹れるね」
いったいどうしたのだろう、と訝りながら立ち上がって茶缶を取り出したとき、相手が待ちきれぬように口火を切った。
「少し折りいって話があるのだが」
「うん」
早々話し始めたわりに、相手はなかなか言おうとしなかった。
「お客のこと?」
章介は肯定も否定もしなかった。
トラブルでもあったかな、と思いながら湯呑みを黒塗りのお盆に載せてテーブルまで運ぶ。
茶菓子と共に友人に出すと、それを受け取ろうとした相手と指先が触れ合う。
章介はビクッとして手をひっこめた。
「?」
「………」
挙動が明らかに普段と違う相手に、信は首を傾げた。
「何?」
「………」
章介はなかなか切り出さない。視線をうつむけて自分の両手をじっと見つめていた。
信は先ほどまで読んでいた本を取り上げた。
「じゃあ心の準備ができたらということで」
そしてしおりをはさんでいたところを再び開き、湯のみ片手に読書を再開した。
部屋に再び沈黙が落ちた。
どれくらい経った頃だろうか。ちょうど二章分を読み終え、三章目に入ろうとしたそのとき、やっと章介が口を開いた。ようやく決心がついたらしかった。
「共揚げさせろと言われた」
信は顔を上げた。共揚げというのは二人以上の傾城を座敷や本部屋に揚げることだ。
そして、単に傾城たちを一緒に呼ぶときには共揚げとは言わない。
傾城二人以上と寝ることをそう呼ぶ。
つまり章介が言っているのは、一緒に客の相手をするということである。
そういうことを一番嫌いそうな章介の口からそんなことを聞くとは思わず、信は思わず相手を凝視してしまった。
「座敷じゃなくて?」
「ああ……断れなかった」
「私の方から断ろうか?」
そう聞いてみると、章介はわずかに首を振った。
「いや……」
「そっか。まあ多分うまく誤魔化せるだろうし、私の方は大丈夫だけど」
「そうか……悪いな」
「大丈夫だよ。話ってそのこと?」
「……ああ」
信は相手がやけに口ごもっていたわけを理解した。
「申し訳ない……。どうしても断れなくて」
「うん大丈夫。誰から言われたの?」
客に弱みを握られたくさいな、と思いながら茶を啜る。
「穂波だ」
「ああ、あの人……」
穂波というのは昔から章介に執心している客だった。
三日とあけずに通ってくる熱心な馴染みでもある。
章介はこの客を嫌っていて、穂波が登楼する日はだいたい機嫌が悪かった。
「ずっと断ってたんだが押し切られてな」
「そっか。うん、大丈夫だと思うよ」
つまり断れなくなった原因があるというわけだ。それを突き止めてあちらの弱みを握ればこの話は流れるかもしれない。
章介は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「悪いな。じゃあおれはそろそろ」
気まずそうに謝って腰を上げた章介に、信は言った。
「お昼に禿の子たち連れてご飯食べに行こうと思うんだけど、一緒に行かない?」
「まあ……いいが」
「十一時ごろに出ようかなと思ってるんだ」
「わかった。悪い、巻きこんでしまって」
心底申し訳なさそうに謝る章介に、信は微笑んだ。
「じゃあまたあとでね」
「ああ」
章介は頷き、部屋を出ていった。それを見送ってから、信は軽く息を吐き出した。
店に来て以来、およそ六年間苦楽を共にしてきた友人と一線を超えるのは、はっきり言って嫌だった。
信は同性愛者なので、出会った当初はこの美丈夫に魅力を感じたりもしたが、章介はまったくその気がなかったから早々に諦めた。そして、それ以降は純粋な友達として付き合ってきた。
章介は無愛想で無口だが誠実で堅実な性格で、人を悪く言うことがなく、情緒もここにいる大多数の傾城よりはるかに安定した、非常に付き合いやすい人物だった。
そしてこれが何より重要だったことであるが、章介はそれまでの友達と違って信を姫扱いすることなく、対等な男友達として扱ってくれたのである。
おかげで信は人生で初めて親友というものを得た。だからとても大事な存在なのだ。
そういう相手と性的なことはしたくない、というのが本音だ。
だれも友達とセックスしたいなどとは思わないだろう。
だから穂波の身辺調査をして必ず弱みを突き止め、この共揚げは阻止する。
そして願わくばもうこの店に来れないようにしたい。章介が嫌がっている相手だからだ。
信はさてどの客に調査を頼むべきか、と思案しながらその日の午前中を過ごしたのだった。
その日の昼、信は章介と自分の禿達と店の近くの食事処へランチに行った。
育ち盛りで食べても食べてもお腹がすくというのでイタリアンの店だ。
元気な子が多いので個室を取り、皆でテーブルを囲んだ。
六人掛けのテーブルに部屋つき禿の伊織、夏樹、敦也、それに秋二と章介と座って昼食を摂る。
信は章介とぽつぽつと会話を交わしながら横で盛り上がる禿たちを眺めた。
皆若くてはつらつとしている。彼らは薔薇色の頬を紅潮させて、何のゲームを買いたいかについて談義していた。
「やっぱゲームだな。『キングズ・エンパイア III』出たじゃん?」
「えーまだ高いよ。それより『カークラッシュ』の方がよくない? 四人でできるし」
信の部屋には客からもらった家庭用ゲーム機とテレビがあって、歴代の禿たちのほとんどはそれで遊んでいた。
今期の子たちも例外ではなく、よく部屋に来ては四人でゲームをしている。
ゲームショップは玉東にないのでだいたい通販で買っているようだが、次に何を買うかで揉めているようだった。
「最近RPGやってないからRPGがいい」
「『ホール・オブ・フェイム』! 絶対『ホール・オブ・フェイム』!」
それぞれが自分の希望を言っているだけなのだが、なぜか最後には会話が噛み合うのがこの四人の不思議なところだ。
「ンな古いヤツ買うの?」
伊織が言うと、秋二が反論する。
「あれはなあ、不朽の名作と言われてんだよ。そりゃグラフィックとかはちょっと粗いかもだけどクオリティ高いんだぞ?」
「『デビルズ・ロード』は?」
敦也が聞くと、秋二が答えた。
「いや『ホール・オブ・フェイム』の方がいい」
「えー、レーシングゲームにしようよ。頭使うのヤだ」
夏樹のことばに、伊織が呆れたように返す。
「お前、ゲームまでめんどくさがってどーすんだよ? そのうち脳ミソ溶けて耳から出てくるぞ?」
「もー、いじわる言わないでよ。僕は単純なのが好きなの。あとみんなでできるやつ」
「確かに、四人でやれるやつがいいな。か、最低ふたり」
夏樹に敦也が同意する。すると秋二が口を開いた。
「あーもうめんどくさい。信さんに決めてもらおーぜ」
そのことばに、一斉に禿たちの目が信の方を向いた。
「決めてください! どれか」
「ゲームのことはよくわからないけど、良い決め方を教えてあげるよ」
信はそう言うと鞄からメモ用紙とペンを取り出した。
だいたい何か迷ったときにいつも使っている方法だ。
信はメモ用紙を横向きにし、上部に『利点』『欠点』と間隔をあけて横に並べて書き、その左下にゲーム名を縦に並べて記すと、直線でそれぞれの単語を区切って表を作った。
それぞれのゲームの長所・短所が一目でわかる表だ。
「こうして……じゃあまず『キングズ・エンパイア』の良いところは?」
「ふたりでプレイできる」
「戦略ゲームでおもしろい」
「グラフィックが綺麗」
口ぐちに答えた後輩たちに頷いて、信はそれを利点欄に書きつけた。
「じゃあ短所は?」
「高い」
「新しいからまだレビューが多くない」
一通り意見が出揃うと、項目は全部で二十個ほどできていた。信は書く手を止め、表に見入っている少年たちに続けて聞いた。
「そうしたら、次に点数を付けよう。例えば、最初の『ふたりプレイ可能』は、次の『おもしろさ』に比べてより重要?それともそうでもない?」
「より重要。みんなでできる方がいいから」
敦也が答える。
「じゃあ『おもしろさ』を三点とすると『プレイ人数が多い』は五点満点で何点?」
「うーん、五点?」
「次、『グラフィック』は?」
「二点くらい?」
伊織が興味深そうに紙片を覗きこみながら答える。信はそれぞれの横に丸で囲った点数を書き、次に移った。
「では欠点の方を……『値段の高さ』はどれくらいのマイナスかな?」
「五!」
「四!」
「いや三ぐらいでしょ?」
「じゃあ間をとって四くらいにしようか。『レビューの少なさ』は?」
「マイナス一?」
「だな、そのくらい」
今度は意見が一致したようだ。信は頷いて項目の横に『-1』と書きこんだ。それから、作品名の上に『+5』と書いて言った。
「じゃあ『キングズ・エンパイア』の総合得点は、『+5』だね」
「おー、すげー、わかりやすい……」
「これなら決められるかも」
目を丸くしてメモを覗きこんでいる禿たちにペンを差し出してやり、信は言った。
「残りは自分たちでやってごらん」
四人は額を突きあわせて話し合い始めた。
どれを買うことになるかな、と思いながらデザートをつついていると、不意に章介が聞いた。
「何教えたんだ?」
章介の問いに、信はプリンを一口食べてから答えた。
「プロコンの表」
「ああ、例のヤツか」
「何のゲーム買うかで迷ってたみたいだったから」
「……そういうときにも使えるのか。大事な局面でのみ使うものかと思っていた」
「結構何でも使えるんだよ」
「なるほど……で、『例の決断』をしたときも使ったわけか」
章介は、他の傾城たちがふたりなど眼中にないのを確認すると、低い声で聞いてきた。
章介の言う『例の決断』とは、一樹を足抜けさせたことだ。
「いや? 使うのは迷ったときだけだけど」
「つまり迷いは一切なかったということか。まったく、お前は……」
信が首を振って即答すると、章介は呆れたようにこちらを見た。
そしてほおづえをつく。
「でもきっと、よかったんだろう……」
「わかってくれてうれしいよ」
「ただ……心配だ、お前が。一樹のようにならないかと」
信は心底心配そうな顔で自分を見つめてくる章介に、心がじんわり温かくなるのを感じながら微笑んだ。
「まあ、なるようになるよ。あと半分だし」
「かもな」
その後話題は他愛ない話になり、二人は静かに会話を交わしながら昼食を済ませたのだった。
◇
その後一週間、信は自分の馴染み客に頼んで穂波の弱みを探し続けた。
だが結果として駆け引きの材料になりそうなものは入手できなかった。穂波は思いのほか隙のない男だったのである。
それで共揚げは吞まざるをえなくなってしまった。
章介が頼んでくるなどよっぽどの弱みを握られているに違いない。だから信側から拒否することはできなかった。
当日の夕方、信はものすごく緊張して、軽く吐き気すら催しながら支度を整えていた。
時計を見ると午後四時半。あと一時間半後には確実にそういう事態になっているだろう。
何百回となく考えた、うまくごまかす方法をまたぐるぐると考えながら、自室を出て章介の部屋へ行き、扉をノックする。
「章介、入ってもいい?」
返事はない。
信は息を吐きだしてから覚悟を決め、扉を開いた。
入った途端に部屋にいた禿たちが沸き立つ。
二人は章介の部屋付き禿の凛と愛衣(めい)だった。
「菊野さん! わー、その仕掛(しか)け、お綺麗ですね。桜の花びらめっちゃ綺麗」
「かんざしも着物にピッタリ。綺麗~」
「ありがとう」
信は愛想よく笑うと、中に入って言った。
「ちょっと二人にしてくれるかな?」
「あ、わかりましたー。では失礼します」
「失礼します」
禿たちは丁寧にあいさつをして部屋を出ていった。章介はきっちりしつけをする主義なので、禿は皆このように行儀がいい。
信は努めて何でもないふうを装いながら口を開いた。
「あ、着付けほとんど終わってるね。あとは帯だけか。はい、袷押さえて」
「自分でできる」
「いいからいいから。せっかくだし。……よしオッケー。やっぱり上背があると見栄えいいよねえ。迫力がある」
章介が身に着けているのは、信を寝所に呼ぶなどというとんでもないことをやらかしてくれた馴染み客の穂波から贈られた、渋い黒の長着だった。
対する信は、白地に薄桃色の桜の花びらが品よく散らされた仕掛けを身に纏っている。
いつものように太鼓帯はなしで、着物はほとんど着崩さず、髪を上げて花簪を挿し、薄化粧を施した。
できるだけ章介に嫌悪感を与えないような出で立ちにしたつもりだった。
それを上から下へ一瞥した章介が、ようやく口を開く。
「急に腹を下した、ということにしたい」
「え、すっぽかすってこと?」
「……やっぱり無理だ。休む」
「でも……」
「信とは無理だ。お前だってそうだろ? 今回のが流れればあとはうやむやになる」
信とは目を合わさずにぼそぼそと言う章介に、核心を突く質問をする。
「私はいいけど……断れない理由があるんだろ?」
「……」
答えない。やはり弱みを握られているらしい。
そのうえでこちらが相手方の弱みを握ることができなかったことから、ドタキャンは得策ではないだろうと思う。
もしそんなことをしたら、章介に不幸が降りかかる気がする。
「あのね、実を言うとなんとかならないかなあと思ってあれから穂波さんのこと色々調べたんだけど、あの人見事に何もなくて。だからこちらに切り札がない状態で断って大丈夫かなと思って」
「……」
「部屋に行くっていってもご飯は食べるだろうし、酔いつぶしちゃえば大丈夫かなとかも思ったり。でも最終的には章介に任せるよ」
すると、章介はしばしの沈黙ののちにわずかに顎を引いた。
「そうだな。あいつは酒に強いから薬を混ぜるのもありか」
「うん。ふりだけしとけばいいよ。あと、今日何かあっても前みたいに無視しないでね」
前というのは信が一樹の足抜けを独断で手引きしたときに勃発した大喧嘩のことだ。
あの時、章介は何か月も一言も口をきいてくれなかった。
「また何か月も無視とかやめてね。約束?」
「……」
「章介?」
「……何か月もは、しない。それは約束する」
そう言って指を絡めてきたが、それでは不足だ。
「一、二か月はするとか? 章介、頼むから」
「……最大一ヶ月」
「一週間」
「二週間」
信は息を吐きだして、うなずいた。
「まあ仕方ないか。わかった」
すると、章介はぼそり、と呟いた。
「お前との関係を壊したくないんだ。変わらずに、いてくれるか? 今日が終わっても」
「大丈夫。今まで通りだよ」
そこでふと章介が信の花簪を見た。
それは一樹がよく着けていた椿の花簪だった。
足抜けの少し前に偶然もらったのを、信は今も大事に持っていて、時々着けている。
「それ……」
「よく着けてるんだよ。忘れ形見というかね。まあ一樹は元気なわけだけど」
「うまくやっているようだな」
「うん。いつか行きたいな、アメリカ」
「きっと行ける」
「そうだね。一緒に一樹に会いに行こう」
「絶対に、ここから出ような」
「うん」
信は頷き、章介に抱きついた。
ここで生き延びるために、この男を放してはいけない、と本能が言っていた。
地獄で生き延びるために必要なのは、強い精神でも運でも才能でもない。
それは仲間。頼るべき絶対の味方だ。信にとってはそれが章介だった。
だから、この共揚げは絶対に乗り切る必要がある。
章介との友情を壊してはならないのだ。
信は、きっとうまくやれる、と自分に言い聞かせて、友人の背に回した手の力を強めたのだった。