結果的に、共揚げは大失敗だった。
章介の魅力に負けて抱いてしまったのだ。
そう、「抱いた」。
同性が恋愛対象で、どちらかというとタチに近い信にとってはさほど大ごとではなかったが、これは、ノンケの章介からすれば大事件のはずだった。
章介は元々、男とのそういう行為を毛嫌いしている。
そんな相手を抱くなどということをしたらどうなるか、わかっていたはずなのに、止められなかった。
客から半ば強制されたのもあるが、それ以上に章介が魅力的だったのだ。
元々、出会った時から章介には性的魅力を感じていた。
筋肉質な美丈夫で、美少女然とした秋二とは正反対のタイプだったが、ストライクゾーンの広い信は両方タイプだった。
秋二が来る前は、もしその気があったらお近づきになりたいとさえ思っていたのだ。
だが、章介にその気は一切なかった。
彼は、恋愛対象が女性であり、男相手など考えられないというタイプだったのだ。
だから、そういう関係になることを早々に諦め、友人として付き合ってきた。
その方がお互いのためになると思ったのだ。
しかし、共揚げの話が出て頭をよぎったのは、これがきっかけで目覚めてくれないかな、ということだった。
秋二に強く惹かれているのは事実だが、全くその気がなさそうだし、なによりまだ十五だ。
二十三の自分が手が出せるような年齢ではない。
だから、章介が何かの拍子に男に目覚めてくれたらラッキーだと、不謹慎にも思ってしまったのだ。
本人はストレートだと思い込んでいるが、信の見立てでは、男もいけるはずだった。そういうのはなんとなく匂いでわかるのだ。
それで、ミラクルを期待して最後までやってしまった。
体の反応は悪くなかった。というか、それ以上だった。
どこもかしこも敏感で、竪琴のように、少し弾けばよく鳴る体。
章介には明らかに適性があった。
だからもしかしたら、と期待してしまったのだ。
しかし、そのようなご都合主義的展開は、残念ながら訪れなかった。
章介から返ってきた反応は強烈な拒絶であり、完全無視という措置だった。
話しかけても、答えてくれない。どころか、挨拶しても、目すら合わせてもらえない。
これは由々しき事態だった。
章介は信が初めて得た親友であり、数少ない本当に心許せる相手だ。
ここで失ったら、一番の拠り所を失うことになる。
玉東に落とされてからこっち、信はずっと章介と支え合ってきた。
互いの苦しみを共有し、色々な経験を乗り越えてきた。
章介は、多くを語らないが非常に懐が深く、賢い人物だった。
他の多くの傾城とは違って噂話や悪口を口にせず、また、表面的な情報で人を判断することもない。
そして、まっとうで、義理堅く、誠実である。
これは、賞賛されるべきことだった。
なぜなら、白銀楼のような場所で、このように品格を保てる人は少数派だったからだ。
ここでは人の本質が剥き出しになる。金と欲望とプライドまみれの世界だからだ。
外の世界でまっとうに生きることは難しくない。
しかし、玉東のような場所でそれができる人間は稀有だった。
だから信は章介を尊敬していたし、それに釣り合う人間になれるよう、努力してきたつもりだった。
だが、この一件でそのすべての努力が水泡に帰そうとしている。
邪な心で目先の欲望につられた結果、章介を失いかけている。
信は、事の重大さにめまいすら感じながら、必死で打開策を考えた。
ひとまず、前回の喧嘩の教訓から、無視は二週間までという約束はしてある。
章介は律儀な男だから、約束を破ることはないだろう。
その時に関係修復を図るしかない。
とにかく謝り倒す。それしかないだろう。
土下座でも泣き落としでもして、許してもらうしかない。
章介は信の見立て通りバイセクシュアルだった。
しかし、本人がそれを受け入れていない。
もっと正確に言えば、男に抱かれることを受け入れられていない。
だから、信のしたことに激怒するのも道理だった。
信は、章介が絶対に許せないことをしたのだ。
だからとにかくもう謝るしかない。
信は共揚げからの二週間、そんなふうに謝罪の言葉を考えながら章介からの無視に耐え続けたのだった。
◇
二週間後――。
信は、章介との和解のために大浴場を訪れた。
その日は食事のタイミングが合わず、食堂で会えなかったので、風呂場で章介を待ち伏せたのだ。
綺麗好きな章介は一日最低でも二回入浴するため、会える可能性が高かった。
仕事前なので長居はできないが、とにかく話だけでもしたいと思い、風呂場に行くと、やはり章介はいた。
ちょうど来たところらしく、脱衣所で棚に荷物を置くところだった。
近づいていくと、気配を感じた章介が振り返り、ハッとする。
そして、動揺したのか、入浴セットを取り落とした。
信は呻きたくなるのをこらえ、落ちたタオルやシャンプーの容器を拾って手渡した。
「お疲れ」
今日こそ返事のひとつでももらえることを期待してそう言ったのだが、章介はこわばった顔を背け、信に背を向けて、最大限離れた場所に移動した。
「何だよアレ、感じわりーな」
いつの間にか隣に立っていた傾城の大輔が、上衣を脱ぎながら言った。
彼は、信より少し前に店に入った同年代の友達だった。
情報通で、店の中で起きたことは大体把握している。
だから、信と章介の間にあったことも知っているはずだが、直接言及はしなかった。
「何か最近変じゃねえ? 章介、マジで喋んなくなったってか……ここ一週間声聞いてない気ィする」
「章介は悪くないよ。私がちょっと、やらかしてしまって……」
すると、大輔は少し考えたのちにこう聞いてきた。
「やらかしたって?」
「……」
「お前らが喧嘩なんて珍しいな。こじれる前に謝っとけよ」
「うん、そうだね…」
「じゃあ先入るわ。章介も信のこと許してやれよ〜」
そう言うと、大輔はものすごいスピードで下着まで脱ぎ捨て、浴場に向かっていった。
扉が閉まって脱衣所にふたりきりになる。
信は今だな、と思ってまだ部屋着姿の章介に近づいていった。
そして、気配に気づいて振り返った相手と対峙すると、章介は眉をしかめて横をすり抜けようとした。
しかし信はその前に立ち塞がった。
あの日からニ週間、目も合わせてもらえない。もう限界だった。
「二週間、経ったよ」
「……」
これほどの至近距離にいるのに未だ目を合わせてくれない相手に若干焦って続ける。
「約束、覚えてる?」
過去大喧嘩をしたときに数ヶ月無視されて堪えた信は事前に対策していた。無視は半月までと言質を取っていたのだ。
だから今日の今日まで我慢していたわけだった。
しかし章介は何も言わない。こちらを見もしない。
まさか本当に絶交されてしまったのか。
信は泣きそうになりながら謝罪した。
「本当にごめん。なかったことにできないかな?」
「………」
信は章介の足元に跪き、床に両手をついた。
「申し訳ありませんでした」
「おい、何を……」
「許してください。章介、お願い、許して。章介がいないと無理だよ。本当に、本当にごめん。許して」
「……もういいから立て」
章介の声音は先ほどよりも柔らかくなっていた。腕を掴まれ引き上げられる。
目を上げると、章介がこちらを見ていた。その瞳に険はなかった。
章介は信を立ち上がらせると言った。
「あの日は……何もなかった。それでいいな?」
「っ……うん!」
「こちらこそ巻き込んで悪かった。もうああいうことはないようにする」
「わかった。よかった、本当によかったよぉ」
信は目頭が熱くなるのを感じながら章介に抱きついた。
「何で泣きそうなんだよ」
「だって、だって、章介と話せなくて辛かったんだもん。このまま話してもらえなかったらって思ったら……ぐすっ」
「そんなことぐらいで泣くな」
「そんなことぐらいじゃないよぉ、章介がいないとダメなんだよぉ」
「お前なあ……」
章介は呆れた感じだったが、自分に抱きつく信を拒絶はしなかった。
それから信が落ち着くまでそのまま待ってくれた。
少しして落ち着きを取り戻した信は体を離し、聞いた。
「あの、もしよかったら今晩将棋しない? 仕事終わったら。今日ちょっと早めに上がれるんだ」
「ああ」
信は天を仰いで神に感謝した。絶交の危機は回避されたようだった。
安堵の息をついて服を脱ぎ、章介と共に大浴場に向かう。
すりガラス戸を開けて中に入ると、瞬間、にぎわっていた大浴場が一瞬ざわっとした。
章介といるといつもこうだな、と思いながらシャワー台に向かう。
本人は全く気付いていないが、彼にはファンが多いのだ。だから一緒にいると色々言われることもあった。
確かに控えめに見積もっても男前だな、と相手の完成された身体と引き締まった横顔をチラッと見ながら思う。
この店の商売相手が異性だったらお職は章介に違いなかった。
黒い大浴場の壁面にずらりと並んだシャワー台の前に座った章介はシャワーヘッドを取りつつ、ボソッと呟いた。
「これでまた煩わしい日常に逆戻りか……」
「えっ?」
信が若干ショックを受けて聞き返すと、章介は腰にタオルをかけたままこちらを少し見てカランをひねった。
「誤解するな、信のことじゃない。周りがうるさくなると思っただけだ」
友人の手のシャワーヘッドから湯がほとばしり出す。
そこに章介の武骨な指が差し入れられ、真っすぐ床に落ちていた湯がその形を変えながら相手の手と前腕を濡らしていった。
信はそのとき、相手が浴場に入った瞬間自分が感じたこととまったく同じことを考えていたことを悟った。
「気付いていたんだ」
信は自分もカランをひねり、湯の温度を調整しつつ返した。章介はちょうどいい温度になったらしいシャワーを浴びながら首を振った。
「さすがにそこまで鈍くない」
「そっか。でも私がいた方がいいだろ? 風よけになって」
「……」
「そうでもない?」
ふたりのシャワーから立ち上った湯気が高い天井に昇ってゆく。
黒い大理石風の壁と天井で、照明を反射した水滴がキラキラ光っていて、まるで星空が頭上に拡がっているかのような錯覚を起こさせた。
「……おれは信の話をしていたんだが?」
「あー、なるほど」
案の定、章介は自分の人気に気付いていなかった。
「お前も大変だな。傾城にまで構われて」
「……章介、理由もないのに女の子がいきなり自分の目の前で泣き出したこと、ない?」
すると髪を洗っていた手を止め、相手が驚いたようにこちらを凝視した。
「……なぜわかる?」
「まあ見てればわかるよ」
「どういうことだ」
珍しく追及してくる相手に新鮮さを覚えつつ、信は右後ろの窓際にある湯船の方を顎でしゃくった。
「あそこに目をキラキラさせてこちらを見てる子たちがいるだろ?」
「どちらかというとギラギラ、に見えるが……」
「ああ、その方がより正確かも。で、彼らは章介を見つつ、私を睨んでいる……なぜだと思う?」
「……睨む?」
ここまで鈍いといっそ天晴れだな、と思いつつ、信は続けた。
「私が邪魔だからだよ。あの子たちはみんな章介が好きなんだよ」
「………」
「だから注目されてるのは章介の方。それでなぜ私がいるとより煩わしく感じるかというと、私が彼らにとって目の上のたんこぶで、色々言いたくなるからだよ。嫉妬してるんだ」
すると、目の前の鏡に目を戻した章介は手を動かすのを再開しながら、信の言い分を否定した。
「違うんじゃないか? 嫉妬されているのはおれの方だと思うが」
「逆だよ。まあ、そういうことだから、もしよければ私を風よけにしていいよ」
すると章介は微妙な顔をした。
「風よけって……つまり、恋人のフリをするということか?」
「うん。まあ今更感はあるけどねえ」
信はそこで髪を洗い終えてシャワーを一度元に戻した。
「結構誤解されてるし」
店の人間の半数は勘違いしており、その上信は彼らに、「一樹がいなくなったとたんに章介に乗り換えた尻軽」とか非難されているのだった。
章介は動揺したようにシャワーヘッドを取り落とした。
磨き上げられた黒いタイル床に音を立てて落ちたそれを取ってやろうと手を伸ばした瞬間に、章介と手が触れ合う。
すると相手はビクッと身体を跳ねさせ、電光石火で手を引っ込めた。
信は少し複雑な気分になりながらシャワーヘッドを相手に手渡した。
「っ……! 悪い」
自身の大げさな反応を気にしてか、顔を真っ赤にして謝る章介に、信は首を振った。
「こちらこそごめん」
「……」
そこで会話が途絶えてしまった。まずいな、と思いつつも、信は自責の念から口を開けずにいた。
長い沈黙のあとで先に口火を切ってくれたのは章介の方だった。
「じゃあ、互いに風よけになることにするか」
そのひと言ですべてが免罪されたような気がして、信は思わず顔を上げた。
章介は精いっぱい笑みらしきものを浮かべてこちらを見ていた。
「そう、しようか」
相手は頷き、立ち上がった。
「風呂、行くか」
信は救われたような気持ちで相手にならって立ち上がり、その隣に並び立った。
そして一緒に湯船に向かったのだった。