湯船はいつも、例外なく信を安心させてくれる。それはそこが、温かく、そして絶対に危害を加えられることがないという保証がある場所からだ。隣に仲間がいればなおのことよかった。
信は窓際で湯につかりながら、章介と当たり障りのないことを話していた。
将棋棋士のこと、山のこと、天気のこと、献立のこと――章介といて最も良いのは、こういった何でもない話に終始し、穏やかに日々が送れることだった。
章介は人の噂話をしないし、悪口も愚痴もほとんど口にしない。それは彼の最大の美点であると思っていた。
これらのことを実行するのは一見簡単に見えて意外と難しい。人生の理不尽さやひとの残酷さに曝されてなお、これらを実行できる人間が実際には少数であることを、信は知っていた。
「はぁ、あったまるねえ」
信のことばに、章介が同意する。
「ああ。まだ何かと寒い日があるからな」
「昨日の夜寒くなかった?」
「寒かった」
世は梅雨の真っただ中だった。
連日雨に降りこめられ、客足がどの店からも遠のくこの時期、本来ならば見世もヒマになるはずだった。
しかし、敏腕経営者である遣り手が采配を振るう白銀楼に閑期は存在しなかった。
「雨の日ってよく眠れないか?」
「確かに。静かだからかな」
「ああ、それだな。それに、匂いもするし……」
「雨の匂い、いいよねえ」
信のことばに、章介は目を細めて窓の外に拡がる夜空を見上げた。
「山だとなおいい匂いがする。木と土の香りと混ざってな……知っているか、時間帯によっても微妙に違うんだ」
地方で大自然に囲まれて育ったらしい章介は故郷を懐かしむように言った。
「え、そうなの? どんな感じ?」
「そうだな、早朝は爽やかだ。夜のうちに空気中の汚れが取り除かれて、純粋な植物の匂いがするんだ。太陽が高くなると、今度は熟れた果実のように甘い匂いになる。植物がどんどん――」
急に饒舌になった章介が続けようとしたそのとき、近くに誰かが来た気配がした。一応源泉湧出らしい温泉の水面が揺れ、波紋が広がる。
なにげなくそちらに目を向けると、そこには先輩傾城の津田と朝比奈がいた。
何かとちょっかいをかけてくる二人だ。
嫌な予感がしたがあからさまに避けることもできずに、信は軽く会釈をした。
「お疲れさまです」
朝比奈はそれには答えずに薄笑いを浮かべながら浴槽に入ってきた。
「やっと仲直りしたのか? よかったな、また口利いてもらえるようになって」
続いて湯につかった津田が、いたぶりがいのある獲物を見つけたとばかりに目を輝かせながら続けた。
「もう許してやるのか? 心が広いな、紅妃は。菊野とヤったって聞いたときは、お前らの少年マンガに出てくるような熱い友情もこれまでかと思ったが」
悪い予感は見事的中した。ショックで石化している章介に内心焦りながら、信は言った。
「もう解決しましたんで、お気づかいなく」
「もう周知の事実になってるぞ。知らなかったのか?」
津田は信を無視して章介に追い討ちをかけた。
「っ……!」
「どうだった?」
「津田さんっ!」
いつも現れて欲しくないときに現れ、してほしくないことをし、言って欲しくないことを言って去ってゆくこの先輩は、今回も当然そういう目的でやってきていた。
「超絶技巧、だろ? 昔ヴァイオリンやってたとかで手先が器用なんだってさ。おれも被害者だから気持ち、わかるぜ」
章介がハッとして津田を見る。津田は我が意を得たりとばかりに得意げに続けた。
「仮にも同僚に対してアレはないよなあ? テキトーに茶濁せばいい話なのに」
再び自分を非難するような目で見始めた章介に、信は猛烈に焦りながら津田に小声で懇願した。
「その件についてはもう話は済んでるじゃないですか。章介に変なこと吹き込まないでくださいよっ」
津田は以前信と共揚げされたときのことをまだ根に持っていて、いまだにネチネチ言ってくる。
信に抱かれて男としてのプライドがズタズタになったらしい。
その件については謝罪済みだが、折に触れてはこうやって蒸し返してくるのだった。
津田はニヤニヤしながら章介を見る。
「何回イった?」
その瞬間、章介は勢いよく立ちあがった。
そして凍りつくような目で信を一瞥したあと、先に戻る、と唸るように言って湯船から出て行った。
「あっ、章介っ、ちょっと待って!」
追いすがろうとした信の身体はしかし、ふたりの先輩によって浴槽の中に引き戻された。
「は、離してくださいよっ」
「まあまあ。そっとしておいてやりなよ」
「そーそー。被害者なんだから。かわいそーに、あんなに真っ赤になっちゃって……お前本気でやったんだろ。酷すぎ」
ふたりの手から逃れようともがきながら、信は言った。
「だってつい……あの章介ですよ? 津田さんだっていざそうなったら……」
「キモいこと言うなよ。おれホモじゃねーし」
「じゃあ女性だったらって考えて下さいよ。我慢できないでしょ」
「まさかとは思うけど、あいつのこと好きなの?」
津田の問いに信は首を振った。
「好きとかではないですよ。だけど魅力的ってあるでしょ?」
「はっ、お前意外とクズだったんだな。何か親近感持てたわ」
朝比奈が笑う。対照的に津田は眉を顰めた。
「ヤりたいだけってこと? マジで言ってんの?」
「愛と欲は別じゃないですか。それで、それが一致したときが運命の人なんだと私は思ってますけど」
信にとってはそれが秋二だった。
「いや全然わかんない。お前ちょっと変だよ。エッチしたいってことは好きってことだろ」
「意外と乙女ですね、津田さん」
「いや乙女とかじゃなく……一般的な感覚だろ。なあ?」
水を向けられた朝比奈は微妙な表情になって言った。
「いや、おれはどっちかっていうと菊野側かも。客にしたってさ、おれたちのこと好きなわけないじゃん」
「それは話が別だろ。けどまあ、依存にしろお前は紅妃のこと好きだと思ってたけど違うのか。あいつにしたって……待てよ、お前まさかあいつ抱いてないよな?」
津田の指摘に信はドキッとした。
「まさか。逆ですよ」
「いや……そうなんだろ。だったら紅妃の反応も納得だ。お前を抱いたら、あいつ目覚めると思ったんだよ。無自覚だけどお前のこと好きだろ」
「それはないと思いますけど」
「そう思ってるのはお前らふたりくらいだよ。なるほど、お前だいぶ思い切ったことしたな。おれらのこと責めてるけど自業自得じゃん」
「だから違いますって」
「何でそんなことしたの?」
一向に引かない津田に嫌気が差して、風呂から上がろうとしたが、相手の言葉に戻らざるをえなかった。
「みんなに言いふらしちゃおっかなー」
「……性格が悪い」
「そんなの今さらだろ。で、何で?」
「本当に違いますよ」
「やりたい放題したんだろ」
朝比奈の酷い言い様に信は反論した。
「やってません。もういいですか?」
「陵辱したんだ」
「そんな酷いことなんてしてません。ちゃんと気持ち良く……」
「だからぁ、それがダメなんだって」
朝比奈が呆れたように言った。信が思わず動きを止めて顔を見ると、相手は続けた。
「わかんねーかなあ? そういうふうに扱われてプライドが傷付かない男はいないってことが」
「? どうしてですか?」
するとふたりは顔を見合わせて苦笑した。
「これだからなあ……アンアン言わされて醜態晒すくらいなら、痛い方がマシなの、男ってのは。お前、そんなこともわかんねーの?」
「生理現象でしょう」
すると津田は鼻を鳴らした。
「そんなふうに割り切れたら誰も苦労しねーよ。ま、お前は気持ちよければ何でもいいんだろ? いいよなあ、趣味と実益兼ね備えてて」
「……とにかく、章介にこれ以上構わないで下さい。大事な友達なんです」
「友達、ねえ……」
意味ありげな言い方に少しムッとした。
「友達ですよ」
「媚びて、ヨシヨシしてもらって? おれにはそういうふうには見えないけど」
「じゃあ何ですか?」
「共依存」
「……」
それには反論できなかった。ある種事実だったからだ。
「友達だったら言いたいこと言うし、注意もする。だけど、お前はただあいつのご機嫌取ってるだけ。あーゆーのは友達とは言わねーよ」
「……私だってわかってますよ。だけど、嫌われたくなくて」
「その執着が恋に見えるけど」
「……」
「ま、これを機にちゃんと付き合ってみれば? おれには関係ねーけど」
「……考えてみます」
そう言いつつも、章介との関係を見直す気はなかった。あれほど強烈に拒絶されては期待する気にもなれない。
信はそこで津田との会話を切り上げて、浴場から出たのだった。
脱衣所にはすでに章介の姿はなかった。
信は浴衣を着てざっと髪を乾かすと、本部屋に上がり、仕事を済ませた。
そして、早めに上がって章介の居室を訪問した。
案の定一回では出てくれなかったが、しつこく何度もノックしていると扉が開き、いつにも増して無表情の相手が姿を現した。
紺色の寝巻き姿の友人は、腕組みをして威圧的に言った。
「何の用だ」
「対局、してくれる約束だろ?」
「……悪いが眠いんだ。今度にしてくれ」
「じゃあ一緒に寝ていい?」
そのことばに、章介はあからさまに顔をしかめた。
「帰れ」
「無視は二週間までって言ったのに……」
頑強に自分を拒む相手に、信はちょっと泣きそうになりながら上目遣いで請うように言った。
すると章介はそんな信を見て少し困ったような顔になり、深々とため息を吐いて、身体を脇にどけた。
「ありがとう」
信は相手の気が変わらないうちにと、すばやく身体を居室の中に滑り込ませた。
そして部屋の中央に立ち尽くし、相変わらず自分とのアイコンタクトを避けている相手に言った。
「津田さんたちの誤解はちゃんと解いておいたよ、面倒かけちゃってごめん」
「……まあ、仕方ないな」
「本当にごめん。あのとき……章介がどうしても断れない理由でもあるのかと思って受けてしまったけれど、受けない方がよかったな」
「違う、お前は悪くない。もうこの話はいい。お互い水に流そう」
「うん、そうだね」
「まあとりあえず座って」
章介は座布団を顎でしゃくり、将棋盤を出し始めた。どうやら溜飲は下がったようだった。
信は腰を下ろし、内心安堵しながら世間話を始めた。
こんなふうにして、信と章介の共揚げ騒動は幕を閉じたのだった。