十一年前ーー。
西暦二〇二一年初夏。この世界とは少し違う歴史を辿った東京。
そこで、約半世紀前に造られた歓楽街は隆盛を極めていた。
その街は、都心から車で二時間弱の山間部を切り開いた、元は村があった場所にある。
吉原を彷彿とさせるような障子窓の部屋が並ぶ楼閣が林立し、花魁衣装の美しい女たちが闊歩する花街。
深紅の大門が遊客を歓迎する煌びやかな不夜城。あるいは人のあらゆる欲望を満たす場所。
誘蛾灯のように夜ごと光り、人々を引き寄せるその街の名は東京玉東(ぎょくとう)。国内外からの観光客も多い、江戸文化を感じさせる歓楽街である。
周囲を山に囲まれたそこへひとたび足を踏み入れれば、人はまるで江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚える。
深紅の大門と高い塀に囲まれたその異空間では、きらびやかな色打掛を羽織った花魁達が道を闊歩し、通りには障子窓の楼閣が立ち並ぶ。建物の軒先には提灯が下がり、店の前には行灯が置かれ、夜には淫靡な光を放つ。
その街全体はしだれ柳と桜並木で囲まれ、春には満開の桜が、冬には雪化粧したしだれ柳が遊客を歓迎した。
この街の一角には大型カジノが入る遊興施設『パラダイス』があった。地上六階、地下三階の巨大な城は、一九七〇年代にカジノが合法化されて以来、各地にできたカジノ施設の一つである。
中にはルーレット、ブラックジャック、バカラ、スロット等代表的なゲームが楽しめる大型カジノ、高級レストラン、美術館、劇場、宿泊施設が入っており、主な客層は海外からの観光客だが、国内からの客も多かった。
そして、意外と知られていないが花魁の利用も多く、ギャンブル依存症になり身を持ち崩す者も少なくなかった。
それとは逆にカジノの客が大負けして身売りすることもある。そのような場合には、彼女らは、あるいは彼らはカジノの外に並ぶクラブのいずれかへ行くことになった。
目抜き通りの仲ノ町通りを中心に碁盤の目のように並ぶ店はランクごとに大見世(おおみせ)、中見世(なかみせ)、小見世(こみせ)、河岸見世(かしみせ)に分類されている。
大見世が最も格上であり、河岸が最も下のランクである。店の環境は一般にランクが上がれば上がるほどよく、大見世などは政治家や高級官僚等の利用も多かった。また、カジノ目当てできた海外の富豪が花魁を同伴させることもある。だからカジノの負債を返そうとする客は、よりランクが上の店に入ることを望んだ。
このような店に入ってなぜ多額の借金が返済できるかといえば、玉東の店のほとんどは和風のキャバクラのていを取りながら売買春を行う違法風俗店だからだ。
何も知らない観光客や一般客は花魁と酒を飲んで帰るだけだが、求めればその先のサービスもあるという店が大半だった。だから給料も一般のキャバクラとは段違いで、ギャンブルで失った金を補填できるわけだった。
この花魁、あるいは傾城達のほとんどは女性だったが、中には男の花魁という変わり種を提供する店もあった。
その中の一つが大門入って右手にある紅霞通り(こうかどおり)に店を構える白銀楼(はくぎんろう)である。ここは玉東で唯一女子禁制の店であり、男の花魁しかいないという珍しさから人気だった。
その店でトップを張るのが五代目菊野である。本名を天野信という二十歳そこそこのこの青年は傾城になるのと同時にその名跡を継ぎ、以来店の看板を背負い続けている名太夫だった。
彼の左右対称に完璧に整った細面は美形特有のとっつきにくさはなく優しげである。目元がはっきりした正統派の美男で鼻筋は通り、唇は薄く、肌は白くなめらか。薄化粧でも女装がサマになる美しい面立ちだった。
すらりとした四肢はまるでモデルのようにスタイルが良く細身だが、華奢ではない。その肢体をきらびやかな友禅で包み、背中までの艶やかな髪に花簪を挿した姿は男も女も魅了した。
だが、彼をトップたらしめているのはその華やかな容姿ではない。白銀楼は大見世、つまりいわゆる高級クラブであり、信程度の美形は珍しくなかったからだ。
では彼の何が特別かといえば、なんといってもその突出した接客の才能だった。
「包み込まれるような優しさ」「彼には何でも喋ってしまう」「気付くと予約を入れている」
その接客を経験した男達は口をそろえてこう言った。そうしてずぶずぶと沼にはまっていくかの如く信のもとに通い続けるのだ。
これが、信が長らく店の頂点に君臨してきた所以であり、「底なし沼」の通り名の理由である。とにかく彼は一度はまれば抜けられない、魔性の男だった。
駆け引きもしない、刺激的なことを言うわけでもない、ただ相手の話をよく聞き、共感し、その時相手が最も欲しい言葉をかけることができる――この聡明さと懐の深さにより、人気を不動のものとしていた。
だが本人が意図して身に着けたわけではない。それは天性のものであった。
だから本人に自覚はない。そしてその自覚のなさがまたやっかみの種にもなるわけだが――。
大門から見て仲ノ町通りの一本右の、南北に通る通りが紅霞通りである。そこは老舗・紅霞楼(こうかどおり)からその名を取った、ハイクラブが林立する大通りだった。
その通りの右側手前から三番目、紅霞楼の斜向かいに、白銀楼はある。
それは,銀山温泉の温泉街を彷彿とさせるような大正ロマンの建物だった。
和風の、黒光りする五階建ての木造建築。玄関の屋根は唐破風でその両脇には木の格子がある。奥は見えるようになっており、店が始まると花魁達が待機するスペースになっていた。いわゆる張見世である。
その上の二階は全面ガラス窓で、吹き抜けのロビーの様子が外から見えるようになっていた。
さらにその上の三〜五階には黒いバルコニーがあり、夜間はそこに等間隔で吊るされたライトが建物をライトアップする。
だが今はまだ明るいので消えていた。店の営業時間前だからか、障子窓も全て閉まっている。
まるでまだ眠っているかのごとく、店に人の気配はなかった。
その店の窓を、通行人が傾城の登場を期待して見上げる。だが開く気配はない。
なんだいないのか、と目を外しかけた瞬間、四階の一角の窓が開いて着飾った傾城が姿を現した。
紫陽花模様の鮮やかな青緑の色打ち掛けに、それによく映える濃いピンクの花簪。太鼓帯と抜き衿はなしで、花魁というよりは振袖の女性に近い恰好だ。
薄化粧をした面は完璧に整い、女とも男ともつかぬ妖しい魅力を振り撒いている。
その美しさに見とれて通行人がポカンと口を開けた彼こそはさが白銀楼の看板傾城、菊野であった。それに気付いた他の通行人が一人また一人と表に集まり出し、稀代の男太夫を見上げ、歓声を上げる。
菊野はーー信は、それに応えて柔らかな笑みを浮かべて手を振った。下に集まった人たちの中に潜在的な太客がいるかもしれないのだ。愛想は振りまいておくに越したことはない。
信はしばらくそうやって通行人にサービスしたあと、紅霞通りの右手に目をやった。そちらは『パラダイス』からの帰り道の方角だった。
信はそちらを見つめてじっと待った。信が待っているのは世話をしている見習いーー店では部屋付き禿(かむろ)と呼ばれているーーのアンダーソン秋二と、彼と連れ立って『パラダイス』へ行った友人の鶴見章介だ。二人は、店の中で最も親しい相手だった。
彼らを待ちながら信はふと物思いに耽る。
この店に来て六年、トップになって三年。もう一見の客の相手をすることはない。
だいたい決まった顔触れで決まった話をし、決まったセックスをして終わる。そういう毎日だった。
退屈と言う余裕はないが、ルーティーンと化している感はある。
だがそんな毎日に彩りを添えてくれるのは、昨年入ったばかりの禿、アンダーソン秋二だった。
くるくるとよく変わる表情が印象的なクォーターの美少年。第一印象はそれだった。
どんなに高く見積もっても中学生以上ではないであろう幼い顔立ちに小さな体。だがその体に秘めたるエネルギーと強い意志は疑いようもなかった。
それに、気付けば惹かれていた。
子供が好きなのではない。今まで他のどの子供にもそのような感情を感じたことはなかったし、今どうこうしたいとは全く思わないからだ。
だがいずれ成長したらそのときは……と密かに思っていた。
その秋二が通りの向こうからひょっこりと現れ、信は思わず声を出した。
「あっ、秋二……」
買ってあげた縦縞模様の紬姿の秋二はファストフード店のロゴが入った手提げ袋を大事そうに待ち、ほくほく顔で歩いていた。
「ふふっ、また体に悪いもの食べて……」
米国で幼少期を過ごしたらしい秋二は基本ファストフードとコーラが大好きである。だから店で出る高級料理は口に合わないらしく、こうしてチャンスさえあれば『パラダイス』に入っている大手ファストフード店に通っているわけだった。
それにしても基本禿を放置気味の章介が一緒に『パラダイス』とは。
まさかとは思うが秋二に気があるのか? だとしたら勝ち目はないな、と思いながら秋二にと並び立つ友人を見る。
章介は、身長百八十五センチを超える美丈夫だった。顔立ちは美しいが男らしく、男が惚れるような男だ。
短髪で男物の着物の彼は女装こそしないものの同じく白銀楼の傾城だった。半年違いで入ったほぼ同期である。
この友人に、信は何度となく助けられてきた。
「それにしても章介は本当に秋二のこと可愛がってるなぁ」
なかなか他人を懐に入れない章介が特定の禿をこういうふうにかわいがるのは珍しい。というか、初めてかもしれない。
それに余計な勘ぐりをしてしまいそうにもなるが、章介には恋人がいるのだからそれはない。ないと思いたい。
元々女性にしか興味のなかった章介は、初期からついていた馴染み客・佐竹瑞貴の真摯なアプローチにより心動かされ、恋人関係になっていた。
だから秋二に下心はない――はずだ。
そういうふうに自分に言い聞かせていると、ある程度まで近くに来て信に気づいた秋二が手を振った。
「信さーーーん!」
「秋二」
手を振り返すと章介もこちらを見る。
章介は、まぶしそうに目をすがめてこちらを見上げた。黒の着流しを完璧に着こなしている。
この、とても敵わなそうな相手が将来の恋敵にからないことを願いながら店に戻る二人を見届け、信は部屋に戻った。
そして見習い達と共にエレベーターを降りて正面玄関へ向かう。
そこではすでに何人か同じように傾城が客の出迎えのために待機していた。
信は彼らに会釈をし、真ん中に立った。
この店には厳格な階級制があり、傾城は上から新造付き呼び出し、昼三(ちゅうさん)、付廻(つけまわし)、部屋持(へやもち)と階級付けされている。信はそのうち最上位の新造付き呼び出しであり、玄関で待機するときは常に中央だった。
そこから端に行くにつれて階級が下がってゆく。
こういうしきたりはいらぬやっかみやトラブルを生むだけなので正直廃止してほしいが、傾城を競わせて稼ぐ、というビジネスモデルの遣り手・小竹は頑として変えなかった。
やがて午後五時を回るころ、最初の客がのれんの向こうから姿を現す。それは、信の馴染みである如月だった。
信は頭を下げ、挨拶した。
「いらっしゃいませ、如月様。本日もお引き立ていただきありがとうございます」
「どうもね」
如月は政治家で側近たちとよく遊びに来る。
六十過ぎの、父親より年上の男だが、そういった客への嫌悪感は既に麻痺していた。
待遇改善をたびたび要求するせいで遣り手からの心証が悪い信は、常にトップであることを要求されている。
だからこういった年寄りの客を見て思うのは、経済力があり、羽振りもよい良客である、ということだけだった。
「こちらへどうぞ」
「ああ、この間仕立てた着物ができたんだな。今日も綺麗だよ」
「紫陽花模様がとても繊細で素晴らしいお着物ですよね。いつもすみません」
「いやいや、いいんだよ。作ってやった着物を脱がすというのも一興だ」
そして側近たちと品なく笑い、信の腰を抱く。以前はこういったことさえ耐え難かったものだが、今は何とも思わなかった。
如月たちに愛想を振りまきながら座敷へ移動し、宴会が始まる。
いつも通り、如月の懐古的な自慢話が始まった。
若い頃の武勇伝を途切れることなく披瀝し、側近たちが太鼓持ちをする。
信は隣で酌をしながら笑顔で相槌を打ち続けた。
それが終わると、如月と二人で本部屋、つまり客取り部屋に移って相手の望むことを言い、望むことをする。
店では本番行為を含む性的サービスが提供されており、確実に違法だったが、他の多くの風俗店と同じく黙認されていた。
信は本部屋での「サービス」を終えると、次の客の相手をしに別の座敷に上がった。
座敷『柊』で待っていたのは、馴染み客の畠山浩二だった。
「失礼いたします、菊野でございます」
膝をついて座敷に入ると、浩二はそれまで相手をしていた新造の子を下がらせた。
新造というのは傾城がいない間客の相手をする見習いのことで、店に入って禿としての修養期間を終えると新造になる。
だから、信が座敷に上がるまでの間相手をしてくれていたわけだった。
新造の制服であるピンクの着物を着た二人はほっとしたような顔で座敷をそそくさと出て行った。
色々噂のある浩二は店の者たちに恐れられていた。
だが、そこまで厄介な客でないことは既に知っている。
「今日はお天気いいですねえ。もう梅雨入りとか言ってましたけど、気配ないですね」
「そうだな」
「お食事はもうされました?」
「いや」
「じゃあ頼みましょうか」
「お前の分も」
「いいんですか? いつもありがとうございます。何にしよっかなぁ……。浩二さん何にします?」
「いつもので」
「あ、そうなんですね。じゃあ私は……」
浩二はいつも通り必要最小限しか喋らない。
判で押したように自慢話とセクハラ発言を繰り返す大半の客と違い、浩二は非常に無口でほとんど喋らない。
だから浩二の座敷ではだいたい信が話題を振っていた。
仕事の話も自分の話もしたがらないので、辺り触りない世間話か信の趣味の話になる。
どんな話でも聞いてくれるので、座敷ではこれ以上ない良客だった。
ただし、本部屋に移ると話は変わってくるが。
「そうだ、この間いい入浴剤を発見したんですよ。お肌スベスベになるやつ。どうですか?」
「まあ……いいんじゃないか?」
「本当? ハーブとかも入ってるらしくてすごくリラックスできたんですよねえ。今度一緒に使いましょうね」
「ああ」
本部屋にはシャワーしかないが、それとは別に貸切風呂があって泊まり客は使うことができる。
露天風呂もあり、半分温泉旅館のような店なのだ。
浩二は月二ぐらいで泊まっていくのでそう言ったのだった。もちろんおねだりの意味もある。
流連(いつづけ)と呼ばれる宿泊は実入りもいいので、多少自由時間が減ってもある一定以上は確保したい。
その点、浩二は定期的に泊まってくれるので助かっていた。
信はその後、好きな英詩の韻律の話とか、好きな絵の話とか、英国の執事学校の話とか、マニアックすぎて他の客にはほぼしない話をしながら食事をした。
信ばかり喋るので、他の話題は出し尽くしてもうそのあたりしかネタがないのだ。
浩二はお世辞や噂話が好きなタイプではないので、最近はだいたい信の趣味の話しかしない。
それでもそれなりに満足しているようだった。
そうして食事を終えると、二人は信の本部屋に移動した。
ここは傾城になると与えられる客取り部屋で、階級によって広さは違うが、信の部屋は二十畳ほどと広い。
そこが襖で半分に区切られ、入ってすぐのところには床の間、ローテーブルと座椅子、飾り棚などがあり、食事もできるようになっている。
そして、襖の向こうには大きな絹の布団と行燈があった。
今日は食事を終えているのでそのまま奥の間に行き、帯を解いて何重にも重ね着していた友禅を脱いで部屋の隅の衣桁にかける。
その下は白襦袢だったが、浩二はそのまま縛るのを好むため、脱がないでおく。
汚れてもクリーニングに出して余りあるくらい花代を上乗せしてくれるので、抵抗はなかった。
振り返ると、浩二がスーツのジャケットを脱ぎ、ベストだけになった姿で近付いてきて首の裏に手を差し入れ、キスをする。
それに応じて背中に手を回すと、口づけが深くなった。
「っ……」
腰に回った手がその下を探り、刺激に吐息を漏らす。
すると浩二の足が信の脚の間を割って入ってきて前も刺激し始める。
信は壁を背にして喘いだ。
「あっ……んっ……」
襦袢を肩まではだけさせられ、首、鎖骨、胸と舌が這ってゆく。
胸の飾りを口に到達した瞬間に腰にビリっと電流が走った。
「あぁっ……浩二さん、そこっ……」
それと同時に尻を揉まれ、後ろに指が入ってくる。
そしてその指は、見つけにくい位置にある信の前立腺を的確に刺激した。
「はあ、あぁ……」
だいたいの客はこっちが本当に感じているかなど気にしない。喘いでいれば感じているだろうと判断し、演技だなどとは一ミリも疑わないものだ。
だが、後ろで感じにくい信は、抱かれているときはだいたい演技しているだけで感じていなかった。
先ほどの客、如月でも正直感じたことはほとんどない。
しかし浩二はこちらが本当に感じているか、体の反応を見て判断するタイプだった。
だから信の前立腺が人より奥にあることも知っているし、そこを刺激すれば後ろでも感じることも知っている。
「ふっ……うっ……あっ、浩二さん、もう……」
「イきそうか?」
頷くと、浩二はニヤっと笑って指の動きを速めた。
「あっ、あっ、あっ、あっ……あぁっ!」
信は浩二にしがみつき、絶頂した。
白濁が畳に滴り落ちる。
「はぁ、はぁ、はぁ」
虚脱感にしばし放心していると、浩二は一旦信のそばを離れ、何かを持ってきた。麻縄だ。
浩二は信に後ろを向かせると両手を後ろ手で縛り、はだけた襦袢の上から亀甲縛りにした。
「んっ」
絶頂したばかりなのでその刺激さえもどかしい。
わずかに腰を揺らすと、浩二は満足げに笑って信を布団に押し倒した。
そして鞭を取り出し、打ち始める。その痛みに、信は呻いた。
「うっ……」
浩二はお遊びの鞭ではなく結構痛い鞭を使うので、快感を痛みが凌駕している。
この結構本格的なSM趣味だけが浩二の欠点だった。
セクハラをしない、くだらない自慢話をしない、信の食事も必ず注文してくれる、心づけもくれる、と座敷ではこれ以上ない良客の浩二も、本部屋に入れば別人になる。
人を痛めつけないと興奮しない、という生粋のサディストとなり、鞭を手に信を苦しめるのである。
そういった趣味のない信にとって浩二とのセックスは苦痛だった。
だが、太客なので拒否もできない。店主と折り合いの悪い信は、トップが取れなくなったら河岸に落とす、と言われていたからだ。
河岸というのは玉東の中で最下層の店の総称であるが、そこでは薬物、暴力、性病が蔓延している。一度落ちれば健康体では出られないと噂の場所だった。だからこのような客も受け入れて稼ぐしかない。
信は特に借金を負って入ってきたわけではなかったが、過去に同僚の脱走を手引きしたり、再三にわたって待遇改善を訴えたりと遣り手とは揉めに揉めていたため、このような脅しを受けているわけだった。
今現在二十二歳で契約は残り四年。無理矢理契約させられた契約が終了する頃には二十六歳である。
年齢のこともあり、その時までトップを獲り続けられるかは非常に疑わしいと思っていた。
トップが取れなかったからといって遣り手がすぐさま河岸に落とすとは思わないが、いずれそういう未来が来ないとも限らない。
だから今のうちにできることをやっておくつもりだった。
「うぅっ……あぁっ……!」
自分が店の稼ぎ頭である今だからこそできることがあるはずだ、と長らく考えていた。どんなに言っても待遇は一向に改善されないまま月日が流れようとしていた。
白銀楼は一見羽振りがいい大見世である。店の建物の建材も、その装飾も、室内の小物や掛け軸も、傾城達の衣装も、店で出る料理や酒も一級品ばかりで料金も高額である。だから傾城達はさぞかし稼いでいるのだろうと思われているが、実はそうではない。
傾城の取り分は非常に少なく、食費を給料から天引きされているのに食事量も少なく、一枚百万することもある衣装も傾城持ちでしばしばある時間外労働も半強制という、非常に搾取的な職場環境だった。そして、店は指定暴力団長谷川会幹部である小竹が取り仕切っており、用心棒という名の監視役である若衆(わかしゅ)もその構成員である。
だから労働環境がいくら悪くても誰も何も言えない、という状況が続いていた。
この状況を、自分は変えられるはずだ。そう簡単に遣り手が手出しできないトップという立場だからこそ、行動に出るべきだ。そう思った信は一か月ほど前に集団ストライキを決行することを決意した。
店側にとって一番嫌なのは従業員が働かないことである。ましてや白銀楼のようなハイクラブであればキャストは政治家等の相手をすることもあり、それなりに教育を施された人間でなければ接客できない。それで見習い期間を設けて禿と新造として育成しているわけなので、休んだ傾城の穴を簡単に埋めることができないのが弱味だった。
だからそこを突く。そして、わずかにでも今よりマシな店にする。
その決行日がいよいよ明日に迫っていた。
信はもう一度手順を頭の中で反芻しながら、痛みに耐えて浩二の相手をし終えたのだった。