浩二が帰ると、信は軽くシャワーを浴び、鞭で打たれて痕になったところに鎮痛クリームを塗って手当てした。
そうしてパジャマに着替えると、友人の章介の部屋へ行った。
店は客が入る店部分と傾城達の居住区とに分かれており、ほぼ全員が住み込みで働いている。
居住区で個室が与えられるのは上から二番目の昼三(ちゅうさん)までの傾城のみであり、他の傾城は本部屋で、見習いの新造と禿は居住区の大部屋で起居することになっている。
章介は昼三なので個室があり、四回北の角部屋・407号室だ。同じ階の南側に部屋がある信とはちょうど建物の反対側になる。
その部屋へ行き、扉をノックすると章介がのそっと出てきた。
「こんばんは~」
「よう」
百七十センチある信でも見上げるような大男。男らしく整った顔立ちは基本無表情で、加えて無口なので人に威圧感を与えることも多いが、実は全然怖くないことを長い付き合いで知っていた。
章介は、信とほぼ同時期に店に来た同年代の友人で、仕事終わりにこうしてどちらかの部屋で過ごすことが多い相手だった。
共に将棋という共通の趣味があり、ものすごく話がはずんだりするわけではないが、一緒にいて居心地がいい。
章介は、人のうわさ話や悪口をほとんど言わない男だった。そして信はそれを大変好ましく思っていた。
「お疲れ。今日忙しかった?」
「いや、そうでもない。一人キャンセル入ってわりと暇だった」
章介が本格的な将棋盤を出してきながら答える。ほとんど装飾のないシンプルなモノトーンの室内で唯一存在感を主張しているのがその将棋盤だった。育ての親である祖母の遺品らしい。
両親に育児放棄された章介を引き取って育ててくれた祖母のことを、章介は心から尊敬していた。
折に触れては口にするのは彼女の地に足がついた生き様や教訓のことだ。この知的で強い女性こそが章介のバックボーンであり、このような店でも品位を保っていられる所以だった。
そしてその祖母は女流棋士として活躍した人物であるので、彼女に仕込まれた章介は当然とても強い。
だいたい四回に一回ぐらいしか勝てないが、それでも信は章介との対戦を毎回楽しみにしていた。
将棋盤を挟んで座布団に正座し、軽く頭を下げる。
「お願いします」
「お願いします」
前回は章介が先攻だったので、今日は信が先攻だ。
歩を一つ前に出すと、それに応じて章介も駒を動かした。
今日はどういうふうに攻めようかなあ、と考えながら指していると、ふと章介が言った。
「やっぱりやるのか? 明日」
「うん、やる」
「そうか」
章介は深々とため息をついた。
「やっぱり反対?」
「当然だ。ストライキなんて……そんなことするとは思わなかった」
章介はずっとストライキに反対していた。
「でも、こうでもしないと変わらない」
「やっても変わらないかもしれない。……代償だけを払うことになるかもしれないぞ」
「かもね。でも今の労働環境って本当に酷いじゃない? 給料も少ないし、衣装代も自分持ちだし、時間外労働も多々あるし、店で出る食事の量も少ない。一日一食なんてありえないよ、育ち盛りの子も多いのに。そういうことを今まで遣り手には散々言ってきたけど改善されなかったからね。もう実力行使しかない」
信の言葉に章介は眉をしかめた。
「だが……リスクが大きすぎる。失敗したらどうなるか……。ここにいられなくなるかもしれないんだぞ? 今からでも考え直してくれないか?」
「ごめん、やるって決めたから。一緒にやる子たちも覚悟決めてるし」
信がやろうとしているのはただのストライキではなく、集団ストライキだった。
皆で仕事を放棄し、キャストの待遇改善を訴える。そうすればさすがの遣り手も動くだろう。
「そうか……。じゃあ、俺もやる」
「ええ? いいよ、巻き込みたくないし」
「どうせ一緒にやったと思われるだろ。やるよ」
章介と信の仲が良いことは店中に知れ渡っている。当然遣り手も知っている。
だから章介の言い分ももっともだが……。
「でも、せっかく遣り手の心証いいのに。やめた方がいいよ」
目の敵にされている信とは反対に章介は支配人からの心証が良く、何かと優遇されている。
「信がやるって言ったんだろ。いいよ、どうせたいして予約も入ってないし平気だ」
「そう……? まあ、一緒にやってもらえるのはありがたいけど……でも無理しないでね」
「ああ。……信って時々びっくりするようなことするよな。一樹の件といい」
「ふふっ、内に秘めてるものがあるんだよ」
「確かにあるな」
章介はふっと笑って銀将を動かした。
一樹というのは、昨年足抜けした元同僚の名前だ。実は、その足抜けを手引きしたのは信だった。
いい友達だった一樹が薬物依存と精神病になってしまい、このままここにいたらどうにもならなくなる、と思って客と共謀して逃がしたのだ。
当然店は大騒ぎになり、結局遣り手には手引きがバレて厳罰に処されたわけだった。
そういう前科もあり、遣り手からの心証はすこぶる悪い。
だから今回のストライキが失敗した場合、最悪のケース――こことは比べ物にならないくらい環境が悪い河岸行き――も考えられた。
それでも決行したのは、信を引き取りたがっている客が複数いたからだ。
店は、所定の落籍料を払えば契約終了前に辞められることになっていたので、最悪その客の誰かに落籍してもらえばいいと思っていた。
「章介も秘めてる感じする」
「そうか?」
「山への情熱とか」
「それは一目瞭然だろ」
「ふふっ、確かに。何かいないなーと思うと山登ってるもんねえ」
高校時代登山部だったという章介は山登りが趣味で、玉東周辺の山にしょっちゅう行っていた。
本来、傾城が玉東から出るのは店の上層部にあまりよく思われないのだが、遣り手のお気に入りの章介は大目に見られていた。
たまに一緒に裏山にピクニックに行くこともある。
「お前もちょっと体動かした方がいいぞ。週末一緒に行くか?」
「うーん、本格的なのはちょっと……。裏山ぐらいがちょうどいいかな」
裏山というのは玉東のすぐ東にある山道が整備された小山・紅山だ。
玉東との標高差は百五十メートルほどしかなく、頂上には展望台があり、そこからは麓の街から東京都心まで一望できる。
玉東での催し物の際に利用されることもあり、とても登りやすい山、というか丘だった。
この山は店の催し物で使うこともあるので、行っても咎められることはない。
「あれは山登りに入らん」
「そう言われちゃうとなあ~。でも歩いてるよ、『パラダイス』でウィンドウショッピングしたりとか」
「万歩計つけたら大変なことになるぞ、信」
「いやー、怖くて着けられない。同伴ないと千歩とかしか歩いてないかも」
「それはまずいな」
他愛ない話をしながら将棋を指すうち、夜が更けてゆく。
やがて勝負は、信の勝利で決着がついた。
前回ボコボコにされたのでこれは嬉しい。信は満足感に浸りながら頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
逆に悔しそうな章介も一礼して対局が終わる。
駒を戻し、さて帰って寝るか、と腰を上げると、将棋盤を片付けていた章介が言った。
「泊まってくか?」
「うーん……どうしようかな」
信が躊躇ったのは、章介には瑞貴という恋人がいるからだ。
章介は見習の頃に、店の賓客である佐竹司の甥、瑞貴に見初められた。
大学生にして起業し成功を収めている旧財閥系の家系の御曹司で、まるでリスのようにかわいらしい童顔丸顔の小柄な人だ。
元々女性しか恋愛対象ではなかった章介ははじめ、瑞貴からの想いに戸惑っていたようだが、瑞貴が真摯な姿勢で待ち続けたのでやがて受け入れた。
以来二人は付き合っていて、はたから見てもお似合いの恋人同士である。
信は瑞貴とも仲良くしていたから、その邪魔をするようなことはしたくなかった。
元々ストレートの章介にはわからないだろうが、信や瑞貴のように同性が恋愛対象の人間にとっては、たとえ男友達でも好きな人が別の男と同じ部屋で寝るというのは抵抗がある。
だから二人が付き合いだしてからは、部屋に泊まるのを控えていた。以前はよく一緒に寝たものだが。
それで微妙な返事をすると、章介も察したようだった。
「まあ、やめとくか」
「そうだね。その方がいいと思う」
「じゃ、明日だな。どこかに集まったりするのか?」
「うん。そこの休憩スペース。そこが一番邪魔にならないかなって」
四階の傾城の居住区の中央には、ソファや自販機、テレビ、パソコンなどがある共同の休憩スペースがあった。
通常そこは昼三と呼び出ししか使えないが、今回は全員そこに集まってストをする。
遣り手のオフィスが最上階の五階にあるので、交渉にももってこいの場所だった。
「邪魔した方がいいんじゃないか? 店の入り口のとことか」
「いやそれはさすがにね……。参加しない人の迷惑になるし」
「何時に行けばいい?」
「四時半。店が開くのに合わせて始めようかなって」
「わかった」
白銀楼の営業時間は、午前十一時~午後二時と午後五時~午前一時である。
昼は普通の料亭として、夜はクラブとして営業しているのだ。
傾城の仕事は夕方からなので、夜の部の開店時間に合わせてストライキを決行する予定だった。
「明日起きてみてやっぱり無理ってなったら全然無理しないでいいからね」
「ああ。じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
信は章介の部屋を出て自室に戻った。
そしてベッドに入り、就寝体勢に入る。
しかし目がさえてなかなか眠れなかった。自分一人だけでやるのではない集団ストなだけに、もし参加者に何かあったら、と考えてしまう。
参加人数は現在店で働く傾城と見習い二十四人のうち八人。うち傾城は章介と信を含め五人、見習いは三人で、この三人はいずれも信が世話している子たちだ。その中には先ほどハンバーガーをほくほく顔で持ち帰ってきた秋二もいる。
まだ見習いの身で立場も弱いので巻き込みたくなかったのだが、何かの拍子に話を聞いてしまったらしい秋二がぜひ参加させてくれ、と言って引かないので了承せざるをえなかった。
本当は傾城をもう少し集めたかったが、事なかれ主義の人多めの白銀楼ではこれが限界だった。
それは、白銀楼では何らかの事情で自ら来た者が大半だったからだ。中には秋二のように正確な勤務内容を説明されず半ば騙されるような形で契約した者もいたが、大半は住む場所や借金返済の方法を求めて来た者達であり、彼らに店に反抗する意志はなかった。
ある日突然拉致されて無理矢理連れてこられた信はむしろ例外だったのである。
信が不幸にもヤクザ者達に捕まったのは、高二の春だった。その三年前に母が自死し、家庭が崩壊寸前だったその頃、信は折に触れては父に叱責されるようになっていた。三歳で始めたヴァイオリンの練習をしなくなったからだ。
父の強い希望で始めさせられた音楽はやがて母を苦しめ、その命を奪った。信を一流のヴァイオリニストにしたいという父から教育に対してプレッシャーをかけられ続けたからだ。
生きがいだった仕事に復職することも許されなかった母はやがて精神を病み、ベッドから起き上がれなくなった。そうしてある日逝ってしまったのである。
それ以来、ヴァイオリンに触れなくなった。毎回レッスンに付き添いコピーの楽譜にメモを取り、それを信の楽譜に書き写してくれた母の生々しい筆跡がいまだ残っていたからだ。
彼女はどんなに体調が悪くてもレッスンには必ず来てくれた。そして命を削ってメモを取り続けたのである。
そのことを考えるたびに耐え難い苦しみに見舞われ、耐えられなくなった信は音楽をやめた。何もしてやれなかったという後悔もあったから、その苦しみ、哀しみは想像を絶するものがあった。
だが父はそんなことはおかまいなしで顔を合わせるたびにレッスンに行けと言うようになった。
だが信は行かなかった。そしてある日、そのことについに堪忍袋の緒が切れたらしい父に看過できない言葉を吐かれた。
「母親に似て弱い。どうしようもない」
そう言われたのだ。正直耳を疑った。誰が、どの口がそう言うのかと。それで信もとうとう我慢できなくなり、父親に、母はお前が殺したのだ、と言い返した。
すると彼は激高し、激しい口論となって最後には家から出て行け、と言われた。それで衝動的に家を出たところで運悪く犯罪に巻き込まれてしまった形だった。
それでもいつかは帰るつもりだった。監禁されているわけでもなし、チャンスはいくらでもあると思ったのだ。その準備もしていた。
だがある日、父が信の捜索願いすら出さずに見知らぬ女性と共に新しい家で暮らし始め、彼女が妊娠までしていることを知った。客が調べてくれたのだ。
そのとき、信は玉東から逃げる気力を失った。喧嘩の時に吐かれた言葉が本気だったのだとわかってしまったからだ。
もう戻る場所はなかった。だからここで生きていくと決めた。そしてできる限りのことをしてきたつもりだった。
ここに適応し、生きてゆくための術を身につけた。酒にも薬にも手を出さず、心身の健康を保ってここまできた。
だがそれだけでは足りない。この店の環境を変えなければまた一樹のような人が出る。だからストという実力行使でここを変えるつもりだった。
うまくいくだろうか、と翌日のことを色々と考えながら、やがてようやくやってきた眠気に身を任せ、目を閉じる。
すると意識は一気に闇へと引き込まれていったのだった。