翌日の夕方、信は予定通り居住区四階の休憩スペースへ行った。
すると、もう既に何人か来ておしゃべりに興じている。何か緊張感がないなと思ったら、ムードメーカーの秋二がいた。
なるほどそれなら納得、と思いながら近くのソファに腰を下ろし、声をかける。
「お疲れ」
「あ、お疲れ様です~」
「お疲れ様です」
秋二を含む禿三人が振り返って笑みを浮かべる。その三人と楽しげに喋っていたのは友人の大輔だった。
彼もこの店の傾城で、ほぼ同期だ。普段簪を挿してアップにしている栗色の毛は、今日は下ろしていた。
友禅も着ておらず、化粧もしていない。
地味な紺の男物の着流し姿だった。
「お疲れ、信」
「お疲れ。いよいよって感じだね」
「だな。あ~何か緊張してきた~」
対する信も今日は化粧も女装もしていない。背中までの髪は後ろでくくり、男物の白い着流し姿である。
「そうだね」
「つかいつまでやるんだっけ?」
「要求が通るまでかな。ほら、これに書いてきた」
そう言って懐から封筒を出して大輔に渡す。
「ふむふむ、食事量の改善、給与の改善、時間外労働の規制、問題のある客の出入り禁止……いいな。これ一個でも叶ったら相当いいぞ」
「そうだよね。全部っていうのは難しいと思うから、妥協点は探すけど、要求通るまで二、三日は必要だと思うよ」
「いや俺は一週間でもいける! マジで待遇悪すぎだもんなこの店。奴隷みたいなもんだよ、衣装代も出ないしさ」
傾城は莫大な衣装代がかかる。それは、ただでさえ高い着物を何枚も重ね着するからだ。
仕事でそれを着ることを義務付けられているのにその衣装代が全部傾城もちなのは、どう考えてもおかしかった。
それにもう一つの大きな問題は、食費家賃光熱費を給料から天引きされているにも関わらず、食事が一日一食しか出ないことだ。
客に食わせてもらえ、ということなのだろうが、見習い期間はその客もつかないので自分で調達するしかない。
だが見習いには給料が出ないので、結局は店に借金するか、世話係の傾城に食べさせてもらうかしかないのが現状だった。
これはあまりにもひどすぎる。信も見習い時代は常に空腹との戦いだった。
傾城と違って昼の営業時間から働かなければならない見習い時代は、仕事量も多い。
それなのに食事は少ない。面倒見の良い傾城が世話係にならなければ、店に借金して食事を買うしかない。
この現状だけは何とかしたかった。
要求事項を色々考えているうち、開店時間が近づいてきて他の傾城たちも姿を現し始める。
そして章介も来た。
「皆早いな」
「お疲れ。山行ってた?」
「ああ、ちょっとな」
朝シャワーに入ることのあまりない章介からシャンプーの匂いがして聞くと、案の定山登りをしてきたようだ。
このストライキのせいで今後山登りが禁止されたらどうしよう、と思いながら話していると、間もなく午後五時になった。開店時間だ。
そしてそれとほぼ同時にすごい形相の若衆数人が休憩スペースにやってきた。
全員スーツ姿で、とても堅気とは思えない目つきをしている。噂だが、彼らは玉東の元締め組織の構成員らしかった。
その中の一人、斎藤がドスのきいた声を上げる。
「おい! お前ら、何してる!」
「今日は働きません」
信が立ち上がって言うと、斎藤はすごい目でこちらを睨んだ。
「どういうことだ! そんな勝手が許されると思ってんのか!」
「色々と店の方で改善してほしいことがあるんです。労働環境がひどすぎるので。その要求が通るまでは働きません」
「ふざけるな! おら来いっ! もうお客さん来てんだぞ、支度しろ!」
そう言って近づき、信の腕を掴もうとした斎藤と信の間に章介が割って入った。
すると、斎藤は若干怯んだように少し下がった。
「なんだお前?」
「ストライキしていると言っている。遣り手を連れて来い」
「そんなこと言える立場だと思ってんのかてめえ!」
そうして拳を振り上げた斎藤の手首を章介が掴む。すると、斎藤が悲鳴を上げた。
章介の膂力は半端ではない。体格に比例して力も強いのだ。
かつて若衆として遣り手にスカウトされたことがあるほど、腕っぷしは強かった。
斎藤は悪態をついて章介を蹴りつけると、距離を取った。
「くそっ!」
「斎藤さんになにしやがるんだこの野郎! お前ら、やっちまえ!」
「おら!」
危ないと思って前に出ようとした瞬間、遣り手の声が辺りに響き渡った。
「何事だ?」
「あっ、ボス、こいつら働かないとか言ってサボってやがるんすよ! だからちょっと痛めつけてやんないとと思って」
若衆の一人が発したその言葉に、遣り手は顔をしかめた。
「働かない? どういうことだ? 首謀者は……またお前か、菊野」
「労働環境が改善されるまで働きません。これが、要望書です」
そう言って封筒を差し出すと、遣り手は中身を見もせずに破り捨てた。
それに呆気に取られていると、冷え冷えした声で言う。
「今すぐやめなければ全員河岸行きだ。やめる者は?」
「そんなことできるわけ……」
「できるよ。そうだな、獣姦ショーなんかもやってるとんでもない地下の店に売ってやる。こんなバカなことしたことを未来永劫後悔するように、そしてこの店の『待遇』がどれだけ素晴らしかったかを再確認できるようにな!」
「脅しても無駄ですよ。あなたが全員落とすわけがない。そんなことしたら損失がとんでもないですからね」
遣り手の言葉に仲間に動揺が走る。河岸というワードは傾城にとってインパクトが大きかった。
初めは誰も動かなかった。だが、傾城の一人の日村が手を上げると、つられるようにしてもう一人の内藤も手を上げた。そして、禿の手も挙がる。それは、秋二の友人、夏樹の手だった。
八人中三人だ。信はまずいな、と思って遣り手を見た。
相手は滔々と喋り続ける。
「損失? むしろプラスだろ、地下に売れば大金が入るからな。知ってるか? 死刑囚と傾城をヤらせて、ヤってる最中に殺すショーとかもあるらしいぜ。自分をヤってた男が目の前で死ぬってどんな感じなんだろうなあ?」
「そ、そんなことあるわけがない! 完全に犯罪じゃないですか」
「犯罪が玉東(ここ)で野放しになってるの、知ってるだろ? ここは治外法権、何でもアリなんだよ。だから人が来る。他では経験できないような、あらゆることができるからな。さあ、これだけ聞いてもまだ続行する者は? もっとも、そいつは明日にはこの店にいないがな」
手を挙げたのは信と章介と秋二の三人だけだった。
唇をかみしめ、甘かったのかもしれない、と思う。そもそも法をなんとも思わない相手に、正規のストライキという手段は通じなかったのだ。
「じゃあその三人以外は今すぐ仕事を始めろ。それから、次はないからな」
遣り手の言葉に、大輔がごめん、と消え入るような声で言って他の参加者と共に去っていった。
遣り手は腕組みをして残った三人を睥睨した。そして章介に語り掛ける。
「紅妃、お前がこんなことをするなんて残念だ。お前には期待していたのに」
「……」
「最後のチャンスをやる。仕事に行くか?」
「行かない」
遣り手はため息をついた。
「なら仕方ない。お前も河岸行きだな。せっかくだから仲良し三人まとめて同じところに送ってやる。殺し合いでもさせられるかもしれんがな」
そこで信は口を開いた。
「章介、もういいよ」
「でも……」
「私が甘かった……。戻って。秋二も」
「一人だけ残してけるわけないだろ」
章介の言葉に秋二も頷く。
「そうだよ、信さんを置いてなんていけないよ」
二人はその場を動く気配がない。そこで信は遣り手に言った。
「今回の責はすべて私が負います。二人は強引に誘って参加させました。だから二人の処分は勘弁してもらえませんか? 全部私が計画したことですから」
「信っ、余計なこと言うなっ」
「信さんっ!」
章介と秋二が声を上げる。
遣り手はノンフレームの眼鏡の奥から酷薄な目をこちらに向けた。
「だろうな。お前以外がやるわけもない。お前はとことん面倒を起こすのが好きだな、嫌がらせか?」
「当然の主張ですよ、人間として。小竹さん、傾城だって人間なんですよ。それわかってます?」
「商品だろ。そういう契約だ」
その返答に怒りを通り越して呆れる。
「あなたはいつもそうですよね。ずっと傾城を物として扱ってきた……。本当に軽蔑する」
「何だと? もう一回言ってみろ、今なんて言った?」
遣り手は目を細め、一歩信に近づいた。
「軽蔑するって言ったんです。あなたがしていることは道を外れている。人の弱みに付け込んで、利用して、傷つけて……売春斡旋なんて下の下の人間がすることだ」
「てめえっ!」
その言葉に激高して若衆が信につかみかかろうとする。だが、章介がそれを阻んでいた。
遣り手は鼻を鳴らし、信を見下すように見た。
「男とヤりまくってるお前は道を外れてないのか? 神父さん」
「完全な自由意志で、借金も精神疾患も経済困窮もなく、自分の快楽のためだけに趣味でやるのはそりゃ駄目ですよ。だけど大半のセックスワーカーはそうじゃない。私だって拉致されて脅迫されて連れてこられたんですよ? 人身売買同然……というかれっきとした人身売買ですよね。その被害者の私がしていることが罪なら、世の中の大半のことは罪になりますよ」
それは、信が長年考えていたことだった。
白銀楼で働く傾城の大半は望んで来たわけではない。
信のような犯罪巻き込まれ型はごく少数だが、秋二のように半ば騙される形で契約してしまったり、借金、生活苦、精神疾患のどれか、あるいはいくつかがある者ばかりだ。純粋に自由意志で来た者はほぼいない。
他の店がどうかは知らないが、実はセックスワーカーはこういった人たちが大半なのではないか、と思っていた。
自分の欲望のために体を売る人間など、少なくとも白銀楼にはほぼいない。
だから、売春よりも売春斡旋業者、あるいは買春の方がより罪深いと思っていた。
彼らは多くの場合完全な自由意志で、自らの利益、あるいは快楽のためにそれを行うからだ。
それなのにいつも責められるのは売春する側である。これは理不尽という他ないだろう。
だから信は以前から遣り手を軽蔑していた。
「ずいぶんご大層な口をきくんだな、男娼。厚顔無恥とはこのことだ、開き直りやがって。私はな、お前みたいなやつが大っ嫌いなんだよ。責任を果たさず権利ばかりを主張する……。あれも欲しい、これも欲しい、と駄々をこねてまるで子供だ。今まで散々稼がせてやっただろうが! お前だって相応の利益を受け取ったはずだ。なのにまだ足りないと?!」
「貰った分じゃ全然足りないぐらい、私の体には価値がありますよ。誰の体でも」
「はっ、お高く止まりやがって。何もしなくても店が回っていくとでも思うのか? お前が優雅に仕掛けを選んでいる間、どれだけの人間が店を回すために働いていたと!? とんでもない恩知らずだな。もういい、わかった。河岸に落とすのは立花と紅妃だけにする。てめえは自分のしたことを一生後悔してここで働け!」
「はあ? 何ですかそれは! そんな……何で章介と秋二だけ」
「てめえにはその方が地獄だろ? 自分が落ちるより、お友達が薬漬けになって落ちてく方がな!」
珍しく感情をあらわにして怒鳴る遣り手に、信は拳を握りしめ、負けずに声を張り上げた。
「そんなことしたら働かない!」
「何だと!?」
「二人を河岸に落としたら、今後一生客の相手はしない!」
「てめえ、この期に及んで……っ! よかろう、ならばお前が落ちろ! そして惨めに野垂れ死ね!」
「あんたはいつか地獄に落ちる!」
「地下室に閉じ込めろ! 明日朝一で出荷してやる! 他の二人も全員別々に閉じ込めとけ!」
「おい、ちょっと待てよ!」「信にそんなことしたら許さねえぞ!」
遣り手は若衆に命じると、最後に信をひと睨みして背を向け、その場を立ち去った。
その背に章介と秋二が抗議したが、相手は振り返らなかった。
三人は若衆八人がかりで拘束され、地下の折檻部屋へと連れていかれた。
そして別々の部屋に入れられ、床に転がされて何かしらの鎮静剤を打たれる。
途端に全身の力が抜け、意識が遠のいていった。
ああ、終わったかもしれない、と思いながら信は意識を手放した。
◇
次に目覚めたのはそれから三時間ほど経った頃だった。
薬で深く眠っていたところを揺さぶり起こされ、目を開けると若衆と遣り手がいた。
ぼんやりして頭が回らず見上げていると、拘束を解かれ、体を起こされる。
すると、視界に入ってきたドアから男が入ってきた。
その男を見たとたんに助かったかもしれない、と思う。クマみたいな愛嬌のある顔の男――森翔太郎だった。
森は信の馴染み客である。
四十半ばの富豪であり、趣味が旅行というか探検という面白い客だった。
世界中を旅してきて、ここ数年は日本を拠点にしているが、しょっちゅう海外に飛んでいた。
森はまた愉快犯的性格をしていて、前々から信を政治家にしようと画策していた。
信が築いた政財界の人脈があれば、日本の政界のトップにいけるというのだ。
そんなこんなで落籍話は何度も出ていたが、そんな荒唐無稽な話はとても信じられなかったので、いつも断っていた。
だが今なら全力で頷くだろう。というか、その申し出を望んですらいる。
無意識で救いを求めるように手を伸ばすと、森は近づいてきて近くの床に膝をついた。
そしてその手を取る。
「ストやったんだって? やらかしたなぁ~お前。でもすごいよ。今までそんな話聞いたことない」
「はは……お耳が早い。御覧の通り残念な結果に終わりました」
「遊びに来たらお前は来ないし、店の子皆その噂で持ちきりだしさあ。マジびっくりした」
「どうしてここに?」
「いや悪ぃけど助けようとか、そういうんじゃないんだけど。このままだと河岸行きだっつーから今ならチャンスかと思ってな。河岸よりはゲームの方がマシだろ?」
そう言って意味ありげな表情をする。
「……」
「『成り上がりゲーム』、やる?」
「落籍……してくれるんですか?」
「ゲームやるんならな。で、どうする?」
これはもう受けるしかない。拒否権はないも同然だった。
信は頭を下げて言った。
「……よろしくお願いします」
「おっし! そうこなきゃなあ。だそうです、小竹さん。話進めてもらっていいすかね?」
すると遣り手は一瞬間をおいてから答えた。
「承知しました。すぐに始めます。終わるまで上階で少々お待ちいただけますか?」
「オッケーです。あ、信も連れてっていいかな?」
「それでは準備してから座敷に上がらせますので……」
そこで再び睡魔が襲ってきて遣り手の声が遠くなる。
信はベッドにもたれかかって目を閉じた。
助かった。自分は助かったのだ。
森が助けてくれた。動機が何であろうと落籍してくれた。
この恩は一生かけて返さねばなるまい。森の言う「成り上がりゲーム」も全力でやろう。
信はそんなことを思いながら再び意識を手放したのだった。