五年前ーー。
冬の寒空の下に、一人の男が立っていた。
目の前には、ぱっくりと口を開けた谷。谷底には、黒々した川が流れている。
老朽化して今にも落ちそうな木の吊り橋が、風を受けてわずかに揺れる。
その橋の真ん中で、男が谷底を覗きこんでいた。
星あかりしかない峡谷の闇の中、端正な横顔がほのかに浮かび上がる。
全てのパーツが完璧に配置された美形だった。
くっきりした二重の切長の目元は甘く、男も女も魅了しそうだ。
その右目の下には泣きぼくろがあり、中性的な美しさをより際立たせている。
肌にはくすみひとつなく、どこか人間離れしたような美しさがある。
一見して、男にも女にも見えるが、ショートというには短すぎる髪が、その人物は男だといっていた。
四肢はすらりと長く、細身だが華奢ではない。
彼は、女からは求められ、男からは妬まれるような容姿をしていた。
誰もが羨むような華やかな容姿とは裏腹に、しかしその表情は沈んでいる。
川面を見下ろす目は暗く、絶望を湛えていた。
見る者が見れば、死にゆく者だと一発でわかるような目。
危機感のある者が見たら、即座に声をかけるだろう。
だが今、ここには誰もいない。
大晦日の夜に、わざわざ山奥に来ようなどという物好きはいなかった。
皆、家族と、恋人と、あるいは友人と新年を待ち望んでいる。
やっとの休みに喜びながら、年が明けるのを待っている。
だが今、男は孤独だった。
誰一人彼に手を差し伸べる者はいない。
圧倒的な孤独と絶望が、男を蝕んでいた。
誰にも声が届かず、誰の声も届かない場所に、今彼はいる。
暗く、寒く、孤独な場所で、まだ若い青年はその短い人生の幕を閉じようとしていた。
寒そうにジャケットのポケットに手を突っ込んでいた男は、その手を出した。
そして、覚悟を決めたように一歩前に進み、手すりから身を乗り出す。
男の体重で橋が軋み、わずかに傾く。
もう一歩踏み出したら落ちるというその時、場違いに明るい着メロが鳴った。あんパンのヒーローが主人公の国民的アニメの主題歌。
それを聞いて男ははっとしたように身を引き、上着のポケットに手を突っ込んだ。
そして、スマホを出して通話ボタンを押し、耳に当てる。
聞こえてきたのは、中年女性の明るい声だった。
「もしもし、彰君? 久しぶり〜。お仕事お疲れ様ね。今年はいつ頃来れそうかな? それに合わせて天ぷら揚げようと思ってるのよ〜。淳哉に聞いたんだけど、わかんないとか言うから。ごめんねえ、何かあの時のこと、まだ根に持ってるみたいで。それで、何時頃来れるかなあ?」
女性の言葉に、男は目を見開き、しばし絶句した。
「あれ、彰くん? やっぱ忙しい?」
「……行っていいんすか?」
「勿論。皆待ってるよ〜。ほら最近、仕事忙しくてあんまりうち来れなかったじゃない? だから、拓哉も幸樹もお父さんも楽しみにしてるみたい。こないだもテレビ映った〜って大盛り上がりよ。ミーハーなのよねえ。だから、今日も質問攻めしちゃダメよって言ったんだけどねえ……。あ、ちょっと待って。……そう、彰くん。あっ、お父さん、」
そこで電話口から聞こえてくるのが、低い男の声に変わる。
「よお、彰。仕事お疲れ様な〜。悪いけどもう始めちゃったよ。今年もカニ取り寄せたからなー。早く来ないとなくなるぞ」
「あ、はい……」
「酒もいいのあるから、飲んで飲んで飲みまくろうなあ?」
そこで受話器を取り上げられたらしく、ガサガサ音がして、背後で会話が聞こえる。
「もう、アルハラダメって言ってるでしょ。お父さんは毎年毎年……」
「いいじゃん、せっかくの正月なんだしさ。彰、今年も泊まっていけるんだろ?」
「どうかしらねえ。最近ずいぶん忙しいみたいだから、予定聞いてみないと」
「三が日位はさすがに休みだろ。新年一発目の釣りも一緒に行きたいしなあ」
「寒くて行かないわよ。ダメよ、無理に言ったら。お正月ぐらい休ませてあげないと」
「そうかあ」
そうやって少しやり取りをした後、電話口に女性が出た。
「ごめんなさいね。お父さんもう酔っ払ってて」
「早いっすね」
「そうなのよ。なーんかはしゃいじゃって。ほら、彰くんのこと、息子みたいに思ってるとこあるから、活躍がよっぽど嬉しいのね。会社の人にも自慢してるみたい」
「……そうなんですか」
「そうそう。雑誌なんかも切り抜き作って。私はマメじゃないからあんまりしないんだけど。ほら、写真撮るのもアルバム作るのもあの人じゃない、ウチって。それで彰くんの新しいアルバムも作り始めたみたいよ。ちっちゃい頃のも何冊かあったでしょ。まあ、淳哉の方はさっぱりなんだけどねー」
「そうっすね。あっちの事務所は、練習生をテレビに出さないから」
女性の背後から、男性数人が会話する声とテレビの音がかすかに聞こえてくる。
電話するにつれ、それまで黒い川しか見ていなかった男の目が上に上がり、瞳に光が戻り出した。
「やっぱりそうよね。だから言ったのよ、彰くんと一緒のとこ受けなさいって。なのに意地張っちゃって……。昔から頑固なのよねえ」
「でもいつか活躍しますよ。ダンスうまいし」
「だといいんだけどねえ。あ、長々とごめんね。今日来れそうかなぁ? 無理にとは言わないんだけど、やっぱりお正月は家族で迎えたいじゃない? 駅まで迎えに行くから着いたら教えてくれる?」
「九時頃には行けると思います」
「了解! じゃあ着いたら電話ちょーだいね」
「はい」
男はそう言って電話を切った。そして、深々と息を吐き出し、しばし瞑目する。
強い魔力で彼を引きつけていた谷底は、今や力を失い始めていた。
あと一歩のところで、光が彼を強く引き戻したのだ。
男は、スマホをポケットにしまい、一瞬谷底を見てから踵を返した。
そして、闇の世界に背を向け、付近に停めてあったバイクに乗って、走り去ったのだった。