八年後ーー。
「冷えるなあ」
そう、隣を歩く男が空を仰いで言う。晩秋のある日、鶴見章介は友人の天野信と久しぶりに食事に出ていた。
信は現在衆議院の議員をしている。後ろ盾となっている与党重鎮・古賀道義の後押しで初当選を果たして以来、ここ半年ほぼ休みなしで働いていた。長谷という官僚出身の秘書に尻を叩かれて馬車馬の如く働いていたのだ。
それが、今年の国会が閉会となってやっとひと息ついたところだった。
長いこと顔を合わせていなかったので久しぶりに食事でもとなって食事に出た帰り道。秋晴れの透き通った夜空には星が瞬いていた。
鶴見章介は息をつき、言った。
「朝晩冷えこむようになったな」
「うん。今度温泉でも行こうよ。瑞貴君と三人で」
「仕事はいいのか?」
佐竹瑞貴は現在同棲している恋人である。いや、恋人というよりは伴侶に近い。章介は、瑞貴と生涯を共にすることを決めていた。
横を見ると、信は首を回して息をつく。
「たまには休ませてもらうよ。会期も終わったことだし」
「長谷の目論見通り、か……」
「そんなに悪い人じゃないよ。ただ処理能力がものすごくて、ついていけない私が悪いんだ」
「能力以前に仕事中毒にだろ、あれは。信がついていけないんだったら誰もついていけない」
信は頭が良い。その信がついていけないんだったら向こうの配慮不足だろう。
「きっと仕事が生き甲斐なんだろうね。信念もあるし、すごい人だよ」
信の言葉に章介は足を止めて、何事かと振り返った相手に言った。
「利用されてるって、わかってるな? アイツにとっては信も森もただの駒だ。心を許しすぎるな」
信の秘書である長谷佑磨は霞ヶ関で挫折し、その埋め合わせに森の『政界成り上がりゲーム』に参加したしょうもない男だった。信を利用しようというのが見え見えだったので始めから気に食わなかったのだ。
「別にいいんだよ。私は森さんにもらった恩を返してるだけだから」
「そんなんでやっていける世界なのか? あそこで嫌というほど知ったろう、政界がどんなところか。古狸みたいな奴がうじゃうじゃいるところなんだぞ。おまけに変態も」
すると、街灯の光を背に受けた信は笑った。
「心配してくれてありがとう。でも、望んでやってることだから。私は、あの店を――白銀楼を、そして玉東を潰すためにやってる。あそこを告発したいんだ」
「玉東か……」
友人の目は底知れぬ暗さを湛えていた。その暗さに見入っているうち過去の思い出が胸に去来し、章介は過去に引き戻される。
それは、あの場所に足を踏み入れた日の忌まわしい記憶だった。
◇
玉東――二十世紀後半にできた歓楽街。東京郊外の山中にできたこの花街は、遊郭風の楼閣が林立し、花魁姿の女たちが闊歩する華やかな街だった。
だが傾城と呼ばれるキャスト側としてその街に一歩足を踏み入れればわかる。それは見せかけの美しさであることが。
玉東はその実、売買春どころか人身売買さえもまかり通る無法地帯だった。
大半が女性キャストばかりの店だったが、その中に一軒だけ女子禁制のハイクラブがある。
大門から入って右手の紅霞通りに面する店、白銀楼(はくぎんろう)。そこには男の花魁しかいなかった。
物珍しさで来ようとする客が気軽に立ち入れないほど敷居の高い店――そこに入ったのは十七のとき。親の借金を肩代わりするためだった。
章介の両親は両方ろくでなしだった。ろくに仕事もせず、ギャンブル狂いで幼い頃から借金ばかり。何日も家を空けることも多く、章介は必要な食事さえ与えられずに育った。
それで飢え死にしかけていたのを祖母が発見し引き取ったのが三歳のとき。正直自分の介入がなければ死んでいただろうと祖母はのちに語った。
そうして祖母は章介にそんな仕打ちをした自分の息子、すなわち章介の父親を勘当し、裁判で章介の親権を勝ち取ったのちは一度も章介に会わせなかった。それが答えだったのだろう。
その騒動ののち両親は地元松本を離れ、どこかへ消えた。そうして章介が高校に上がるまで姿を見せなかった。
まったくの音信不通だったので何をしていたのかは知らないが、どうせろくでもない人生を送っていたのだろう。
だが、二人は祖母の死後急に現れた。そして何を思ったのか章介を旅行に誘ったのだ。高二の夏休みも終わりの時期だった。
章介は悩みに悩んだ末に誘いに乗った。三ヶ月ほど前から体調を崩していた祖母の突然すぎる死に動揺して、誰でもいいから頼りたくなっていたのかもしれない。
だがそれは間違いだった。章介が頼るべきはろくでなしの親ではなく自分自身だったのだ。
両親は章介とおざなりな東京観光をしたのち、彼をオフィス街にある何の変哲もない会社の事務所へと連れていった。改心して真面目に働いているから職場を見せたいとかなんとか言っていた気がする。
それを信じてノコノコついていった章介を待ち受けていたのは、やけに目つきが鋭い背広姿の男だった。
そしてその男は章介を上から下まで見た後、信じがたい言葉を発した。
「借金の形に売りたいのはこの子?」
「はい。一番高く売れるやつで。それでチャラにしてもらえますよね? あ、もしお釣りあったら欲しいんすけど」
父親が何を言っているのか理解できなかった。
「お前の子供か? 鬼畜だねえ」
「いやしのごの言ってられないっすよこの際」
「一番高くつくのは臓器だけど、死ぬよこの子。いいの?」
「えーと、まあ……」
そこで我に返った章介は逃げようとした。だが、振り返った先には何人もの屈強な男たちが立ちはだかっていた。
そしてその間を通り抜けようとする章介を拘束する。
「ふざけんなっ、放せっ!」
こんな反社事務所が堂々と存在することが信じられない。章介を後ろからがっちり羽交い締めにしているのは明らかにその筋の男だった。
もがいていると、そこで母親が口を挟んだ。
「臓器はちょっと……」
それで母も承知でここへ連れてきたのだとわかる。それに思った以上のショックを受けた。
「じゃあ玉東にするか? 十七だったよな? 若いのは高く売れる」
「でも男だけど」
「女相手の店とか色々ある。……男相手の店もな」
すると父親が声を上げて笑った。
「カマ掘られんの? うへぇ〜きつ。でもしょうがないよなぁ? お前はあのババア選んだんだから、俺たちじゃなくてさ。てめえがババアに告げ口したせいで俺らの人生はめちゃくちゃだよ。そっからだ、何やってもうまくいかねぇのは。だから最後の親孝行と思って働いてくれ。な? 今俺ら結構ヤバい状態なんだよ、殺されるかもしんねえ。お前だけが頼りなんだよ。な? 頼む」
「ふざけんな、そんな義理ねえ! てめえで作った借金だろうが! 自分で返せ!」
すると、奥の机に座っていた男は懐から拳銃を取り出し、両親に向けた。
「だとさ。残念だったなぁ鶴見サン。ま、無理強いはできねぇからな、あんたらに払ってもらうしかねえ。おい、拘束しろ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ金橋さん。あと一週間、一週間で金を用意できるから」
「きゃあっ!」
急に怯え出した両親はあっという間に後ろ手に拘束された。代わりに章介は解放される。
立ち尽くしていると、床に膝をつかされた二人の目の前に立ち、金橋と呼ばれた男は言った。
「こいつは臓器、女の方は玉東の『地下』だな。おい、薬打っとけ」
命じられて同じように背広の部下達が跪き、二人の腕に注射器で薬剤を打ち込む。
絶叫していた二人はその途端にぐったりと意識を失った。
それに動揺した章介は思わず二人に駆け寄った。
「おい、殺してないよな?」
そう聞くと金橋が面倒そうに答える。
「まだ、な。お前はもう帰れ。親父がバラされるの見たくなきゃな」
「臓器って……本気か?」
「ああ。なんとこいつらは二千万もウチに借金してんだ。ウチのカジノで負けた分とかな。そんぐらいじゃないと回収できねえ。こんな歳じゃ男は売れねえしな」
「……『地下』っていうのは?」
すると金橋は唇の端を引き上げた。
「それは聞かない方がいい。地獄だよ」
「どこなんだ?」
「……まあ『地下』ってのは玉東の中でも特にヤバい店の総称だよ。糞食わせたり、肉体改造したりな。一番おったまげたのは馬とヤらせるってのだったな。まあでもそこ落ちたらだいたい薬漬けだから本人覚えてねえよ。だから安心しな、お前の母ちゃんは何もわからねえままでやることになるからよ。さあ、わかったらさっさと帰りな」
だが章介はその場を動けなかった。
「俺が行くとしたら、やっぱりそこなのか?」
「いや? 若いし見た目もいいから多分上の方の店かな」
「そこでは何するんだ?」
そう聞いた時、不意に部屋の扉がノックされて開いた。その途端に横柄だった金橋が飛び上がって気をつけをした。
「あっ、お疲れ様です小竹さん!」
「邪魔して悪いな、書類取りに来た」
入ってきたのはノンフレームの眼鏡をかけた細身の優男だった。歳の頃は四十手前ぐらい。
小竹と呼ばれたその男は奥のキャビネットの引き出しを開け、茶封筒を持って戻ってきた。
「わざわざすみません! 言ってもらえたら届けに行ったんですが」
「いい。この子は?」
そこで初めて小竹の目が章介に注がれる。
「鶴見龍二の息子です」
「ほう。取り立ては済んだのか?」
「ほぼ。男は解体して女は『地下』に売ります。息子に肩代わりさせようと連れてきたみたいなんですが拒否したんで」
「拒否は、してない」
章介が口を挟むと二人がこちらを見た。
「玉東でどんな仕事をするのか教えてくれ。そしたら考える」
すると金橋が口を開く前に小竹が言った。
「酒の相手とセックス。最初の二年は見習いで十年契約。契約金は二百万だ。かなり稼げるぞ。二千万なんてすぐ返せる」
「……体が傷つくようなことは?」
「ない。薬物の持ち込みも禁止している。労働環境としては相当いいと思うぞ。ただし、客は全員男だ」
「男!? でも俺、男……」
「すぐに慣れる。ノンケの子も多いからな。どうする? うちに来るか?」
「……そうしたらコイツらは帰れるか?」
「ああ。俺から話をつけてやる」
「……わかった。行く」
「じゃあ脱げ」
「……は?」
すると小竹は何でもないことのように言った。
「商品を買う前には状態をチェックするだろ?」
「……ここで?」
「恥ずかしいのか?」
鼻で笑われ、頬が熱くなる。章介は小竹を睨むと、勢いよくポロシャツを脱いだ。
そうしてその視線を挑戦的に受け止める。だが小竹は満足しなかった。
「下もだ」
「無理だろそれは!」
「ならお前は買わない。代わりに親を差し出すんだな」
小竹は冷たくそう言って躊躇いなく章介に背を向けた。そして出口に向かって歩き出す。
ぎりぎりの心理状態で章介は決断を迫られた。自分の身を差し出すか、親の命を差し出すか、究極の二者択一。
もし小竹に従わなければ親は死ぬだろう。母親の方は店に売るという話だったが、話を聞く限り無事にそこから出られるとは思えない。
つまり、ここで章介が見捨てれば二人は死ぬ。最も悲惨な末路を辿って。
だが見捨てたとしても、章介を責める者は誰もいないだろう。彼らは育児放棄で章介を死なせかけたばかりか、騙してここに連れてきて借金の形に売ろうとしたのだから。人間の下の下、最低の屑である。
だが、物心つく前に祖母に引き取られ、厳しくも愛情深く育てられた章介にそれはできなかった。愛され、大事に育てられたがゆえに情が深く、そして甘かったからである。
それで章介は去りゆく小竹を制止した。制止してしまった――。
「待て」
「何か?」
振り返った小竹に見られながら、章介はパンツと下着を脱ぎ捨てた。そして床に視線を落とし、相手が満足するのを待つ。全身に鳥肌が立ち、心臓がバクバクいっていた。
誰かが口笛を吹き、ますます惨めになる。だが、親が死ぬよりはマシだと自分に言い聞かせ続けた。
そうやって必死に耐えていると、不意に小竹が近づいてきて命じた。
「一回転してみろ」
言われた通りにすると、小竹は呟くように言った。
「いいな。今までに経験は?」
奥歯をかみしめ、わずかに首を振る。付き合った経験がないわけではなかったが、昨年付き合った相手に休みのたびに山に登るのに文句を言われて非常に面倒くさい喧嘩になり、嫌気が差して別れて以来女は遠ざけていた。女よりも山と向き合いたいと思ったのだ。
だが今となってはあの時にもっと関係を進めて初体験しておけばよかったとも思う。初めての相手が好きでもない男など考えるだにぞっとした。
もう早く解放してくれ、とひたすら願いながら待っていると、小竹がさらに近づいてきて予想外の行動に出た。
「なら機能するか確かめないとな」
そう言ってあろうことか章介の股間を掴んだのである。章介は反射的に相手を突き飛ばした。
「何すんだっ!」
「だから検品だよ。不感症は売れないからな」
「違う!」
「証明しろ。触られんのが嫌なら自慰でいい」
「っ……!」
展開に頭がついていかない。こんな衆人環視の中で自慰しろなど正気ではない。
「お前みたいなタイプは勃たなきゃ使えないからな。早漏か? それだと入ってから苦労するが……」
「もうわかったからさっさとやれ!」
あまりにあけすけな物言いに耐えられなくなって叫ぶ。自慰か触られるか、究極の二択で前者だけは無理、というのが章介の答えだった。
「いいのか? じゃあ触るぞ」
「っ……」
二人を取り囲むようにして立つやくざ者達は好奇心と嫌悪感がないまぜになったような顔でこちらを見つめて時折小声で冷やかしを入れていた。
こんな異常な状況で勃つはずがない、という予想を裏切り、小竹の手技で体は熱を帯び始める。やわやわとそこを刺激されているうち性器は先走りを垂らし始めた。
一回り以上小柄な小竹の細長い指が行き来するスピードが次第に速くなる。
クチュクチュと耳を覆いたくなるような水音が室内に響きわたり、芯を持ったそれが充血して絶え間ない快楽の波が章介を襲う。
しばらくそうやってしごきあげられて、やがてそれは爆ぜた。
「はっ……」
声を殺して息を整える。うつむいた視線の先、放出された白濁は小竹の手を伝い床に垂れ落ちた。
小竹は腕時計を確認し、表情一つ変えずに言った。
「まあまあだな。服を着ていい」
章介はそう聞くが早いか床に落ちた服を拾い集め、素早く身に着けた。やっと終わったという安堵、それしかない。非日常的な出来事の連続で、精神的に疲弊しきっていた。
小竹は汚れた手をハンカチで拭くと、何事もなかったかのようにソファに置いていた茶封筒を手に取り、金橋に章介を買い取る旨を伝えた。そしてついてこい、と章介に言って歩き出す。
章介はこの悪夢のような空間から解放されたことにただただ安堵しながら小竹についてその事務所を出たのだった――。
◇
章介がこのとき出会ったこの男こそが、のちに働くことになる白銀楼の遣り手、つまり支配人だった。そうして連れていかれた先にいたのが信だった。
信は章介とは違い、自ら来たのではなく犯罪に巻き込まれたと言っていた。いわゆる人身売買である。章介はそれを聞いてそこがどれほどの無法地帯であるかを知ったのだった。
玉東は一つの街のようになっており、当然警察署もある。だがそこに行っても取り合ってもらえなかったという。
のちに古株の傾城に聞いたところによると、そこの警察署長は玉東の元締め組織に買収されており、警察としてほぼ機能していないとのことだった。
玉東とはそういう街だったのである。
逃げられない牢獄の中で信と章介は苦しみながらも生き抜いた。そして様々な試練を共に経験するうち二人は共鳴し、やがてかけがえのない友人となった。そして落籍までの日々を共に過ごしたのだ。
だから、信が政治家になると言ったとき章介は反対した。あの店には政府高官や政治家の客も多かったし、そんなことをしたら危険だと思ったのだ。
だが信はやる気だった。玉東での違法行為と人権侵害を告発するためにやりたいと言った。
だからサポートするしかないだろう。信がどうしてもやりたいというのならやるべきだ。
現実に引き戻された章介が友人のこれまで見せたことのない表情に見入っていると、相手は近づいてきて章介の腕を取った。
「ツケを払わせたいんだ。私たちを踏み躙った全ての人間に」
「……そうか。まあその気持ちは、わからなくもない」
その言葉に、信が顔を上げた。夜目にもわかるほど恐ろしい美貌だった。
この顔のために、信はあの地獄に突き落とされたのだ。
暴力団に拉致され、売られ、無理矢理働かされた。そうして朝から晩までひたすらに男の相手をした。
店のトップだった信の生活は、間違いなく章介のそれより過酷だっただろう。
それでも信は生き抜いた。その強靭な精神をもってして。
章介は信を見ながら呟くように言った。
「不公平に感じるよな」
「うん、わかる。外に出てからさ……ときどき考えてしまうようになったんだよ。自分の本来の人生を」
「なんで俺たちだったんだろうな」
「ほんとにね……。出てからの方が苦しいよ、ときどき」
「好きなように生きたらいい。お前を苦しめた運命への一番の復讐は幸せだよ」
すると、信は驚いたように目を見開いた。
「それ、どこで聞いたの?」
「さあな。思いつきだ」
「それ、すごくいい。そうだな、確かにそうだ。章介、ありがとう」
「いや、俺はなにも……。ただくれぐれも身辺には気をつけろ」
玉東の内情を知る政治家となった信に敵は多い。
「うん、気をつける。そうだ、今度温泉でも行こよ。で、美味しいものいっぱい食べて、森林浴してリフレッシュしよ」
「そうだな」
「こっちで予約取るよ。瑞貴君に都合いい日聞いといてくれる?」
「わかった」
信はわずかの沈黙ののち、章介をじっと見て言った。
「『運命がレモンを与えるなら、レモネードにして飲もう』」
「なんだ急に?」
「人生の試練を逆に利用して幸せになろうってこと。なんとなく思い出した」
「いい言葉だな」
あの地獄にいたときも、こうして信のなにげない言葉に救われていたことを思い出す。後ろ向きな人間が多かった店でも信は常に前向きだった。それは今でも変わらない。信のそういうところを昔から尊敬していた。
「うん。私頑張るから。私たちを踏みつけに人たちに報いを受けさせるよ」
「まあ、ほどほどにな」
もし玉東がなければ章介の両親は死んでいた。そして章介も借金を返しきった上、同年代の一般人がとても稼げない額を手にすることはできなかっただろう。だから玉東のことは憎み切れず、正直複雑な思いを抱いていた。
だがそもそも借金のなかった信は違う。拉致され脅迫され、完全に自分の意志に反して働いていたのだから玉東に怒りを抱くのも当然の話だ。そのあたりの意見の違いに関して、しかし章介はことさら口に出しはしなかった。人間にはそれぞれの正義がある。それに口をさしはさむのは野暮というものだ。
信がやりたいのならやるべきだろう。彼はきっとやり通す。十年かかっても二十年かかっても諦めずに前に進み続けるだろう。そして玉東にメスを入れ、すべてを暴き出す。その時に信は玉東の呪縛から解放され、真に望む人生を手に入れるのだろう。
章介は早くその日が来ることを願いながら、帰途に就いたのだった。