翌週の週末、章介は瑞貴と信と共に秩父の温泉に来ていた。
「はぁ、あったまる~」
「ほんとだねー」
湯につかった瑞貴と信が心底気持ち良さそうに言って、露天風呂の淵に背を預ける。露天風呂は貸切で、三人の他には誰もいなかった。
露天風呂からは昼間散策に行った山が見え、小川の音が聞こえている。
この時期、紅葉を終えた木々が枯れ葉を落としていた。
山の方を指差して瑞貴が聞く。
「昼間行った散策道ってあのあたり?」
「そうだな」
章介は頷く。瑞貴が指差す先には黒々した山が見えた。完全に日が落ちた今は、温泉街の光を囲むようにして密集する木々が、暗く沈んでいる。
山の斜面に建つこの旅館は、奥秩父の温泉街を一望できる場所にあった。
「結構寒かったね。平地と全然違う」
「山は冷えるからな」
「予報だと今年は厳冬みたいだよ。山行くとき、気をつけてね」
「ああ」
章介は季節を問わず山に登っている。まとまった休みが取れれば故郷の穂高へ、週末は近場の奥多摩や秩父へ。
山岳クラブの仲間と、とにかく暇さえあれば登っていた。
人生の目的は何かと訊かれたら、間違いなく登山と答えるだろう。子供の頃からとにかく山が好きだった。
そんなことを考えながら山を見ていると、信が感慨深そうに言った。
「なんか久しぶりだねぇ、こうやってみんなで一緒に温泉なんて」
「お互い忙しいからな」
章介が頷くと瑞貴も相槌を打つ。
「だよねー」
「ほんと。忙しくて、感傷に浸る暇もない。まあ、その方がいいのかな」
「そういうときもあるな」
「だねえ」
のんびりした口調で言って、信がうっとりと目を細める。本当にリラックスしているときの表情だ。口には出さないが激務で相当疲れが溜まっていたのだろう。
少し痩せた気もする。
章介は少し逡巡したのち、結局口を開いた。
「しばらくは休めるのか?」
「うーん、どうかな……。やることがなくはないんだよね」
「少し休ませてもらえ。体に障る」
そしてここで声を低める。
「傷は……?」
「大丈夫」
信は玉東時代に恋慕を募らせた客に刺されて大怪我を負っていた。
店の目と鼻の先に急患センターのある総合病院があったおかげで一命は取り留めたが、失血死寸前の大怪我だった。
その傷跡は今でもある。
「そうか……。でも無理するな。ずいぶんな深手だったんだ。あのワーカホリックには俺から言っておく」
「うん。ありがとう」
こちらをじっと見て、ホッとしたように淡い笑みを刻んだ友人に、章介は深い満足を覚えた。
頼られるというのは良いものだ。誰かを守ろうなどと思ったことなど、男が相手でも女が相手でもないが、信だけは別だった。
あの地獄を共に生き抜いた信を超える存在はおそらく一生涯現れないだろう。
愛とか恋とか、そんな軽いものではないのだ。文字通り、互いが互いの命綱であるという感覚。生き抜くために絶対に必要な存在に互いがなるということ。
それがどういうことかは、あそこに落ちた者でなければ一生理解できない。
そしてそれでいい。所詮、生きる世界が違うのだ。
それでも瑞貴が一番大事であることにかわりはないが。
「あ、見て、星がすごく綺麗だよ。やっぱり秋の空は透明度が違うなあ。あれ、何座かな?」
瑞貴の問いに、信が答える。
「カシオペア座じゃない?」
「へぇ、しーちゃんって何でも知ってるねぇ」
「ここからだとこんなに綺麗に見えるんだね。穴場だね。いいとこ見つけた」
信の言葉に、章介が聞く。
「来たことなかったのか?」
「秩父は別の旅館ならあるんだけどね、ここは初めて。たまたま予約取れたのがここだったんだけど、かえってよかったな」
「当たりだったな」
ゆっくり時間が流れてゆく。こうしていると、まるで昔に戻ったかのようだった。あの店で唯一リラックスできたのは浴場だった気もする。
温泉街の光と手前を流れる小川を眺めながらいろいろと考えを巡らせていると、同じようなことを考えたらしい信が呟いた。
「あれからもう十年近いのか……。なんだか、信じられないな、こうしてここにいるなんて」
「まあそうだな」
「あの頃、絶対に一緒に出ようって言っただろ? でも、半分くらいは諦めてた。あそこで一生終わるんだと思ってたよ」
その言葉に瑞貴が息を呑む。仲は良いようだが、こういう話を聞かされるのは初めてなのかもしれない。
章介は同意した。
「あそこは……未来が見えない場所だったな」
「うん。希望なんてなくて、毎日毎日ただ働いて。今もあそこにいる子がいるかと思うとね……」
「腐り切った場所だ」
「うん。でもこうして出られた。私たちはラッキーだったよ。そしてそのラッキーの半分は瑞貴君のおかげだね」
瑞貴が困ったように否定する。
「そんなことないよ。もっと早く出してあげられればよかったけど……」
章介を店から落籍したのは瑞貴だった。
「十分だ。あそこでの一年は長い。二年早く出れたんだから御の字だろ」
章介がそう言うと、瑞貴は振り返って潤んだ目でこちらを見た。
「本当?」
「ああ。感謝してる」
「そっか……。でも、それで何か返さなきゃとかは思わなくていいからね。章ちゃんとは対等でいたいんだ」
「お前、いい奴だな」
頭をポンポンしてやると、瑞貴は可愛らしい顔で見上げてきた。
黒目がちの大きな目と丸顔は小動物を思わせる。
昔から好きになってきたタイプの顔だった。
初めの頃は男であるということがネックだった。
いくら好みの容姿をしていても、恋愛対象が女性の章介の食指は動かなかったのだ。
だが、瑞貴は客として店に来ながら体を要求することもなく、良き友人となった。
そして、莫大な花代を払って売り上げにただ貢献し続け、見返りを求めず章介に尽くした。
それが続き、良心の呵責に耐えかねた章介が自ら瑞貴を抱いた。そういう経緯だった。
だから、初めから惹かれていたわけではない。
だが、肌を合わせれば自然と情も湧き、やがて恋人同士となった。
その後瑞貴は章介を店から落籍したが、そのことを恩に着せることもなく、関係性は変わらなかった。
信の言った通り、純粋に章介と過ごしたかっただけだったのだ。
このような伴侶に出会えたことは、非常に幸運だったと言わざるを得ない。
玉東を出て選択肢も増え、機会もそれなりにあったが、章介は瑞貴を裏切らなかった。絶対に手放したくなかったからだ。
貢がせて利用したという罪の意識と自己嫌悪から始まった関係だった。
だが、やがてかけがえのない存在になった。
今では瑞貴と出会えて本当によかったと思っている。
今晩はしたいな、と思いながら見つめ合っていると、空気を読んだ信が腰を上げた。
「先上がるねー」
「ああ」
「うん、お夕食のときにねー」
信が出ていくと、貸切の露天風呂で二人きりになる。
そうして二人はどちらともなく唇を重ね合わせた。
◇
部屋に戻ると、まもなく夕食が運ばれてきた。十五畳ほどの和室の中央に置かれたテーブルの上に、天ぷら、炊き込みご飯、刺身といった一般的な旅館の夕食が三人分運ばれてくる。
まもなく信がやってきて、三人は乾杯して食べ始めた。
「じゃ、かんぱーい」
「乾杯」
「乾杯」
向かい側に座った信はにこにこと言った。
「おいしいね」
「うんおいしー」
それに瑞貴が相槌を打つ。信は炊き込みご飯を味わうように食べ、言った。
「おだしきいてて美味しいなあ。栗がホクホクですごく甘い。おだしの配合知りたいなぁ。炊き込みご飯はいろいろバージョン変えて試してるんだけどなかなかこれっていう味にならないんだよね」
「えーすごい。僕市販のタレしか作ったことない」
瑞貴が賞賛する。
「うん、私も最初はそうだったんだけどある時目覚めちゃって。でも結局市販の方が美味しいとかよくあるんだよなぁ」
「あるある! 味の素が結局正義みたいなね?」
「ふふっ、そうそう」
楽しげに料理の話をする二人を好ましく思いながら章介は黙々と食べ進めた。この二人と食べる食事は美味しい。
時折話を振ってくる二人と短く会話しながら食べ終える。そして二人がデザートに入り、会話が途切れたタイミングで章介は口を開き、ずっと聞きたかったことを聞いた。
「信、そういえば見合いをしたとか?」
「ああ、うん」
食後の果物をつつきながら信が頷く。
「いいお嬢さんだったよ。翔太郎さんが見つけてきてくれたんだけどね」
「受けるのか?」
「多分ね」
「そうか……」
信は同性愛者だ。店にいた頃はっきりそう言っていた。
それなのに女と結婚していいのだろうか。
そうも思うが、それを言ったら踏み込み過ぎだろう。
瑞貴も信を窺うように見たが、何も言わない。
その辺りはわきまえている子だった。
「その子を裏切るようなことはしない。翔太郎さんにも先生にもそう言った」
「まあ、お前がそれでいいなら」
「うん。この道に入った以上は仕方ないよ。身を固めないと信用されないし」
「そうなんだな。そういや結婚といえば、秋二が結婚したの知ってるか?」
すると、信はわずかに顔を歪めて頷いた。
「聞いたよ。同性婚だろ? アメリカは進んでるよなあ」
「州またげば結婚できるわけだもんねー」
瑞貴がうんうんと頷く。
アンダーソン秋二は店にいた頃信が可愛がっていた後輩で、信が店を出て半年ほどたった頃に笠原という客に落籍されていた。
その後は米国に留学し、そのまま就職したと聞いていた。
「皆そういう時期なんだなー。二人も結婚しちゃったし」
信が章介と瑞貴の結婚指輪を見ながら言う。
二人は三年前に養子縁組をしていた。事実上の結婚である。
「わかる。知り合いがどんどん身を固めていく時期というか。しーちゃん、でも……いいの?」
遠慮がちに聞いた瑞貴に信が苦笑した。
「まぁ仕方ないよ」
「そう……」
信はそれ以上深掘りせずに話題を変えた。
「章介、仕事うまくいってるみたいじゃない。次期課長だって?」
「まあな。コネ人事じゃないといいが」
章介は瑞貴の叔父の会社で働いている。
そのことを同僚は知らないが、会社幹部の者たちは知っていた。
章介の言葉に信が首を振り、瑞貴も否定する。
「コネだったら最初から役に就けるよ」
「そうそう」
「そうかな」
章介は店から落籍されてから八年、瑞貴の叔父の会社で働いていた。
瑞貴は瑞貴で学生時代に立ち上げた事業があり、会社も保有しているのだが、公私を分けるべきだという叔父の忠言によりその会社に入ることは免れた。
結果的に、それは双方にとって良かったといえる。瑞貴は章介とのお喋りに夢中で経営判断を誤ることもないし、章介は始終そのお喋りに付き合わされずに済む。
頭が良いからだろうが、瑞貴はよくもまあこれほど喋れるな、と思うほどよく喋った。
愚痴や陰口など、聞いていて陰気になるような話題が少ないのがまだしもだが、章介には理解不能なコスメとか美容の話が多いので、一日一緒というのは正直気疲れする。
「そっかー、章介もついに課長かあ。今度お祝いしないとね」
「ほんとだね。何する?」
お祝いパーティをどうするかで盛り上がる二人を横目に、章介は酒をちびちびと飲んだ。
非常に酒が美味い。
そうして、三人はしばらく楽しい時間を過ごしたのだった。
◇
翌朝は、早朝は霧がかかっていたが、日が昇り切ると晴天となった。三人は昨日とは違う散策路を少し楽しんでからそばを食べ、帰路についた。
道中、信と瑞貴は他愛無い話を非常に楽しそうにしていた。
章介はまったく興味を惹かれない話ーーカフェとか美容とか海外の芸能人の話だーーで延々とお喋りする。
店にいた頃もよくこういうことがあったが、何が面白いのかと思う反面、それをそばで眺めているのが嫌いではなかった。そして今は心地良く感じている。
自由な世界で、日が燦々と降り注ぐ。秩父の山々はますます青々として、章介を誘っていた。
ここに来られてよかった、と思いながら、章介はアクセルを踏み込んだ。