その日も何の変哲もないいつも通りの一日だった。朝出勤して書類仕事をし、昼を食べに出て戻ってきて会議、その後また書類仕事。
章介は人事部に配属されていたが、採用や研修担当ではなく、給与・労務担当なので基本的に書類仕事が多い。
年末のこの時期は特に年末調整で仕事量が多く、残業になることもしばしばだった。
そのため、この日も残業をしていた。だがこの後の展開を知っていたら残業などせず早々に帰っただろう。
ふと手元から目を上げて時計を見ると時刻は二十時半過ぎを回っていた。人事部の社員は全員帰宅しているが、フロアの向こう側にぽつぽつと明かりが灯っている空間がある。
他の部署でまだ残っている人がいるのだろう。それにどこか安心してまた書類に目を戻しかけたとき、出入り口に人影が見えて思わず見た。
赤いコート姿の女性社員ーーその姿を見て思わず呻きそうになる。それは上司の飯塚だった。
飯塚は高い靴音を響かせながら一直線に近づいてきて言った。
「おつかれさま。まだ残ってたのね」
「お疲れ様です」
「ちょっと忘れ物」
この上司は、適度な距離感の社内環境の中で、唯一面倒な絡み方をしてくる人物だった。
気があるのか、それとなく断っているのに何度も飲みに誘ってくる。
今日もまたそれだろうか、とうんざりしながら思う。
忘れ物をしたというのも多分嘘だろう。
「あったあった。社員証、これないと困るのよねー。そういえばもうご飯食べたの?」
「はい」
「そう。でももう九時だよ。残りは明日にしたら?」
「そうですね」
「じゃあちょっと飲まない? 仕事のことでちょっと話したいこともあるし」
「……ふたりでですか?」
「うん。前も楽しかったじゃない。奢るからさー」
「……ちょっとまずくないですか? ご結婚されてますし」
「そうかな」
鞄を肩にかけ、両手をトレンチコートのポケットに突っ込んだ飯塚はわずかに首を傾げた。
この仕草は完全に計算されたものだ。飯塚はそういう女だった。
今年の春に系列会社から出向してきたこの人物は、会社で唯一といっていいトラブルだった。
居心地の良かった会社がそうでなくなってしまったのはこの四十路の既婚女がやたらと絡んでくるからだ。
「行こうよ」
「いえ、自分は……」
「ホントに飲むだけだから。ね? 仕事のことでちょっと相談したいこともあるし」
近づいてきて肩を触る飯塚の手を振り払いたいのを堪える。ムスク系の香水の香りに皮膚が粟立った。
言い訳を思いつかずにいるうち、半ば強制的に店に連行される。店は、会社からほど近い場所、通り一本入ったところにあるバーだった。前に連れて行かれたところとは違う。行きつけをいくつも持っているようだった。
薄暗い店内には客がまばらにいる。飯塚はバーテンダーに挨拶をして、奥側のカウンター席に腰かけた。
「ここの日本ウイスキー美味しいのよ。あ、強いお酒飲む女って嫌い?」
「いえ……」
「マスター、いつもの。彼にもお願い」
「はいよ。あら、今日はおふたり?」
カウンターの向こう側にやってきた男が酒を用意しながら訊く。一目であちら側、というか章介にしてみればこちら側の男だとわかるしなの作り方だった。
二人は気安い中らしい。飯塚が笑いながら言った。
「やだ、そんな言い方。いつもひとりなのがバレるでしょ」
「あらごめんなさい。イイ男ねえ。いくつ? 待って、当てる。……二十五? こんな若い子に手ぇ出したら犯罪よ、博子」
「三十二です」
「え、うそ、全然見えなーい」
まじまじとこちらを見る男に居心地が悪くなる。こういう、品定めするような視線が気色悪かった。
「でしょ? 年齢詐称だって職場の子もみんな言ってんのよ」
「職場? ああ、例の彼ね」
「ちょっ、しっ!」
「ああ、ごめんごめん」
知らないところで噂になっていたらしい。これは喜ばしくない情報だった。
今の会社の一番いいところが同僚への無関心、不干渉だったのに。
「年齢は偽っていません」
経歴は詐称だが。
「ほんと? スゴイわねえ、どこの化粧品使ってるの?」
「………」
「って冗談よ、ごめんなさいね、つい」
マスターと呼ばれた小太りの男は目を細めて笑みを浮かべた。こういう手合いは苦手だ。あけすけで品がない。
性的嗜好は瑞貴や信と同じはずなのに全く別の人種に見える。こういうとき、結局は人なのだな、と思う。
「次期課長よ。仕事ができるの」
「完璧じゃない。いいわねえ、でも彼女いるでしょ?」
「まあ……」
正確には違うが、そんなことを申告する必要はない。とにかく早くこの場を離れたかった。
このマスターに同じ側の人間だと見抜かれるのではないか、と気が気ではない。
飯塚が不満げに言う。
「そんなこと言ってなかったじゃない」
「わざわざ言うほどのことでもないかと……それより、仕事の話というのは?」
「仕事? まあ、いいじゃない。それより彼女のこと教えてよ。どんな子? いつから付き合ってるの?」
「……。十年くらいです」
「じゅうねん?!」
「じゅうねん?!」
ふたりは驚愕したように顔を見合わせた。
「ちょっと、そんなことあるの? 幼なじみとか?」
「まあ、そんなところです」
「じゃあ事実上結婚みたいなものかぁ。写真見せて」
「見たい、見たい。誰よ、このイケメンをゲットしたラッキーガールは」
「いえ、それはちょっと……」
本島は瑞貴の写真を見せて、女性は愛せませんと言うのが一番早い。それはわかっている。
しかし、それを会社中の人間に言いふらされたとき、耐えられる自信がなかった。
「なんでよー、減るもんじゃなし」
「すみません、それは本当に勘弁してください」
「え、もしかして有名人とか?」
「ウソ、芸能人と付き合ってるの?」
もう帰りたい。これだからこの女と飲むとロクなことがない、と内心悪態をつきながら、手洗いを言い訳に中座する。
店のトイレは薄暗かった。用を足し、手を洗って廊下に出たところで、人にぶつかりそうになった。
謝って脇をすり抜けようとしたところを阻まれる。
腕を掴まれ、何事かと振り向くと、薄闇の中で相手と目が合った。
「あんた……まさか……」
「久しぶり、お妃さま」
満面の笑みで近づいてきたのは、人間の皮を被った悪魔だった
◇
この男――穂波誠一は、かつて章介についていた客である。
資産運用だけで食っていけるスーパーリッチであり、仕事もしていないろくでもない男だった。
アーモンド型の目は形がよく、一見優男風だが、それは見せかけだけだった。
中身はとんでもない変態のサディストで、章介のプライドをへし折って眺めることを至上の喜びとしていたのだ。そんな男に気に入られたのが運の尽きだった。
穂波は章介が拒否するのを見越して最初に写真を撮った。当然いかがわしい写真だ。
そのように姑息なところも吐き気がするほど嫌いだったが、ネットに流出させると言われては拒否できなかった。
そうして穂波は章介の客となった。
いっときは死にたいと思うほどに思い詰めたが、章介はなんとか穂波に適応した。
そして月日は流れ、やがて章介に飽きたらしい穂波は店に来なくなった。それが死ぬほど嬉しかったのを今でも覚えている。
だがどうしたことか、その穂波が今目の前にいる。
いったい何が起こっているのかわからなかった。
「まったく、博子の奴人のもの横取りしようとしやがって。信用したこっちがバカだった。油断も隙もありゃしない……。アイツに食われてないよね?」
「………」
穂波が苛立ったようにブツブツ言う。
この男は、玉東での生活を地獄にした張本人であり、登楼のたびに章介のプライドをズタズタに傷つけた悪魔だった。お前は性玩具以外の何ものでもないのだと繰り返し刷り込み、章介の人間性を全否定した男。
そいつが、今目の前に立っていた。
「お前、なぜここに……」
「お務めが終わったんだよ。まったく、酷いところだった。何回死にそうになったか。民営化してからアメリカ並みに危なくなったって噂、本当だったんだな」
「服役、してたのか……?」
「はあ? ぶち込んだの君だろ? 『お友達』に頼んで。まったく、あんな裏切りをされるとは……」
「何のことだ? ってか、離せ」
強まった手の力に痛みを感じ、手を振り払う。そして背を向け、そこから立ち去ろうとしたところで背後から声がかかった
「菊野は元気にやってるようだね。ああ、今は議員なんだっけ。すっかり出世したよなあ、先生だなんて」
菊野は信が店にいた頃に使っていた源氏名だ。信と章介は同僚だった。
「……アイツには手を出すな」
「そう言われても、あんなことされちゃなあ」
思わず振り返ると、蛇のような目と目が合った。
「だから何の話だ」
「ああ、君もそういう嘘をつくわけだ。すっかり裏切られたよ。だけど逃げられると思った? お前は、おれのものだ」
再び腕を掴まれる。その握力の強さに、章介は眉を寄せた。
「さあ、一緒に来てもらうよ。あの女狐の正体を世間にバラされたくなければね」
「てめえっ、この期に及んでっ……!」
「世間はどう思うかな。有望な若手議員が男娼だったって知ったら。週刊誌もネットも大盛り上がりだろうなあ」
「どこまで腐ってんだっ、てめえなんか大っ嫌いなんだよ!」
「はいはい。口は相変わらず悪い、と。本当に男を煽るのがうまい。それで、来るの、来ないの? 二者択一だよ。でも君は結局来るだろ? お友達のために。まあ、拒否っても連れてくけどな」
「っ……!」
章介は拳を握りしめた。この男の触れた箇所から腐り落ちてゆくような気がする。どうしようもないぐらい気色悪かった。
しかし、その手を振り払うことができない。
「……飯塚さんは知り合いか?」
「ああ、いとこだよ。似てないだろ? 偶然君がいる会社の系列で働いてたから手引きを頼んだんだ。しかしいつまで経っても連れてこないから様子見に来てみたら案の定、だ。人のもの横取りしようとしやがって。これだから穂波の血は」
吐き捨てるように言った穂波のあまりの執念に血の気が引くのがわかる。
この男は本気だ。本気で章介を捕らえようとしている。
自分はまんまと罠にかかったのだ
「まだ食われてないよね? アイツ、あれで男攻めるの好きだから……。変態め。ねえ、答えて。アイツと寝てないよね?」
「そんなのどうでもいいだろ」
「よくない、よくないよ。章介のバックバージンは僕のものなんだから。あの拒食症のブスにもヤらせてないだろ?」
店に通っている頃瑞貴をよくそう評していたのを思い出して聞く。
「……瑞貴のことか?」
「ああ、そんな名前だったっけな。まさか抱かれてないよね?」
「さっきから気色わりぃんだよっ!」
章介は相手のあまりの下品さに耐えられなくなって叫んだ。
「放せ、もう帰る」
「ああ、そう。じゃあデイリー花月の記者に記事書かせるから。週刊潮流と、それからネットニュースもね。古賀先生との『親密な』間柄もトッピングしとけば大スキャンダルだろう。先生は失脚。菊野ももう日本にはいられないね」
そして穂波は懐から携帯を取り出し、おもむろに電話をかけ始めた。
「ああ、もしもし、僕だけど。例の記事、解禁するよ。範囲? 全部いいよ」
「ちょっと待て」
「ああ、党自体の問題になるかも……。でも構うことないよ。我々には関係ない」
「待てって言ってんだろ」
「ごめん、ちょっと待ってくれる?」
穂波は自分から携帯を取り上げようとする章介をうるさそうに見た。
「何か?」
「やめろ。いうこと、きくから……」
「嘘つきの言葉は信じられないなあ」
「頼む……」
屈辱に耐えながら頭を下げると、穂波は冷たい目でこちらを見上げた。
「もう僕に嘘つかない?」
頷くと、続けて命じる。
「じゃあ、証明して。チャンスは一回だからね」
章介は乾いた唇を舐めて言った。
「好きだ。迎えにきてくれて、嬉しい」
そしてキスをする。触れるだけのものだったが、すぐに舌が入ってきて背中にも手が回る。
壁に押し付けられて、されるがままになっていると、手があちこち触り始める。
生理的な嫌悪感に全身総毛だったが、抵抗をなんとかこらえた。
まさかここで最後まではやるまいな、と危機感を覚えるほど、愛撫は執拗だった。
永遠にも思える時間が過ぎたあと、章介はやっと解放された。
息をついていると、唇を手の甲で拭った穂波が言った。
「合格」
「………」
「ああ、もしもし、ごめん、さっきのなし。もうしばらく温めておくよ。うん、じゃあまた」
そして穂波は電話を切り、スマホをポケットに入れてにっこり笑った。
「じゃあ、行こうか」
穂波に先導されるままに店を出る。席に置きっぱなしの鞄を取りに戻ることすら許されなかった。
スマホと財布はそこに入っているから、連絡手段も金もない。どこかに連れていかれたら、助けを呼ぶことすらできないだろう。
だが逆らえるわけもない。
店の前で待機していたシルバーの車に乗ると、扉を閉められた。
胸中を、絶望が黒く塗りつぶしていく。
「いやー、本当に久しぶりだねえ。でも驚いたよ、全然変わってない。形状記憶っていうの? とても三十過ぎとは思えないよ。肌もすごく綺麗だ」
興奮して捲し立てるように言った穂波が手を伸ばして章介の頬を触る。
気持ち悪くて顔を背けると、首筋を撫でられた。
「っ……やめろ」
章介はその手を振り払った。だが、手は懲りずに何度も伸びてくる。
「何で拒否するの? 好きだって言ってくれたじゃない」
「そっちが言わせたんだろ」
「何だよそれ。嘘ってこと?」
途端に穂波が不機嫌になって手を上げる。頬を張られて章介は呻いた。
こういう風にすぐに手が出るところも変わっていなかった。
「………」
「違うよね? ずっと待っててくれたんだよね? あのブスは利用してただけだろ?」
「……そういう言い方をするな」
「なあ、そうなんだろ? もし違うんだったらあいつ殺すよ」
「っ……そうだ」
「はっきり言って。ちゃんと」
「瑞貴のことは……利用してただけだ」
「僕が戻ってくるまで?」
「そうだ」
すると穂波はにっこり笑って章介にキスをした。
「よくできました。じゃあ、この音声はあいつに送っとくね。じゃないと離婚にも応じて貰えないだろうし」
「なっ……!」
「なに? 何か問題でもあるの?」
「………いや」
「よかった。はい、送信完了っと。これで僕たち結婚できるね?」
「………」
「来るのが遅くなっちゃったの、新居を用意してたからなんだ。そこに今から行こう。ああ、待ちきれないなぁ、新婚生活。あ、家事はしなくていいからね。章介は僕の妻になるわけだけど、メイドは雇ったから。いい夫だろ? さ、再会を祝して乾杯しよう。はい、飲んで」
そう言ってシャンパングラスが差し出される。
それを見つめながら、こいつは狂っている、と戦慄した。
昔から多少おかしかったが、これほどではなかったはず。
会わない間に何かがあったのだ。
こんなのは正気の沙汰ではない。殺されるかもしれない。
人生でこれほどの恐怖を味わったのは初めてだった。
とにかく逃げなければ。車から降りなければ。
そう思い、ドアを開けようとする。だが、ロックされていた。
「くそっ」
「何してるの? ダメだろ。さあ飲んで」
「どこ行くんだよ」
「それはまだ内緒。サプライズで驚かせたいからさぁ。ほら飲んでよ」
そこに行けばおそらく戻ってこられない。そう直感した。
「トイレに行きたい。一回どこか寄ってくれ」
とにかくここから出なければと、その一心で言うと、穂波は意外にも頷いた。
そして、車内インターフォンで仕切られた運転席にいる運転手に言った。
「その辺のコンビニ寄って」
これでひとまず車から降りられる。ここから出られれば後は何とかなるだろう。
章介はほっとして、勧められるままシャンパンを口にした。
それが間違いだった。
飲んでまもなくして急激な眠気に襲われる。
「お前、飲み物になにか……」
それ以上は言葉にならなかった。
意識がどんどん遠のいてゆく。
しまった、と思った次の瞬間、視界が暗転した。