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 それからまもなくして、信は白銀楼にいる友人・鶴見章介を訪問した。
 彼はほぼ同期の傾城で、店にいた頃に最も親しくしていた相手だ。
 身長百八十センチを越す美丈夫で、店では短髪組と呼ばれていた、いわゆる女装をしない傾城だった。
 彼こそが、それまで同級生に姫扱いされていた信が初めて得た男友達だった。
 その章介がまもなく店を出る。
 章介は信より半年ほど遅く店に来たため、契約自体はあと二年半ほど残っているが、早まったのは落籍という形を取ったからだった。

 落籍というのは、契約満了前の傾城が所定の落籍料を払って店を辞めることだ。
 落籍料は莫大なため、滅多なことでは実現しないが、恋人の佐竹瑞貴の後押しで決まったようだった。
 瑞貴は、店の常連だった旧財閥系企業の重役の甥で、自身も若くして経営者として頭角を表した青年だった。
 元々は章介の客だったが、思いが通じ合って付き合うようになった。
 当時瑞貴と親しくしていた信は、その頃から二人を応援していた。

 それで今回のことでも前々から落籍の話を聞いており、章介の説得にも協力したので今日はそのお祝いに訪ねたわけだった。
 傾城落籍の日に催される別れの宴は一週間後だ。
 それで直前になって章介が翻意しないよう念押しする意図もあったため、森を説得して玉東に連れてきてもらったのだった。

 東京玉東ーー二十世紀後半に郊外の山中に造られた和風の歓楽街。
 吉原をモデルに造られたここでは、和装姿の人や花魁が行き交い、碁盤の目状の区画には障子窓の楼閣が立ち並ぶ。
 そうして春には桜並木が、冬には雪化粧をした枝垂れ柳が遊客を歓迎する。
 さながら江戸にタイムスリップしたような花街、それが玉東だった。
 その入り口には、真紅の大門がある。
 店にいた頃は客の見送りで毎日のようにこの大門と店を往復していた。
 何百回往復したかわからぬその大門から店までの道のりを逆向きに歩くのは初めてで新鮮だった。
 自らの意志でここに来る人たちはなるほどこういう気持ちなのか、と思いながら森と並んで歩いていると、やがて目的地が見えてきた。

 その店は、不夜城・玉東の中でもひときわ明るく輝いていた。
 白銀楼ーー玉東の中で数少ない男の花魁を擁する店で、紅霞通りの東側に位置する、見上げるような和風建築の楼閣。
 ベンガラ色に塗られた柱に提灯の灯された軒先、張見世の格子の向こうに待機する着飾った傾城たち、呼び込みの必要もないとばかりにただつっ立っているだけの若衆、通りに面した自室の障子窓から物憂げに通りを行き交う遊客たちを見おろす花魁たち――何から何まで変わっていなかった。
 五階建ての楼閣を見上げて、ほう、と息をついていると、不意に声をかけられた。

「すっかり変わったなあ」

 声がした方を見ると、灰色地に紺の線が入った着流し姿の男がこちらを見ていた。

「隅田さん」
「一瞬誰かと思った。サッパリしたな」

 声をかけてきたのは当時比較的懇意にしていた見世の用心棒、隅田だった。体格はそれほどでもないが、体術の心得があって、とにかく一度捕まったら絶対に逃げられない相手として傾城たちには恐れられていた。折檻が誰より痛かったのを覚えている。
 しかし、遣り手に歯向かって問題ばかり起こしていた信を目の敵にすることもなく、友好的に接してくれた数少ない若衆のひとりでもあった。

「髪切ったんですけど、どうですか?」

 傾城だった頃長く伸ばしていた髪は、落籍の際に切っていた。

「自然でいいな。来た頃のことを思い出す。森さん、こんな問題児同伴して大丈夫ですか?」

 森に水を向けた隅田に、彼は苦笑して言った。

「あんまり大丈夫じゃねえけど、可愛くおねだりされたんでな」
「お前うまくやってんなー」

 隅田はちょっと呆れたように信にそう言ってから、森に向き直った。

「ちゃんと監視しといてくださいよ。店をひっかき回されちゃたまんない」
「まあ今回は平気じゃねぇかな。友達の顔見たいだけみたいだから」

 森がそう言っても隅田は疑わしげな表情のままだった。

「そうだといいですけどね……」

 鋭い隅田に余計なことを悟られないうちにと、信は森を促して白銀楼の中に入った。

「「「いらっしゃいませ」」」

 暖簾をくぐるなり、待ち構えていた従業員や傾城たちが一斉に首を垂れた。
 入り口付近にずらっと並んだ男たちに若干気圧されながら、信は森と共に三和土を進んだ。

 その途端に張りつめた空気が漂い、視線が突き刺さる。お大尽に引き取られた身分で再び暖簾をくぐったのだから当たり前だった。
 傾城は店を出たら基本的に再び敷居をまたいではいけない、という暗黙のルールがある。
 それはあまりにも無粋というのがその理由だった。
 それを破ったのだ。非難されて当然だった。
 しかし禁を犯してでも、章介と会いたかった。

「いらっしゃいませ。本日はご指名頂きありがとうございます」

 上がりかまちのところでニ人を待っていたのは、黒い着物姿の章介だった。
 彼は別れたときと寸分たがわぬ姿で首を垂れていた。黒々とした髪はすっきりと短く、清潔感がある。
 久しぶりに会えた嬉しさで信は自然笑顔になったが、相手の顔はこわばったままだった。
 いったい何をしにきたのかと顔に書いてある。

「森様、お待ちしておりました。菊野も……今は違うか……久しぶりだな。ささ、どうぞ奥へ。『桂』をお取りしてあります」

 ここで遣り手の小竹が登場した。
 遣り手は店を回している支配人である。
 儲け主義で従業員の待遇を全く考えないこの中年男と稼ぎ頭の信はたびたび対立していた。相当嫌われていたはずだ。
 遣り手は信には目もくれずにもみ手をしながら森にすり寄り、座敷に案内し始めた。
 その相手に森が謝る。

「今日はすいませんね、無理いっちゃって。この子がどうしても来たいっていうもんで」
「いえいえ、全く問題ございません。いつもご贔屓にして頂いている森様の頼みですから」

 この調子だとだいぶ積んだらしい。信は森に心の中で感謝しながら、章介と並んで歩いた。
 三人は遣り手の先導で廊下の奥まで進み、つきあたりにあるエレベーターに乗ると、五階に向かった。『桂』は白銀楼最上階にあるVIP用の大座敷で、そこを利用できるのは限られた人間だけだった。

 遣り手は全員をエレベーターにのせると最後に中に乗りこみ、階数ボタンを押して戸を閉めた。
 おそらく芸者や他の傾城たちはもう座敷で待機しているのだろう。
 遣り手はドアが閉まってエレベーターが動き出すと、森におべっかを使い始めた。
 信はそれを聞くともなく聞きながら、隣に並び立った章介を見上げて言った。

「あの、久しぶり」
「……ああ」

 会話はそれきり立ち消えになる。
 会うのが久しぶりすぎてぎこちない感じだ。
 でも話せたのがとても嬉しかった。
 まもなくエレベーターは目的階に到着する。
 四人はエレベーターを降りて座敷に向かった。
 そうして遣り手が襖を開ける。
 すると、新造や禿たちがずらりと居並んだ広々とした空間が目の前に広がった。
 白銀楼の中のどこの部屋よりも広い五十畳の特別室は、この日のために集められた芸者や傾城、新造、禿たちでいっぱいだった。

 中に入ると、何人かが不意に頭を上げて、こちらに笑いかけてきた。彼らは、信がかつて可愛がっていた見習いの子たちだった。そのうちの何人かは一本立ちしたらしい。
 最後まで見守ることができなかったことに申し訳なさを感じつつ、信は曖昧に笑い返した。

「さーて、パーッと遊ぶか! 酒持ってこーい」

 森は席に着くなり叫んで、おひねり目的でザザッと周りに集まった傾城たちとわいわいやりだした。
 一応指名された手前、章介が隣で控えていたが、森のノリについていけずに固まっている。
 それに既視感を覚えながら集まった傾城たちと世間話をしていると、やがて森が禿たちとゲームを始めた。

 それでようやく二人だけで話せるようになる。
 信はさりげなく席を外した章介の後を追って廊下に出た。
 すると案の定章介が廊下の奥の方のひとけのない場所で待っている。
 腕組みをして窓から外の景色を眺めていた章介は、やってきた信を見た。
 表情は硬いままだ。そうして低い声で聞いた。

「何かあったか?」
「ううん。ただお祝いしたくて。おめでとう。ちょっとだけどこれ」

 そう言ってジャケットの内ポケットから包んだアウトドアショップの商品券を出すと、章介は中身を見て言った。

「こんなのいいのに」
「何がいいのかわからなかったからそれにしたよ」
「悪いな」

 三度の飯より山登りが好きだから、外に出たらきっと登山道具が必要になるだろうと思ってアウトドアショップの商品券にした。
 が、少し味気なかったかもしれない。

「来週だってね」
「ああ。瑞貴が迎えに来る」
「本当におめでとう。すごく嬉しいよ」

 すると、章介は表情を緩めた。

「まあ、金は一生かけて瑞貴に返すけどな」

 落籍料のことを言っているのだろう。

「そんな必要はないと思うよ。ただそばにいてあげればいいと思う」
「でもそういうの嫌じゃないか? 足向けて寝られないというか……」
「章介を『買った』つもりはないと思うよ。そういう子じゃない」

 その言葉に章介が目を見開く。図星をつかれたようだった。

「けど、形式上そうだろ……」
「そうかもしれない。でも信じてあげなよ。そういうので縛りつける子じゃないだろ?」
「まあ、それもそうだな。俺の考えすぎか」

 店にいた頃も出てからも、瑞貴とは懇意にしている。
 それは、彼が章介と信の仲を取り持ってくれたことがあるからだ。
 一度大喧嘩をして口もきかなくなったときに和解のきっかけを作ってくれたのが、この瑞貴という青年だった。
 瑞貴は純粋で一途でいい子だった。だからこそ章介の客の中でただ一人その心を射止めたのだろう。

「ただ早く一緒になりたかっただけだと思う。それに、幸せになってほしいって言ってた」
「そうか……」

 瑞貴は、章介がまだ見習いだった頃に店に来た客だった。
 常連である叔父に連れられて座敷に上がった時、そこに偶然いた章介に一目惚れしたらしい。
 章介はもともと女性にしか興味がなかったから、そこから多少紆余曲折あったが、今は恋人同士としてうまくやっているようだ。
 信はそんな二人をそばで見てきて、常々応援したいと思ってきた。
 瑞貴は客だった頃から章介に尽くし、支えてきたし、章介の方でもそのことをわかって可愛く思っていたようだったからだ。

 だから、今回の落籍は信にとっても大きな意味があった。
 瑞貴は純粋に章介を愛し、幸せにしたいと思っている。そしてそれを、簡単ではない落籍という形で実現し、章介を玉東から解放した。
 章介からしてみればこの上ない相手だった。
 章介の方も義理堅いので、この先瑞貴を裏切ることはない。
 二人はうまくいくだろう。
 信はそんなことを思いながら章介と近況報告をし合い、座敷に戻ったのだった。


 その一週間後、瑞貴は章介を落籍した。
 そうして章介は瑞貴の叔父の会社に入り、瑞貴と一緒に暮らし始めたのだった。